新天地 三
松坂は、張り切っていた。
頭の釘を抜き始めてから食欲も戻り、仕事もてきぱきとこなせるようになって、ついには自分の企画が採用され、ムック本の一コーナーを丸々任せてもらえるようになった。
ラフの作成や取材、ライターやイラストレーターとの打ち合わせ、原稿の校正やSNSのアカウント更新など、やることはどっと増えたが、これも出世の足がかりになるのだと思うと、やる気がむくむくと湧いてきた。あんなに嫌だった会社に、今や自分から行きたいとまで思うのだから、不思議なものだ。
釘を抜くことはすっかり松坂の生活の一部になり、週に一回ほど、松坂は終業後に出門のもとを訪れていた。予約さえ取っていれば、二十四時間対応してくれることも助かっていた。
次第に、松坂が会社に泊まる日数も増え、作業が詰まって釘を抜きに行ける時間もなくなってきた。予約さえ取ればいつでも行けるのだが、時間が空くと自分の担当しているページのことが気になってしまい、ついそちらを優先してしまう。
あの建物までの距離を往復するのでさえも時間がもったいなく感じてしまい、まだ行かなくても大丈夫だろうと
「松坂くん、大丈夫? 最近また顔色悪くなったんじゃない?」
女上司になにげなくそう言われ、トイレの鏡で慌てて自分の顔を確認すると、いつかシャワー室で見た時のように目の下にはうっすらとくまができ、白目がやや充血していた。
自分の顔を見つめながら、松坂は考えた。
出門が言うには、抜ける釘の上限は三本。それしか抜いてもらえないのでは、自分はこの先も、死ぬまであの建物に通い続けなければならない。
なんとかして、釘を一気に抜いてもらえないだろうか。
「――それは、できない相談ですね」
松坂の質問に、出門はそうきっぱりと言い放った。予想はできていたことだが、なぜできないのかと理由を尋ねても、出門は申し上げられませんの一点張りだった。
仕事の合間をなんとか縫って、松坂はようやく釘を抜きに来ることができた。が、締め切り日前で多忙を極めていたので、次にいつ来られるかはわからなかった。
「やっぱり、何か隠してることがあるんじゃないですか。誰かに言われて釘を集めてるとか、抜き続けていると俺たちがとんでもないことになるとか」
「……とんでもない? どういうことでございましょう」
松坂は、その先を答えることはできなかった。
「……自分で釘を抜く方法を、教えてもらうわけにもいかないんですか?」
「それは、企業秘密です。すべてのお客様にその方法を教えたら、わたくしは商売あがったりですよ」
出門はそう言うと、愉快そうに笑った。出門の言う通りだ。それに、出門は見た目に反して意外とざっくばらんに話してくれるので、松坂はここでの会話を楽しんでいる
――仕方ない、か。
松坂はその日も釘を三本きっちり抜いてもらい、会社に戻った。
その後も松坂は、ほぼ休まずにあくせくと働いた。我孫子からメッセージが来ていることもわかっていたが頭がいっぱいで見る気になれず、入稿まで一週間に迫ったある日のことだった。
松坂が仮眠を取ろうと会社のソファーで横になると、スマートフォンが鳴った。ライターからの電話かと勘違いをした松坂は、つい画面を見ないまま電話に出た。
『……松坂くん? よかった、やっと出た』
電話口から、口をすぼめて声を作っているような女性の声がした。
それは松坂の彼女である、
『電話もメッセージも送ってたのに、全然返してくれなかったじゃない。……私たち、まだ付き合ってるんだよね?』
「……う、うん。ごめん」
どう答えて良いのかわからず、松坂は適当に返した。
高崎とは大学卒業後からの二年の付き合いだが、松坂は今となっては、高崎のことが好きなのかそうでないのかよくわからなくなっていた。会いたくないのだから、どちらかというと好きではないのかもしれない。
松坂の心情を知ってか知らでか、高崎はわざとらしく、明るい声で続けた。
『私ね、松坂くんに大事な話があるんだ。今度会ってくれない?』
――高崎と最後に会ったのは、一ヶ月ほど前だっただろうか。松坂が出門と知り合うよりも少し前のことだ。それ以降は連絡が来ても返すのが
せっかく仕事が、軌道に乗っているというのに。
松坂は電話を受け、まるで邪魔をされたような気分になっていた。
次に澪に会う時は絶対に、お互いの今後について話し合おう。
――そう思いながら、松坂は仮眠用のブランケットにくるまった。
入稿は無事に終わり、松坂は久々に数日の休みを取った。釘を抜く予約をしよう、我孫子にも連絡しようなどと考えを巡らせてはいたものの、いまいち気力が湧かずに結局何もできないまま、あっという間に高崎と会う日になっていた。
電話での様子とは違って、高崎は暗い顔つきで、喫茶店でアイスティーを頼んだっきり、うつむいて押し黙っていた。
「あのさ、澪。俺……」
「私、子供ができたの」
自分の言葉を遮られ、澪の口から出てきたその言葉に、松坂は、突然稲妻に打たれたような衝撃を受けた。
「え?……なんで?」
頬をひきつらせて半笑いのような表情になりながら、松坂は尋ねた。
「なんでってことはないでしょ。……一ヶ月前にしたこと、忘れたの?」
高崎は信じられない、とも言うような顔つきで、松坂を見た。
――松坂の頭の中に、出門の言葉がよみがえってきた。
『――人間の脳には、記憶の優先度があると言われています。感情と記憶は結び付いており、自分が必要だと思うものから記憶していく。逆を言えば、必要がないものから忘れていくわけです。ですから多少の物忘れがあったとしても、その人にとって優先度が高い記憶は、きちんと取っておかれる――たとえ釘を抜いたことによって物忘れがあったとしても、重要な記憶が消えることはありません』
「……ねえ、どうしたの? なんか最近ぼうっとしてばっかりだし。松坂くん、ちょっとおかしくない?」
自分の腕を取ろうとする高崎の手を、松坂は思わず払いのけた。
「……あ。ご、ごめん」
「……私たち、ちゃんと結婚できるよね?」
松坂は自分の頭の中に、大量の釘が埋め込まれていく様を思い描いた。
こんこん、こんこん、こんこん……。
――誰かが金づちを持って、松坂の頭に次々と釘を打ち込んでいく。
「……うるさい」
「……松坂くん?」
こんこん、こんこん、こんこん、こんこん……。
「うるさいうるさいうるさい、うるさい!」
松坂は耐え切れなくなり、両手で頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
松坂は廊下を早足で歩き、施術室のドアを勢いよく開いた。マッサージベッドの横に立って釘抜きを手にしていた出門は、目を見開いて松坂のほうを向いた。ベッドには、サングラスをかけた女性が横たわっていた。
唖然としている出門と女性をよそに、松坂はベッドのほうへずかずかと歩み寄った。
「松坂さん、どうなさいましたか。今日の予約は入っていませんが」
釘抜きをワゴンの上に置き、出門は落ち着き払った様子でそう言った。
「……今から、釘を抜いてくれ」
「は?」
出門は耳を疑った。松坂の目は、何かに取り
松坂は自分の頭を指し、
「俺の釘を今すぐ抜け。……早く」
「他のお客様がいらっしゃいますので、そのようなことはいたしかねます」
「……いいから、抜け!」
松坂はそう言うと、ズボンのポケットからナイフを取り出し、出門の喉元に当てた。
客の女性は悲鳴を上げ、身を起こした。松坂は女性を横目で見て、
「……部屋から、出て行け」
と、扉を顎で指した。
女性は震えながら、慌てて施術室から出て行った。
「どうして急に、このような手荒な真似をされるのですか。わたくしたちは良好な関係を築けていたとばかり……」
「お前には関係ない。早く抜け」
松坂はそう言うと、出門の喉元にナイフを当てたまま、マッサージベッドに腰かけた。
「……」
出門は黙って釘抜きを手に取り、松坂を見た。松坂は息を荒くし、興奮しきっていた。
出門は溜め息をつき、釘抜きを松坂の後頭部に当てると、釘を三本抜いた。
付近にトレーがなかったので、出門は抜き終わった釘を床の上に落とすしかなく、ことん、と小さな音が鳴った。
「……終わりました」
出門がそう言うと、松坂は出門を横目で睨みつけた。
「……もっと」
「え?」
「もっと抜け!」
松坂はそう言うと出門の体を抑えていた左手を放し、自分の髪の毛をぐしゃぐしゃにした。
「釘を大量に抜く行為には、大きな副作用が
「うるさいな。早くしろ」
「ですが……」
「こうやって話してる間にも、俺の頭の中に釘を打ってるやつがいるんだよ。間違いない、音がするんだ」
松坂はぜいぜいと息を切らせ、苦しくてたまらないといった様子でそう言った。
「音が聞こえる、などということは……」
「早く抜けよ!」
松坂が怒鳴ったので、出門は観念した。
「……どうなっても、責任は取れませんよ」
松坂は、興奮したまま軽くうなずいた。
――松坂の頭の中から、出門は次々と釘を引き抜いた。
床には、大量の釘が散らばり――
ついには、百本あまりの釘が、二人の周りに散乱していた。
「……ああ、すっきりした」
松坂はようやく満足し、体の力を抜いた。
出門は何も言わず、
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