無痛 二

「……ただいま」

 練習が終わってアパートに帰ってきた穂香は、手を洗ってからすぐにクローゼットの前に向かい、扉を開けた。近頃はすっかり、これが日課になっていた。

 クローゼットの奥を覗いて、穂香は安堵した。

 ――朝見た時から何も変わってないから、きっとまだ大丈夫。

 穂香は、薄茶色のソファーに横になり、ぼんやりと考えた。

 私はいつまで、このままでいられるんだろう。

 次に、出門の顔を思い浮かべ、出門が言っていたことを思い出した。

 万が一、誰かがこれに触れることがあったら、あなたの身に何が起こるかは保証いたしかねます――。

 それでも良かった。私は、どうしても試合に勝ちたかったから。

 穂香は、亡き父のことを思い出した。悔しげな顔で自分の手を握りながらこの世を去った、父のことを。

 いくら練習しても試合に勝つことができずに父を失望させてしまった、昔の自分のことも。

 けれど、今となっては――そんな自分は、もうどこにもいない。

 穂香はトイレに行くと、血にまみれた紙ナプキンを新品の物と取り換えた。

 あんなにわずらわしかった生理痛も、今は血が出ていると思うだけで何も感じない。月に一回の憂鬱ゆううつを取り除くだけでも、出門にもらったものは格段に役に立った。自分が普段から些細ささいな体調の変化にどれだけ悩まされていたか、今回のことを通じてあらためて思い知った。

 穂香はふたたびソファーに横になると、リングの上でうろたえている薫の姿を思い出し、うっすらと笑みを浮かべた。


 我孫子はまず、穂香と同じ学科の生徒に話を聞いていくことにした。

 我孫子は穂香と同じ大学の先輩のていを装い、他の生徒たちに聞き込みをしていた。さすがに大学の全生徒を把握している生徒は少なく、穂香の周囲の生徒とかぶらないような学科の設定にしてしまえば、生徒たちからは怪しまれず、すんなりと話を聞くことができた。

 穂香は物静かで、自分の話をあまりしない性格のようだったが、何人かに話を聞くと、同じ学科の男子学生と付き合っていたことがわかった。

 我孫子は、穂香と付き合っていた男子学生――多田ただ亮介りょうすけに、話を聞くことにした。

 多田は今時の若者らしい恰好をしていたが、礼儀や話し方はしっかりしていて、凛としたたたずまいの好青年だった。当たり障りのない話を少しして、我孫子はいよいよ、本題について切り出した。

「多田くんって、穂香さんと付き合ってたらしいじゃん。あの子ってどんな感じなの?」

「……ひょっとして先輩、穂香のこと狙ってるんすか?」

 多田は急に真面目な顔つきになり、我孫子を見つめた。

「ううん、どうかな。考えてるから、話を聞きに来たんだけど」

「……」

「もしかして、まだ引きずってる?」

 深刻な顔で黙り込んでいる多田を見て、我孫子はそう尋ねた。

「引きずってるっていうか……」

 話が長くなるからと言われ、我孫子と多田は学生食堂に場所を移した。

 多田は辺りを見回して穂香の知り合いがいないかを確認してから、声をひそめ、

「これは、俺の勝手な想像ですけど……多分、あの子、病気なんですよ」

「えっ、どういうこと?」

 ようやく聞きたい話が聞けそうな気配がしたので、我孫子は興味を持ったふりをした。

 多田がしたのは、こんな話だった。

                   *

 

 穂香と多田は、ごく普通の大学生らしい付き合い方をしていた。

 穂香は地味で大人しく、性格も明るいとは言えなかったが、顔はそこそこに可愛いし、わがままも言わない。むしろ控えめすぎるぐらいで、主体性がないと言えばそうだが、多田は比較的はっきりした性格だったのであまり気にならなかった。

 ボクシングの試合を応援しに行こうかと多田が申し出たこともあったが、穂香はどうせ勝てないからと見られることを極端に嫌がったので、実際に行ったことはなかった。

 ――最初に違和感を覚えたのは付き合って一ヶ月半が経った頃、穂香のアパートで料理を作ってもらっている時だった。

 穂香はボクシング漬けだったので料理はほとんど母親がしていたらしく、この日のためにハンバーグを作る練習もしていたので楽しみだ、と言っていた。 

「えっ……ちょっと、どうしたの?」

 トイレから出てきた多田が目にしたのは、まな板の上で左手の人差し指から血を流している穂香の姿だった。

 人差し指がぱっくり裂けているにもかかわらず、穂香はそれをまったく気にしない様子で、ハンバーグの付け合わせにする予定のキャベツの千切りを続けていた。そのせいで千切りの一部は、少し血に濡れてしまっていた。

「あっ……」

 多田に言われて初めて気付いたかのように、穂香は人差し指のほうに視線を下ろした。

「ごめん、ぼうっとしてて。ちょっと切っちゃったみたい」

 穂香は控えめにそう言うと、切った部分を隠すように多田に背中を向けた。

「ちょっとじゃないでしょ。早く止血しないと」

 多田は穂香の手を取ると傷口をティッシュで押さえ、すばやく止血をした。

「……ありがとう」

 穂香は、小さく微笑んだ。


                   *

 

「つまり、穂香さんが不器用ってこと?」

「んなわけないでしょ。…まあ、たしかに今の話だけじゃ、そう思われても仕方ないか。俺と付き合い始めの頃、穂香は血が苦手だったんすよ」

「血が……」

 多田はうなずき、

「自分の血でも、俺の血でも、ちょっと見たら卒倒しそうなぐらい顔が真っ青になって。指を包丁で切ろうもんなら、間違いなく『きゃあ』とか叫んじゃう子だったんすよね。試合中は、頑張って我慢してたみたいですけど。……なのにその時は、自分が指を切ったことに気付いてもまったく平気な顔をしてて。……まあ、この話だけだったら、克服したのかなって思うだけっすよね」

「……ってことは、他にも?」

「……」

 多田はうなずき、二人が別れるきっかけになった出来事を話し始めた。

 

                   *


 その日、多田は練習後の穂香と待ち合わせてデートに出かけ、そのまま二人でスカイツリーや近辺の商業施設を歩いて回った。その間、穂香には痛がっている様子も、気分が悪くなるような様子も何一つとして見られなかった。

 帰ってきてから穂香のアパートでのんびりしていると、ワンピースの裾の下から穂香のふくらはぎがちらりと見えた。あざのようなものが見えた気がして、多田は穂香に、ふくらはぎを見せてくれと頼んだ。

 穂香は渋々、くるぶしまである長さのワンピースをめくった。

 ――その足を見て、多田は愕然がくぜんとした。

 ふくらはぎの裏側が、青紫色に変色してぱんぱんに腫れていたのだ。

「たぶん、スパーの時に踏み込みすぎちゃったんだと思う。ほっとけば治るよ」

 私が下手だから、と言って苦笑いをしながら、穂香はそう言った。

「……これ、ほんとに痛くなかったの?」

「大丈夫だよ。多田くん、大げさ」

 穂香はそう言って笑ったが、素人目にもとても軽傷とは思えなかった。

 渋る穂香をなんとか説得してから病院で診てもらったところ、ふくらはぎの肉離れとのことだった。医者は目を丸くして、「この症状でよく歩けましたね」と言っていた。あと少しで重症化して、全治に三ヶ月ほどかかるところだった、とも。

 穂香は終始、気まずそうな顔をして黙っていた。

 ――実はもうこの時点で、多田は漠然ばくぜんと、穂香には痛覚がないのではないか、と疑っていた。体に触れられたことには気付いているので、触覚はあるのだろう。にわかには信じがたい話ではあるが――穂香には、

 途端に多田は、穂香に畏怖いふの念を覚えた。

 もし病気だとしたら、そう思うのは失礼なことだとわかってはいたが――痛みを感じない人間が一体どういう心理状態なのか、多田にはとても想像がつかなかった。


                   *


「俺、そのあとネットで調べたんですよ。先天性無痛無汗症って、痛みを感じない難病もあるみたいで。その病気は汗もかかないみたいだから、違うかもしれないっすけど……とにかく穂香は、何か重大な病気にかかってるんじゃないかって思ったんです」

「そのことについて、穂香さんと直接話さなかったの?」

 多田は顔をしかめ、

「……そもそも俺が穂香に別れようって言われたのは、病院に行った次の日に、病気を疑うような話を切り出したからなんです。とりあえず検査だけでも受けないかって言ったんだけど……すっごく嫌がられて、そのまま喧嘩になっちゃって」

 そう言うと、首をうなだれた。

 つまり、穂香は――自分が痛みを感じない理由を、恋人にすら隠したかったのだ。

 自分の病気のことを話したくない人もいるので、多田からすれば、穂香が嫌がるようなことをしたと反省したかもしれない。

 だが、その症状には――おそらく出門がかかわっている。仮に病気だったとしても、人に治せるものではないだろう。

 我孫子は多田に礼を言うと、その場をあとにした。

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