不死の病 三

「――俺さ、ずっと死ぬのが怖かったんだ」

 燃え盛る火を背景に、倉持はそう言った。

「中学一年生の頃、親父が脳梗塞で死んだ。自宅で倒れて、あっという間だった。昨日までぴんぴんしてた人間が、こんなにもあっけなくこの世からいなくなるんだって、そう思った。……べつに、親父のことが特別好きだったわけじゃないけどな」

 倉持はそう言うと、ふっと笑った。

「それからはずっと、いつかは自分も死ぬんだ、親父と同じように、って――そのことばっかり考えてた」

 倉持はタバコを取り出し、ライターで火をつけた。

「……だったらそんなもの、やめればいいのに」

 梶井がタバコを顎で指すと、倉持はかすかに笑った。

「脳梗塞の原因にはなるけどな。これは、ストレス緩和には欠かせないんだよ」

「……」

 梶井はタバコを一口吸うと、大きく煙を吐き出した。

「『済』に入った理由も、ここにいれば、自分が死ぬことなんて忘れてるような平凡な人間とは違う人間と話せて、死への恐怖を乗り越えるきっかけができるんじゃないかって――ちょっと期待してたんだよ」

「……それで、結局どうだったの?」

 梶井が尋ねると、倉持は首を横に振った。

「まったく逆だった。あいつらは普通の人間よりもずっと、死ぬこと自体を恐れてなくて――命を棒に振るような、滅茶苦茶なことばっかりしてた。……だから俺は、一時いっとき『済』から抜けようと思ってたんだ」

「だったら、なんでこんなことに……」

 倉持は、笑みを浮かべて語り始めた。


                  *


 ――それは、二ヶ月ほど前のこと。

 倉持はいつも通りメッセージをもらって、とある少女の自宅へと向かっていた。

 少女の名前は、星野ほしの莉子りこ――。年齢は教えてもらえなかったが、市販薬の大量摂取が習慣になっており、幻覚を見て、歌舞伎町の道ばたで暴れているところを見たこともあった。それ以外はあくまで普通の、高校生ぐらいの少女だった。

 少女の自宅は歌舞伎町から少し離れたところにあり、少女は彼氏と同居していたが、彼氏はホストで、自宅にはほとんど帰っていないらしかった。

 莉子は倉持のことを気に入っていて、彼氏が構ってくれないので、倉持を誘うような素振そぶりを見せることもしばしばあった。倉持は毎回その誘いを拒否していたが、その硬派さが莉子をよけいに夢中にさせていた。彼氏はどうせ帰ってこないからと言って、家の合い鍵まで渡される始末だった。

『今までありがとう。さようなら』

 こんなメッセージが来た時も、倉持はまた例の狂言だろうとたかくくっていた。莉子のことが心配でないわけではなかったが、似たようなメッセージを五、六回も受け取ったことがある身としては――命に関わる用件で人をもてあそんでいる莉子のことを、軽蔑してすらいた。

 そんなわけで、倉持が莉子の自宅を訪れたのは、メッセージを受け取ってから一日後のことだった。

 ――莉子の自宅に入って、倉持は愕然がくぜんとした。

 莉子は、本当に死んでいた。

 部屋の真ん中には莉子の死体があり、すでに腐敗が始まっていて、周囲にはえがたかっていた。

 莉子の隣には、市販薬の空き箱が大量に転がっていた。百箱以上はあっただろうか。死にたくなった時のために薬を溜め込んでいるとは聞いていたが、ここまでの量だとは思っていなかった。

 倉持はしばらく死体を見つめていたが、その時、恐ろしい考えが頭をもたげた。

 せっかく出会えた死体を、――。

 そして倉持は、莉子の死体を連れたまま、廃墟と化したガレージを探し当て、初めて人を食べた。


                  *


八百比丘尼やおびくにの話もあれば、ミイラが薬として使われていた時代もある。人の肉が霊薬たりえたとしても、べつに不思議なことじゃない」

「……どっちにも、医学的な根拠はないだろうけどね」

 倉持はふんと鼻で笑うと、

「なくて当たり前だろ。実証した人間がいないんだから」

「じゃあ叔父さんは、それを証明したいってこと?」

 倉持は黙って首を振り、

「……俺はただ、死にたくないだけだ」

 二人は沈黙した。ドラム缶から、火のぜる音だけがぱちぱちと鳴っていた。

「……叔父さん、おかしいよ」

 梶井がつぶやくと、

「おかしいのは、どっちだと思う?」

 倉持は、微笑を浮かべながら尋ねた。

「俺は道を歩く時、ずっと背後を意識してる。突然刺されたり、襲われたりする可能性があるからだ。他人が近くに来ると、そいつの様子がおかしくないか、凶器を持っていないか――さりげなく、目で確認する。死にたくないから」

「……」

「……けど、たいていの人間は、自分が死ぬ恐怖を意識から排除して過ごしてる。まあ、それももっともだ。常に意識してたら恐ろしすぎて、現実の問題に対処できないからな」

 遠い目をして、倉持はそう言った。

「……だけどそれは、一生逃れられない事実なんだ。俺たちはいつか、絶対に死ぬ。意識はなくなり体の自由は奪われ、焼かれて、土の下に骨だけが埋められる」

「……だからと言って、死体を食べる理由にはならないだろ」

「……お前にとっては、そうなのかもな」

 二人の間に、ふたたび静寂が流れた。

「試しに、食ってみるか?」

 倉持は、左手が刺さった金串を梶井に差し出した。

「え、だってこれ、腐って……」

「腐り切ってはないよ。焼いたから大丈夫」

 梶井はなぜか、はっきり断ることができなかった。死体を食べることに不老不死の効果があるとはさらさら思っていないが、こんな気持ちになるのは恐怖か、好奇心からなのか――。

 鼻先から、醤油の匂いがする。その匂いで覆い消されて、実際の人肉の匂いがどういったものかはよくわからなかった。

 ――梶井は左手をほんの少し齧り、ふたたび盛大に嘔吐した。

 倉持は声を出して笑うと、

「頭は良いけどちょっと臆病なんだな、裕斗は」

 そのまま、体を折り曲げて苦しそうに吐いている梶井の姿を愉快そうに見ていた。


 掛橋が『済』に入団してから二日経ったが、捜査は一向に進展していなかった。

 事務所には入団希望の大学生が何人か来ただけで、あれ以来、倉持と梶井に会うこともなかった。渡辺に尋ねると、メッセージで連絡を取り合ってるから問題ないだろう、と言われた。

「あっ、掛橋さんじゃん」

 道にたむろしている少年少女に声をかけていると、掛橋は輪の中に見知った顔を見付けた。

 掛橋に手を振って近付いてきたのは、依頼者である横山だった。横山は今日は髪の毛を白色のリボンでツインテールに結び、胸元にピンク色のリボンが付いたフリルの黒いワンピースを着ていた。

「前に会った時と、ずいぶん雰囲気が違いますね」

「え? ああ、うん……ちょっとね」

 横山は自分の見た目には触れてほしくなかったらしく、掛橋から目を逸らした。誤解を与えたくなかったので、掛橋もそれ以上は何も言わなかった。

 ――その時、掛橋は、群衆の中に留美に似た人の姿を見たような気がした。

「……掛橋さん? どうかしたの?」

 掛橋は我に返ると、

「あ、ああ、すみません。ちょっと、知り合いに似た人を見かけたので」

 慌てて首を振り、横山に向き直った。

 たとえ、土屋がいたとしても――あの出来事は、すでに終わったことなのだ。

「……どう、リコは見付かりそう?」

「それが……今のところ、まったく手掛かりが掴めてなくて」

「そうだよね。しょうがないよ。まだ二日しか経ってないんだし、あたしは気長に待ってるから」 

 肩をぽんぽんと叩かれ、掛橋はなぜか依頼人に励まされていた。

「そういえば、横山さんも『済』の人と話したことがあるんですよね?」

「まあ、ちょっとはね。前にも言ったけどあたしはあそこの人たちが苦手だから、リコほど交流はなかったけど」

「リコさんがよく交流してた人の名前とか、わかりませんか?」

 横山は考え込むような仕草を見せ、

「ううん、あたし馬鹿だからあんまり覚えてないなあ……あ、でも」

 ふと、思い付いたように顔を上げた。

って人の名前は、よく呼んでた気がする。リコのお気に入りだったから」

 ――ひでゆき。倉持英之か。

 掛橋は、倉持のことをすぐに思い出した。

 というのも、掛橋は事務所で会って以来、倉持のことが少し気になっていた。倉持の容貌ようぼうは一見すると爽やかだったが、笑い方に人間味がなく、それを無理して隠しているようなちぐはぐな印象の男性だったからだ。

 掛橋は横山に礼を言ってから事務所に戻り、棚からピンク色の表紙のファイルを探した。

 見付かったそのファイルの中には、倉持がかかわっているとおぼしき相談者の名前と連絡先がずらりと並んでいた。

 その中に――星野莉子という少女の名前と、連絡先があった。


 梶井は立ったまま、遠くから交番の中を見つめていた。

 デスクの奥に警察官が座って、書類を記入していた。

 ――俺が今からあそこの警官に叔父さんのことを話せば、きっと叔父さんは逮捕されるだろう。たとえ殺していなくとも、死体を損壊することは、おそらく罪に問われるはずだ。

 梶井は作業台の前に立って、どこか愉しげに笑みを浮かべながら死体を鉈で切り落としている倉持の姿を思い出していた。

 だが、もしも叔父さんの罪が露呈した場合――はマスコミに面白おかしく記事にされ、俺も両親も、おぞましい食人鬼の親族として世間に知れ渡ってしまう。

 ――ふと、警察官が顔を上げ、梶井とガラス越しに目が合った。

 梶井は逃げるように、その場から立ち去った。 


 アパートの自分の部屋で、倉持は顔をしかめて額を押さえ、ソファーに横になっていた。

 ――近頃どうも、頭痛の頻度が増えたような気がする。痛む時間も前と比べて長くなった。

 倉持は起き上がって棚から鎮痛剤の箱を取り出し、二錠飲んで横になった。

 ――天井を見上げながら、ふと、父親のことを思い出した。苦しむ姿を見ることすらできず、病院のベッドにたくさんの機材や管を付けられたまま横たわり、そのまま息を引き取った父親のことを――。

 幻影を頭の中から追い払うように、倉持は首を横に振った。

 それから起き上がろうとして、倉持の動きがぴたりと止まった。

 ――背中に、しびれを感じたのだ。

 倉持は洗面台に向かうと、自分の口をあ、い、う、え、お、と動かした。

 

 ――倉持の顔は、見る見るうちに青ざめていった。

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