脱皮 四

 『野放図』と名前が付いたアバターが、望月に向かってゆっくりと近づいてくる。白い顔をして何も言わず、望月をじっと見据えたまま。

 望月は逃げようとして背後を見るが、行き止まりだ。灰色の高い壁にぐるりと囲まれ、まるで逃げ場がない。

 『野放図』が、望月に向かって右腕を振り下ろす。

 ――その手には、ナイフが握られていた。


                  *


 汗だくのまま、望月は飛び起きた。

 そこは、VR空間の中の自宅の室内だった。

 VR空間の中で時間を確認することはできないが、眠りに就いてから一時間も経っていない気がする。望月はベッドから起き上がるとカーテンを開け、3Dの月を見つめた。

 あれから数日、望月は脳波測定の時間以外はVR空間の中で過ごしている。『野放図』の動向を探るためだと自分に言い聞かせてはいたが、そのじつ、クーラーボックスの中から彼の死体が消えたというあり得ない現実から目を背けたいだけなのかもしれなかった。

 ――ノックの音が二回聞こえ、望月はドアのほうに目を向けた。

 ちょうど『野放図』のことを考えていたから、彼かもしれないという悪い予感が頭をよぎった。

 もう一度、二回ノックの音が鳴った。

 望月はそろそろとドアのほうまで歩いて行き、ゆっくりとドアノブをひねった。

 外には、『野放図』が立っていた。

 望月は悲鳴を上げ、錯乱して、部屋の中にある家具や小物を『野放図』に向かって次々と投げつけた。それでも様子を変えず、平然と歩いてくる『野放図』を見て、望月はようやく気が付いた。

 この世界では、物理など意味がないのだ――。

 望月は慌てて、自分がかけているサングラスを外した。

 望月の目の前に、久方ぶりの現実世界が現れた。脳波測定室のパソコンの前。白い素体ではなく、リクライニングチェアに座っている自分の体がはっきりと見える。

 ようやく望月が息をついた、その時――。

 コン、コン。

 脳波測定室の扉から、ノックの音が二回聞こえた。

 望月は、また叫びそうになった。――が、ここは現実なのだから、『野放図』がいるはずがないと思い直し、気を落ち着かせて扉に近付いた。

 コン、コン。

 ふたたびノックの音が聞こえる。時刻は真夜中のはずだが、緊急の用件なのだろうか。

 ドアの外に白い人型の『野放図』が立っているのではないかと想像してしまい、望月は思わず体が震えた。そんなはずはないと何度も思っているのに、手のひらに嫌な汗がにじんでいく。

 ドアを開けると――そこには、『野放図』が立っていた。

 『野放図』は、先ほどと同じように――瞳のない目で、望月のことをじっと見つめていた。

 望月は、驚愕のあまり声が出せなかった。体がわなわなと震え出し、膝から崩れ落ちる。

 クーラーボックスに目を向けると、閉めたはずのふたがいつの間にか開いていた。

「ここは――現実じゃない、のか」

 『野放図』は、何も答えない。ただ、望月にじりじりと近付いてくるだけだ。

 望月は自分の両方の手のひらを目の前に差し出し、穴が空くほど見つめた。

 見えているのはもちろんアバターではなく、現実の望月の手だ。サングラスも付けていないし、ここはたしかに現実世界のはずだ。

 望月は狂ったようにかけていたはずのサングラスを探し、自分の頬を何度もつねった。 

 しかし、何をしても、目の前の『野放図』が消える気配はなかった。

「おまえ、どうして――」

 望月の意識は、そこで途絶えた。


 翌日、脳波測定の時刻になって測定室を訪れた被験者が、望月実の遺体を発見した。望月の死因は、VRだった。

 主催者が亡くなったので、当然、実験は中止になった。

 掛橋を含めた被験者は皆、部屋の外に出て、今回の実験についての感想をぽつりぽつりと語り始めた。掛橋は、そこで驚くべきことを知った。

 掛橋が山園との電話を切ったあとに話しかけて無視された、オレンジ色のTシャツを着た男性――彼はVR空間での、『another』と同一人物だった。

 最初は掛橋のことを警戒していた『another』も、自分が『かけはし』だと名乗ると、ようやく口を開いてくれた。

 『another』は『野放図』とは中学生の同級生で、今回の実験も『野放図』から誘われたのだと言う。知り合い同士の応募は禁止というルールを破っていたので、VRの世界の中で顔を合わせても他人のふりをするしかなかったのだと、『another』は言った。

 『another』はたどたどしい口調で、『野放図』が使っていた部屋の番号を教えてくれた。

 ――それは、掛橋の使っていた部屋の番号と同じ『05』だった。

 そして、被験者全員が集まったはずのフロア内で――

 フロアの隅々まで探しても、『野放図』こと野崎の姿は見当たらなかった。

 やはり、望月が言っていた欠員とは『野放図』のことだったのかと、掛橋は思った。しかし、たしかに『野放図』は、掛橋が実験に参加したあともVR空間には存在していた――。

 『野放図』のことを尋ねると、『another』は黙って楕円形の部屋を指差した。

 掛橋は警察が到着する前に『05』の部屋に入ると、サングラスを装着してVRの空間に入った。

 主が死んだことも知らない空間内には、相変わらずのどかな景色が広がっていた。

 まもなくこの世界は、終わりを迎えるだろう。サーバーが停止され、空間が崩れていくのと共に、きっと彼も――。

 掛橋は、路地裏のワールドに移動した。

 いつもの場所に、『野放図』がしゃがんでいた。

 周囲には、他に人の姿は見当たらない。皆、サングラスを外して現実世界に戻っているのだから、当たり前のことだ。

 取り残された『野放図』の姿を――掛橋は、じっと見つめた。

「野崎さんは――もう、戻ってはきませんか」

 『野放図』は掛橋のほうを見て、ゆっくりとうなずいた。

「わかりました。……現実のことは心配しないでください。俺のほうからちゃんと伝えておきます」

 『野放図』は立ち上がり――黙って、深く頭を下げた。

 立ち去りながら、掛橋は想像した。

 様々なワールドが、がらがらと音を立て、次々と崩れていく様を。そしてその中に、ただ一人、白い人型をした――『野放図』という名前のアバターが紛れていることを。 

 ――ゆっくりと深呼吸をしてから、掛橋はサングラスを外した。


参考

 『ルパン三世 ルパンVS複製人間』 吉川惣司監督/東宝

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