脱皮 三

 VR空間に入ると、望月は路地裏のワールドに移動した。

 「あれ、望月さん。珍しいですね」

 『admin』と書かれた望月のハンドルネームを見て、『another』が声をかけてきた。

 『another』はいつものように、例のたまり場で他のアバターと他愛もない話をしていた。

「あ、ええ……たまには皆さんと同じように過ごすことも、実験の参考になるかと思いまして」

 望月は誤魔化すようにそう言って笑うと――ある人物を見て、ぴたりと動きを止めた。

 そこには、『野放図』と書かれたハンドルネームを冠した白い人型の素体がいた。

 望月は、その場からぴくりとも動かず、唖然とした顔で彼を見つめていた。

 『野放図』はしゃがんだまま、目も鼻も口もない真っ白な顔で、望月を見つめ返していた。

 そんな――。

 そんなはずが、ない――。

 望月は、やがてぶるぶると震え出した。

 やがてその脳裏に、忌々いまいましい記憶がよみがえってきた。


                  *


 それは、実験を始めてから五日後のことだった。

 脳波測定の結果が記録されたカルテを眺め、やはり自分の仮説は間違っていなかったのだと、望月はおおむね満足していた。

 望月は、壁にかかっている時計を確認した。そろそろ次の被験者の脳波測定の時間だ。望月はあらかじめ作成しておいたリストを確認し、カルテを探した。

 測定に来る予定の被験者は、野崎靖幸やすゆき――ハンドルネームは『野放図』という名前だった。

 ――だが、予定の時間を一時間過ぎても、野崎は現れなかった。

 望月は、一人で首をかしげた。

 先日の測定の時、野崎は、金目当てで実験に参加したが、今はVRの世界にとても満足している、ずっとここに住みたいぐらいだと熱弁していた。VRを体験したのは生まれて初めてのことだったらしく、熱心な被験者という印象だった。

 望月はパソコンのリストで野崎の使っている部屋の番号を確認してから、測定室の外に出た。

 ――もしかしたらVRの世界に没入しすぎて、アラートに気付いていないのかもしれない。かなり大きめの音量に設定したからそんなはずはないのだが、現に野崎は来ていないのだ。

 望月は、『05』と書かれている部屋のドアを開け、中へと入った。

 野崎はリクライニングチェアの背もたれに全身を預けるようにして、だらしなく座っていた。たるんだ贅肉ぜいにくが、座面の端からはみ出ている。

 やはり没頭しすぎたのだ。望月は苦笑しながら、野崎の背中に近付いた。

「野崎さん、測定の時間ですよ。野崎さ――」

 ――その顔を見た望月は、異変に気付いて凍り付いた。

 野崎はサングラスを付けたまま、天井に顔を向けて息絶えていた。野崎の右の膝下の皮膚は赤くなり、うっ血したようにぱんぱんに腫れ上がっていた。

 エコノミークラス症候群――。

 真っ先に浮かんだのは、その言葉だった。

 野崎のVRの世界への情熱は、はたから見ても熱心すぎるほどだった。彼はVRの世界にのめり込むあまり、現実の自分の身に何が起きても気付かなかったのではないかと――望月は、ぞっとしながら想像した。

 このまま放っておけば野崎の死体は腐って、被験者の他の誰かが異臭に気が付くだろう。そうなれば野崎の死体が見付かり、通報せざるを得なくなって、この実験は頓挫とんざしてしまう――。

 望月は頭の中ですばやく考え、次に、恐ろしいことを思い付いた。

 ――まず望月は、野崎の部屋から顔を出し、周囲に人がいないかを確認した。計測予定時刻は午前一時だったので、被験者は皆眠っているのか、辺りはしんと静まり返っていた。

 幸い、野崎の使っていた部屋から脳波測定室はすぐそこだった。それならば――。

 望月は野崎の死体の脇に肩を入れ、腕を掴んだまま、測定室まで運んだ。野崎の体重は成人男性の平均よりも少し重かったので、部屋に着いた時には息が上がっていた。

 次に、望月はクーラーボックスからペットボトルや冷凍食品をすべて取り出すと、野崎の死体をその中に詰め込んだ。

 死体を冷酷な目つきで見下ろしながら、望月は思った。

 こんなことで、大事な実験を邪魔されるわけにはいかない――。

 それから静かに、クーラーボックスのふたを閉じた。


                  *

 

「な、なんで、どうしてあなたが――」

 望月は『野放図』から後ずさったが、彼以外のアバターの視線に気付き、慌てて平静を取り戻した。

「望月さん、どうかしましたか?」

 隣から、『another』が話しかけてきた。

「い、いや……なんでもありません」

 望月は『another』に向かって、無理やり作り笑いを浮かべた。

 その後、たむろしているアバターたちにVRの世界で何か変わったことはなかったかと尋ねたが、特に問題はないという返答しか得られず、望月はすぐに退散した。

 サングラスを外してからも、望月の肌は粟立あわだっていた。

 先ほど見たは、何だったのか――。

 望月はふと思い立って、パソコンを操作し、管理者画面でVRに登録されているユーザーの一覧を見た。管理者権限を使えば、ハンドルネームの変更履歴が見られるはずだ。『野放図』が見当たらないことに気付いた誰かが、悪ふざけで名前を変えたのかもしれない。『野放図』は喋らないのだし、なりすますことも容易なはずだ――。

 だが、いくら履歴を見ても、ハンドルネームを変更したユーザーは誰もいなかった。

 死んだはずの『野放図』が、VRの世界に存在している――。

 『野放図』こと野崎が使っていた『05』の部屋は、掛橋が使っているはずだ。

 だとしたら――あの『野放図』のアバターを操作しているのは、一体誰なのか。

 いくら考えても良い理屈が思い浮かばず、望月はよろめきながら、クーラーボックスのふたを開けた。

 ――望月は、自分の目を疑った。

 あの日、たしかに隠したはずの野崎の死体は――跡形もなく、消えていた。

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