脱皮 二

 VR空間内での生活は、思いのほか快適だった。

 まずは、自分をユーザーとして登録する。アバターは望月があらかじめ用意した一つのみで、見た目は無味乾燥な白い人型の素体だった。鼻と口にはうっすらとした凹凸があり、目の部分はくぼんでいた。まるでマネキンのようだ。

 アバターを見ながら、これが望月が思う理想の人間の形なのだろうかと掛橋は思っていた。

 次に、アバターのハンドルネームを決める。ここにいる十人と重複さえしなければ、ハンドルネームは自由に決められる。掛橋は『かけはし』という、まったく捻りはないが自分にとって覚えやすい名前にした。

 幻想的な喫茶店やプール、有名なアニメを模した世界など、多彩なワールドを見学し、見飽きたらあらかじめ用意されている自分の家に戻って、映画などを観て過ごす。サングラスからアラートが鳴ったらフロアの隅にある脳波測定室に向かい、脳波を測定する。腹が減ったら外に用意されているインスタント食品やスナック菓子を食べて、またVRの空間へと戻る。

 部屋にはベッドがなく、マットが敷かれた床の上で毛布をかけて眠ることを除けば、おおむね理想と呼べる環境なのかもしれない。だがそれは、あくまで労働がない世界だからであって、もしこの世界に貨幣が存在したら、現実とさして変わらないのかもしれないが――。

 掛橋以外の人も同じ姿なので、一瞬、見分けがつかないが、アバターの上に表示されているハンドルネームを見れば、誰が誰かはわかる。自分の姿が他人に見られていることを気にしなくて良いというのは思ったよりも気が楽なものだと、掛橋は少し感心していた。

「連絡も自由に取れますし、外部との接触も禁止されてません。今のところ、危険性があるようには見えないのですが……」

『良かった。……でも掛橋さん、油断しないでくださいね。友達と連絡が取れなくなったのは、そこに行ってから五日後のことなんです。何日か経ってから危ない目に遭う、ってことも考えられますから』

 わざと厳しい声でそう言いつつも、掛橋の無事を確認できて、山園は安心したようだった。

「……けど、ちょっと困ってるんですよ」

 ――掛橋は、自分が置かれている状況を山園に説明した。

 VRのワールドは多数あり、今までに自分以外の二、三人は見かけたが、話しかけてくる人は一部で、会釈だけの人もいれば、声をかけてこない人もいた。つまり、他人との交流が希薄きはくなのだ。実験に参加している人が集まっている場所でもあれば良いのだが、今のところそういったものは知らない。

「なので例の、山園さんの探していた人……野崎さんについては、手掛かりすらつかめていないんです」

 楕円形の部屋も外からではどんな人が利用しているかはわからないので、実験に参加している人々の姿は、VRの空間上でしか認識できていない。

『まだ一日しか経ってないですし、仕方がないですよ。……それに私が探しているというよりは、友達が軽く気にしてた程度のことですから』

「……そうですね、少し様子を見てみます。また連絡します」

 そう言うと掛橋は電話を切り、ドアを開けて部屋へと戻ろうとした。

 ――その時、オレンジ色のTシャツを着た男性が冷蔵庫のドアを開けているのが目に入り、掛橋は思わず声をかけた。

「すみません、ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど……」

 男性はぎょっとした顔で掛橋を見ると、スナック菓子を何個か手に取り、逃げるように自分の部屋へと戻って行った。


「たしかに、現実世界では交流したがらない方が多いですよ」

 脳波を測ったあと、掛橋は望月に、ここでの人との交流についてさりげなく尋ねてみた。望月いわく、VRの空間内でならまだしも、初めに顔を合わせた時以外にフロア内で人が話しているところを見たことはほぼないらしい。

「まあ、その気持ちもわかりますけどね。……たとえばですけど、掛橋さん。今、掛橋さんから見て、私はどういう人間に見えますか?」

 望月は回転式のスツールを掛橋のほうに向け、唐突に尋ねてきた。

「遠慮はいりません。私の姿を見て感じたことを、正直に言っていただければ」

 掛橋は、望月の姿をじっと見た。

 白衣を着た医者のような恰好、優男やさおとこと呼ばれそうな容姿。一見、信用できそうにも見えるが、腹の底では何を考えているのか想像がつかない――。

 そう思ったまま口にすると、望月は笑った。

「掛橋さんがおっしゃったように、人は他人の外見からできる限りの情報をみ取ろうとする。白衣を着ているだけで医者かな、などと想像したり、果てにはその人の性格まで予想したり――」

「もし気分を害したのなら、謝ります。すみません」

 掛橋が頭を下げると、望月は違うとでもいうように手を横に振り、

「私はそういうことから解放された世界を作りたくて、この実験を始めたんです」

「解放……ですか」

 望月はうなずき、

「現実では、どうしてもそういう風にはいきませんよね。ルッキズムがどんなに批判されたとしても、見えているものを見えないことにはできないし、他人からある程度の印象を持たれることは避けられない。……ですが」

 一旦言葉を切って、望月は掛橋を見据えた。

「人間が皆、同じ外見で、言葉だけでコミュニケーションを取れるとしたら――それは雑念が入り込まない、素晴らしい世界だとは思いませんか」

「……」

 望月が言った通りの世界が構築されれば、たしかにそれは、外見で悩むすべての人々にとっての心の拠り所になり得るかもしれない。――だが。

 そんな世界は、本当に実現できるのだろうか。また、その世界に埋没してしまった人たちを、現実に戻す術はあるのだろうか。そんなことを、掛橋は尋ねた。

「それは、私が考えることではありませんから」

 望月は、そう答えて笑った。

 ――掛橋が立ち上がると、部屋の隅に置かれているクーラーボックスが目に留まった。

「そういえば、ずいぶん大きなクーラーボックスがあるんですね」

「……ああ、それは私物です。見ての通り、私はここで生活しているので。研究に没頭していると、外に出ることすら億劫なんですよ」

 そう言って、望月は笑った。

 たしかによく見ると脳波測定室には、掛橋が過ごしている部屋と同じ机とリクライニングチェアが揃っていた。VR用のサングラスは、机に付いている引き出しの中にでもしまっているのだろうか。

 色々教えてもらった礼を言ってから、掛橋は脳波測定室を出た。


 自分の部屋に戻ると、掛橋はサングラスをかけ、望月から教えてもらったVR空間内で被験者がよく集まっているというワールドに移動した。

 そこは、ありふれた路地裏だった。掛橋が少し歩いていくと、五人ほどの白い人が集まって、輪になって話しているのが見えた。

「……お前、見たことない顔だな」

 掛橋が近寄ると、『another』というハンドルネームの人物が話しかけてきた。掛橋は、この実験で欠員が出たので、自分が特例として補充されたことを説明した。

「欠員?……ああ、そうか」

 『another』は疑問を持ったあと、一人で納得したようだった。

「『another』さんはどなたが欠員なのか、知ってるんですか?」

 掛橋が尋ねると、『another』は少し黙った。どういう表情をしているのか、マネキンの姿ではわかりようがない。

「……さあ、わからん。もっとも俺たちが会ったことがないやつもいるから、その中の誰かかもな」

 ――何か事情を知っているような気がしたのだが、気のせいだろうか。普段は依頼者の気まずそうな表情などから気持ちを汲み取って話を聞いている掛橋としては、声の調子だけで判断することは難しかった。

「みなさん、ここで初めて知り合われたんですか?」

 掛橋がそう尋ねると、

「お前、ツイート見てなかったの? 知人同士での募集は不可って書いてあっただろ」

 呆れたように、『another』が言った。

 ――たしかに、そんな注意書きもあったかもしれない。掛橋は当然、最初から一人で応募するつもりだったので、あまり気に留めていなかった。

「けどそのわりには、打ち解けているように見えますね」

 『another』はうなずき、

「ここはさ、人が少ないだろ。長く生活してると人恋しくなるんだよ」

 ま、意地でも人と話したがらないやつは知らないけどな、と付け加えた。

 『another』の言う人恋しさは、あくまでVR空間内のみでの話なのだろう――。

 現実での被験者たちの様子を思い出しながら、掛橋はそんなことを考えていた。

 ――『another』たちをぼんやりと見ていた掛橋は、あるハンドルネームが目に留まった。

「……あれ。『野放図』さんですか?」 

 掛橋が尋ねると、その人物はゆっくりとうなずいた。

 それは、間違いなく、山園が探していた野崎という男性のハンドルネームだった。

 掛橋は慌てて、大学の友人が心配していること、自分は野放図を探すことを頼まれて実験に参加したことを説明した。なぜ連絡を返さないのかも尋ねたが、『野放図』は何も言わずに黙っているだけだった。

「なんで、何も答えてくれないんですか。みんなあなたを心配してるのに……」

「まあまあ。……こいつ、無言勢みたいなんだ。話は理解できてるみたいだから、そのへんで勘弁してやってくれよ」

 『another』は実験に参加する前からVRチャットをやっていたらしく、ボイスチャットが苦手で、声を出さない『無言勢』なるものがいることを掛橋に説明してくれた。

 話を聞き終えて『野放図』のほうを見ると、『野放図』は『another』の言う通りだとでもいうように、掛橋に向かってしっかりとうなずいた。

「――じゃあ、とりあえず『野放図』さんがここにいることは、俺のほうから山園さんに連絡しておきます。事情も知らずに問い詰めるようなことをしてしまってすみませんでした」

 掛橋が頭を下げると、『野放図』はとんでもないとでも言うように、両方の手のひらを振ってジェスチャーした。

 ――その後、掛橋は野崎が見付かったことを電話で山園に報告した。大学の友人へは、山園から伝えてくれるらしい。

 とにかくこれで、人探しの問題は解決した。あとは二週間ほど、この生活を満喫するだけだと、掛橋はほっとしていた。


「おかしいな……」

 被験者たちの脳波の測定結果を見て、望月はつぶやいた。

 たしかに五日目までは、被験者たちの幸福度は見るからに上昇していた。特に、リラックスしている時などに分泌されるセロトニンという物質の大幅な増加が見られ、VR空間の効果を明らかに感じさせる結果になっていた。

 しかし、近頃は――いわゆる幸せの三大ホルモンと呼ばれる物質の分泌量は、増えるどころか実験前よりも減ってしまっている。

 自分の仮説が間違っているはずはない。外見や肉体の疲れから解放された世界は、間違いなく今の世界よりも自由なはずだ。それならば――。

 望月ははっとして、顔を上げた。

 まさか、

 一瞬そう思ってから、その疑念を振り払うように望月は首を振った。

 あの時、誰も見ていないことは入念に確認したつもりだし、ただでさえ彼らは日頃からVRの世界に没入している。監視カメラの映像を見ても、現実世界では交流を取っていないはずだ。

 だが、ひょっとすると、万一のことも――。

 もはや、自分が何をすべきなのかは明確だった。

 ――彼らの身に一体、何が起こっているのか、行って確かめねばならない。

 望月は机の引き出しを開け、中に入っているVR用のサングラスを見つめた。

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