20.排水槽

 そこは左右に細長い廊下が続き、等間隔にいくつもの扉がある階層だった。

 折かえし階段を一気に最下層まで駆けおりたケネスは、左右に首をふって排水槽のある部屋を探す。

 

「左だ! 一番奥の扉!!」


 階段の上層から息も絶えだえに叫ぶカイルの声が響く。

 声に弾かれたように再び走りだすケネス。

 一番奥のドアまでたどり着き、立ち止まる。そのドアには『排水浄化室』のペイントがあり、中央に黒と黄色のストライプが斜めに入った線が左右に伸びている。

 彼は肩で息を殺しながら、カイルのIDカードをセキュリティにかざした。


 一瞬の間をおいて電子音とともにロックが解除。ケネスは押し破らんばかりの勢いとともにドアを開け放つ。

 そこは室内プールを連想させる一室だった。

 他の部屋と同様にメインの照明は落ちていたが、いくつかの補助灯が点灯していて視界はギリギリ確保できる。


 部屋のほとんどの空間を占めるのが、排水を段階的に濾過ろかするために何層かに仕切られた排水プールだ。

 層によって水量が異なっていて、今は一番手前が最も多いように見えた。

 天井にはいくつかの巨大なファンが低い唸りをあげ、その隙間を縫うように何本かの排水ダクトがプールにむけて突きだしていた。


 その内の一本から水滴がしたたり落ちている。

 ケネスは走りながらシャツを脱ぎ捨て、迷うことなくそのダクトの下を目がけて飛びこんだ。

 プールの中は壁と底にいくつかの照明機器が沈められており、まったくの暗闇というわけではなかった。

 生暖かい水が不快だったが透明度は悪くない。プールの底に沈む彼女の姿を発見するのにさして時間はかからなかった。


 水中だということを忘れ、喜びに声をあげそうになるケネス。

 両手で水をかき、彼女が横たわる深さまで潜水していく。

 深さは十メートルくらいだろうか? 決して潜れない深さではない。

 しかし、もどかしほどに自身の潜水スピードが遅く感じられる。必死に水をかき、足を蹴っているのにキャスリーンが近づいてこない。

 体にまとわりつく水は重く、彼の体をその望みとは逆に上へ上へと引きあげようとする。

 

 ――早く、一秒でも早く!


 そのとき、キャスリーンへの必死の想いが彼にとって大事な記憶の一つを呼び覚ましていた。




「俺と結婚してほしい」


 西海岸へ二人で旅行したときのことだ。

 浜辺でパラソルを広げて涼むケネスの元へ、波打ち際で久しぶりの海を目の前にはしゃいでいたキャスリーンが戻ってきた。

 ケネスの手を引っ張って言う。

 

「そんなところにいないで、一緒に来て!」


 子供のようにはしゃぐキャスリーンを見て、その愛らしさに思わず口をついてでたのがプロポーズの言葉だった。

 自身、言ってからハッとする。

 キャスリーンも両の眼をこれ以上ないほどに丸く見開いてから、しかし、こともなげにこう言った。


「当たり前じゃない。私以外の誰と結婚するというのよ?」


 二人はしばし見つめ合い、次の瞬間、腹の底から大声をだして笑いあった。

 そして、誓いの口づけ。


「さぁ、もうすぐ日が沈むわよ。楽しみましょう!」


 キャスリーンに手を引かれ、二人は波打ち際へ駆けだした。




 ――今度は俺が彼女を迎えに行く番だ!


 まるでスローモーションのように感じられる時の中を、ケネスは必死にもがいた。

 一方、キャスリーンは完全に気を失っているようで身じろぎもしない。その姿はまるで、湖底に沈む枯れ木のように生気がなかった。

 やっとの思いでプールの底にたどり着いたケネスは、うつ伏せに眠る彼女を背中側から手を回して持ちあげ、そのまま浮上しようとする。


 しかし、何かに引っ張られるように彼女の体はある位置から先にあがろうとしない。

 ケネスは彼女の足元のロープを目でたどり、その先に重りが沈んでいるのを確認して愕然がくぜんとする。

 ロープを引っ張って重りを持ちあげようとするが、せいぜい数センチ浮かせるのが精一杯。キャスリーンと重りの両方を抱えて浮上するのは、絶望的と言わざるを得ない。


 迂闊うかつだった。

 ナイフでもあればロープを切断することもできるが、そんなものを持ち歩いているはずもない。それは上にいるカイルも同じだろう。

 見渡してもプールの底に刃物が沈んでいるわけもなかった。


 ロープと繋がっている足かせが外れないか? 重りからロープが外れないか?

 試行錯誤するも、時間だけが無常に経過していく。

 次第に息も限界に近づいてきていた。


 ――上に戻ってナイフを探すか? いや、そんな余裕があるわけない!


 ケネスは葛藤かっとうしていた。

 そのとき、上方から水中を伝わって響く水をかきみだすような音。

 驚いて見あげるケネス。

 逆光でわかりにくかったが、黒い人影がこちらへ近づいてきている。

 

 ――カイル!?


 白衣を脱ぎ、シャツとスラックス姿になったそれはまさしくカイルだった。

 両手、両足を不格好にばたつかせ、必死に潜ろうとするその様は泳いでいるというより、もがいているという方が適切な表現に思える。

 彼はケネスにむけて必死に手を伸ばしていた。

 その手に何か小さなものを握っており、それが照明に反射して時折光輝く。

 鍵のようだっだ。


 ケネスは瞬時にそれが何の鍵かを理解し、彼の位置まで一旦浮上。その手から奪い取るようにして受け取るとキャスリーンの足元へ再び近づいた。

 カイルはサムアップをケネスに送りながら、脱力したように浮上していく。

 次の瞬間、彼女の足を拘束していた足かせが外れ、その体は再び浮力を取り戻す。

 ケネスはキャスリーンを抱きかかえ、一刻を争うように水面を目指した。

 浮上したケネスは、プールサイドに彼女の体を押しあげながらカイルを呼ぶ。


「カイルどこだ! 彼女を引っ張りあげてくれ!」


 いつの間にかにメインの照明が点灯され、明るくなった室内を見回す。しかし、彼の姿が見えなかった。


 ――まさか逃げたのか!?


 そうケネスが思いかけた矢先、カイルが部屋の奥から小走りに駆けもどってきた。

 手に赤いプラスチックのケースを抱えている。

 カイルは一旦それを足元に置き、キャスリーンの両脇をかかえて彼女の体を引きあげる。ケネスも全身から水滴をしたたらせながら、プールからあがりそれに手をかした。

 キャスリーンの顔は青白く、その唇はまるで死体のように血の気がなかった。


「呼吸は?」


 カイルの問いにケネスが耳を口元と心臓付近に押し当てて、首をふる。


「胸部を圧迫するんだ、繰りかえし」


 ケネスが彼女の胸骨辺りに手を載せて圧迫を開始。


「もっと強く!」


 カイルの怒鳴り声にケネスが無言で従う。

 カイルもキャスリーンの横にしゃがみこみ、赤いプラスチックケースを手元に引き寄せる。

 ケースにはハートに稲妻のマークが記載されており、その下に『AED』と大きくロゴが記載されていた。


 自動体外式除細動器じどうたいがいしきじょさいどうき

 心肺停止状態の傷病者に対し自動的に心電図の測定、解析を行ない、必要に応じて電気ショックを与えて心肺蘇生を行う救命機器だ。

 蓋を空けたと同時に液晶モニタが点灯し、音声でガイダンスがはじまる。

 

〈反応がないこと、呼吸がないことを確認してください〉

 

 カイルの手際は的確だった。

 音声ガイドに従って彼女のスキンスーツのジッパーを、へその位置までおろす。

 豊かな胸がこぼれ落ちるようにあらわになるが、それに色気づく余裕はない。AEDに付属の布で水気をぬぐったうえで胸と脇腹に電極パッドをはる。


「離れて!」


 ケネスが手をどけると同時にカイルがAED中央の丸いボタンを押すと、電気ショックが実施された旨が音声で伝えられた。

 すかさずカイルが胸部中央に両の手を添えて圧迫を繰りかえす。


「だめだ、反応がない」


 モニタとキャスリーンの顔を交互に見比べながらケネスが言う。


「もう一度だ!」


 ケネスがカイルの顔を見て頷きキャスリーンから離れる。

 モニタを凝視する二人。

 やはり反応はなかった。

 諦めることなく胸部圧迫を続けるカイル。ケネスは唇を噛みしめながら、それを見守ることしかできない。

 音声ガイドが再度、電気ショックを実施するように告げ、AEDのボタンに手をかけたカイルが必死の想いを言葉にのせる。


「戻ってこい! 僕のキャスリーン!!」


 その瞬間、プツリとAEDのモニタが消えた。

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