19.Command Rejected

「勘違いするなよ、彼女は死んでなんかいない。パーフルブロンだよ。正確にはパーフルオロカーボンPFCで、水と比較すると酸素を二十倍も溶かすことのできる特殊な液体だ」


 よく見れば彼女は裸ではなかった。肌の色に近いスキンスーツのような物を全身に着こみ、長い髪は水中で広がって邪魔にならないように後ろで束ねられている。

 突然、彼女が振りむいた。


 ――生きている!!


「これは今まで誰も成し得なかったことなんだ。液体呼吸の研究というのは六十年代にはもうラットでの限定的な成果がでていたんだけど、人間に対しては人道的、倫理的な問題もあって研究が進んでいなかった」


 未熟児や、重度の肺の火傷やけどによる呼吸機能不全こきゅうきのうふぜんの治療には一部使用されているが、と彼は説明を補足する。


「研究はもう次の段階に進みつつある。君にわかるかい? わからないだろうね」


 自分の言葉に酔いしれるように話し続けるカイル。

 彼は一拍の間を置き、大げさに両手を広げて声を上げる。


「人工血液だよ。もう輸血に使う血液を献血に頼らなくて済む未来がそこまで来ているんだ!」


 それはすでにケネスの耳には言葉として届いていなかった。


「キャスリーン!!」


 叫ぶと同時に水槽プールに駆けよる。

 彼女がケネスを認識したのが表情でわかった。何かを伝えようとしているが、口から気泡がもれるばかりで声にならない。

 乱れた前髪を水中に漂わせながら、手のひらを繰りかえし水槽のガラス壁に叩きつけ訴える彼女。

 声にならない声は、しかし、ケネスにだけは届いていた。


「キャス!! 今助けるぞ、待っていてくれ」


 言うや否や、ケネスは隣で傍観ぼうかんしていた小男の襟首を掴みあげる。


「名前は?」

「カイル、カイル・ウォーカー……」


 目線をそらし、ぶっきら棒に答える彼。


「OK、カイル。彼女をここからだせ! いますぐにだ!!」


 カイルの足元がわずかに宙へ浮く。


「わかった、わかったから手を離してくれ」


 カイルはケネスの勢いに気圧けおされて、そう言うのがやっとだった。

 彼が手を離すと、カイルは喉を押さえて咳きこみながら文句を言う。


「まったく、すぐ暴力にうったえ――」


 そこまで言ったところでケネスに睨みつけられて口をつぐみ、両手を肩口に上げて降参の意を表明する。

 水槽脇の机に置かれていた一台のPCの前に座ると、キーボードとマウスを操作しケネスの方を振りむいてこういった。


「PFCを肺から吐きだすのに少し苦しむよ」


 ケネスが無言で首肯しゅこうすると、彼はマウスをクリックした。

 

START排水 DRAINING開始

 

 水槽の上部に取り付けられた電光掲示板に赤いLEDでそう表示されると同時に、掲示板付近からスピーカの声でアナウンスが繰りかえし流れる。

 

〈排水中です〉


 最初、水槽の排出速度はケネスがイライラするほど遅かった。

 それが突然、猛烈なスピードで減りだす。

 

〈強制排水モードに切り替わりました〉

 

「なんだって?」


 PCのモニタと水槽を交互に見ていたカイルが声を上げる。


「どうした? なにか問題か?」


 困惑した表情でケネスが尋ねる。


「わからない! 僕は何も指示していないのに勝手に切り替わったんだ。プログラムのバグなのか、それとも機器の故障か!?」


 排水速度の急激な加速は、思わぬ悲劇を招こうとしていた。

 キャスリーンの足を水底に固定していた重りが、徐々に排水口の方に引き寄せられていた。当然キャスリーンの体も重りに引っ張られて移動していく。

 重りが排水口の上まで移動した瞬間、重みに耐えかねたアルミ製の格子蓋が大きくたわむ。

 それを見たキャスリーンの表情が、恐怖で一気に引きつる。

 

「まずいぞ、このままだと重りが排水管に引きこまれる! 止められないのか!?」

 ケネスが半ば怒鳴るように言う。

「さっきからやってるよ! 命令を受け付けないんだ!!」


《Command Rejected》

《Command Rejected》

《Command Rejected》

 

 カイルがマウスをクリックする度に、モニターへ繰りかえし表示される無常な返答。

 バキンッ、そのとき二人の背後で何かが割れる音がした。

 慌てて振りかえる二人。

 湾曲して中心から二つに割れた格子蓋もろとも、重りが排水管に引きこまれていく。ゴンッゴンッと排水管の内側に繰りかえし衝突する音とともに、水槽の側面が振動する。


 同時にキャスリーンの体も排水管に引きずりこまれていく。

 またたく間に、下半身、上半身が見えなくなり首から上と腕だけを残す状態に。それでも彼女は二本の腕を目一杯広げ、爪を立てるようにして必死に抵抗を試みる。しかしそれも一瞬のことだった。

「キャスリーン!!」

 ケネスが叫んで水槽に走り寄るのとほぼ同時に、彼女は排水管の奥の暗闇に引きずりこまれ、消えていなくなった。


DRAINING排水 COMPLETE完了


 水槽上部の電光掲示板には排水完了を告げる青い文字が、音もなく点滅を繰りかえしていた。

 キャスリーンの恐怖に満ちた表情がケネスの目に焼き付いて離れなかった。

 彼女が自分に助けを求めていたのに、声なき声で呼んでいたのに、ただ立ち尽くしたまま何もしてやることができなかった。なんの抵抗もできず、泣き叫ぶことすら叶わず、彼女は再び消えていなくなってしまったのだ。

 今度は自分の眼の前で。


 どうしようもないほどに自分が不甲斐なかった。

 あとに残ったのは空の水槽。

 呆然ぼうぜんとしたまま、キャスリーンが吸いこまれた排水口を見つめる二人。

 先に我にかえったのはケネスだった。


「――排水口の先は?」

「え……? なんだって?」


 突然、話かけられてほうけたように問いかえすカイル。


「え、じゃない! この排水口の先はどこへ繋がっているかと聞いているんだ!!」


 カイルは顎に拳をあて、うつむきながら考える。


「化学物質が混入した排水はすぐに下水に流すわけにはいかないから、濾過ろかするために…………排水層だ!!」


 カイルがケネスにむき直り、叫ぶように告げる。


「彼女は地下の排水層に流れ着くはずだ! まだ間に合うかもしれない!!」

「案内しろ!」


 言ったと同時にケネスが走りだし、カイルもあとを追う。

 部屋の出口にたどり着きドアノブに手をかける。が、セキュリティがかけられていてノブが動かない。


「IDカード!!」


 ケネスがカイルの方を見もせずに手を差しだして催促する。勢いに気圧されて首からさげていたIDカードを渡してしまうカイル。


「いいか、外には他の作業員がまだ数名残って――」


 電子音とともにセキュリティが解除された瞬間、カイルの言葉を無視してドアを開け放ち飛びだしていくケネス。

 運が悪いことにドアのむこうにはちょうど通りかかった二人組の男性がいた。技術者らしき白衣を着た二人は、突然ドアから走りだしてきたケネスに驚いて何ごとかと足を止め、階段を駆けおりていく彼の背中を目で追っている。


「おい、まだ説明が!」


 追って飛びだしたカイルが二人と鉢合わせする。


「いや、これはその……」慌てるカイル。


「僕の恋人なんだ。ヤキモチ焼きでね、癇癪かんしゃくをおこして飛び出してしまった……すまないが、ここに連れこんだことは内密に……」


 カイルは引きつった表情で愛想笑いをしながら、その場を取り繕うためのデタラメを言う。そして、二人の前から逃げだすようにケネスの後を追った。


「愛は追ってその手に掴むものよね」


 白衣の男性二人はどちらからともなく手をとり、見つめ合ってその場を後にした。

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