ややこしい私はきっとロックに向いてない

紙野 七

トラック1 demo

1-1

 午前八時十五分。教室の隅で蹲りながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。

 あちこちから発せられた会話の断片が室内に充満し、それらが渦になって蟻地獄のように私を取り囲むと、そのまま深くて暗いどこかへ連れ去ろうとする。ずぶずぶと沈んでいく感覚に身動きが取れなくなりそうになったところで、私は勢いよく顔を上げて大きく息を吸い込む。

 授業が始まる前のこの数十分がどうしようもなく嫌いだった。

 今日という一日に希望を持った同級生たちの浮足立った声に埋もれていると、自分がどうしてここにいるのかわからなくなる。

 これはライブが始まる前の、開演を待つあの途轍もなく長い一時間と同じだ。ここにいる資格があるはずなのに、一人でいることが恥ずかしくてたまらない。

 普段ならばホームルームが始まるギリギリに着くように家を出るのに、今日は少しだけ早く目が覚めて、運悪く電車の乗り継ぎも上手くいったせいで、この居心地の悪い時間が生まれてしまった。

 教室をぐるりと見回して、誰の目にもつかないようにこっそりと席を立つ。そして素知らぬ顔をして教室を出ると、トイレの一番奥の個室に籠って静かに鍵を閉めた。

 別に周りが悪いわけではない。自分が勝手に厭世家のふりをして、悦に浸っているだけの中二病なのだとわかっている。それでもこの苦しさは間違いなく本物で、くだらないと自覚しているからこそ余計に息ができなくなる。

 こういうときに私を助けてくれるものが、音楽だった。

「……バカみたい」

 吐き捨てるように呟いて、ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出す。

 本当なら教室で聞けばいいのだけれど、あの空間で耳を塞いでしまうと、まるで周囲を拒絶しているように見られかねない。別に私は社会からはみ出したいわけではなかった。ただ少し馴染むのが苦手なだけなのだ。だからあえて角が立つようなことは避けたい。

 イヤホンを耳にはめると接続を確認する合成音声が流れ、スマホの画面にもブルートゥースの接続が表示された。万が一にも音が漏れないように、音量を聞こえるギリギリまで下げる。そして音楽ライブラリを開き、「demo」とだけ書かれた曲を再生する。

 初めに聞こえてくるのは、限りなく不協和音に近い浮遊感のあるコード。

流れるようにアルペジオが続いて、同時にドラムとベースが緩やかに曲を持ち上げると、しっとりとしたバラードが始まる。


  喧騒の中に溺れていく 都会に生まれた僕たちは

  哲学気取りのままごとを 瞑った瞼の奥に浮かべている


 余白を持ったイントロが終わり、伸びやかでどこか儚さを携えたメロディが満を持してその上に乗せられる。すると、曖昧で青くぼやけていた視界が晴れて、懐かしい風景が確かな輪郭を持って目の前に現れる。

 防音のためにカーテンを閉め切った薄暗い六畳間の中で、彼女はノートパソコンの明かりを頼りにギターを奏でる。私は彼女のすらりとした指先の動きに目を奪われながら、夢中でその音に耳を傾けている。

 Aメロが二回し目に入ると、ドラムがエイトビートを刻み始めて、ゆったりとした曲調に緩やかな疾走感が追加される。その軽快なリズムに合わせて、すぐ横を柔らかい風が通り抜ける感覚がして、心の奥にしまってあった記憶が流れるように呼び起こされる。

 この曲は私にとって大切な曲だった。いつも私を助けてくれて、そしていつも私を苦しめる。たぶんこの曲を聴くことは、一種の自傷行為のようなものなのだと思う。締め付けられるような胸の痛みを抱き締めることで、自分の生を実感することができる。

 そうして少ししゃがれたハスキーボイスをまとった芯のある歌が、モルヒネのように思考を鈍らせていきながら、じわじわと私の心に浸透していく。曲が進むにつれて徐々に頭がぼやけていき、私を思い出の中へ閉じ込めてくれた。

 瞼が下りてきて、ひどく狭くなった視界の先に見えるのは、マイクに向かって歌う彼女の口元だった。彼女は何でもないことを呟くみたいにさりげなく歌っているのに、その声は恐怖を感じるほど美しい。


  知らない街で見た絵画を 君はひどく気に入っていたね

  それが何だか羨ましくて 時々その絵を思い出す


 これからいよいよサビに入るというところで、空間が千切れるような鈍いノイズが聞こえて、ぷつりと唐突に音が消えた。鮮やかに見えていたはずの風景が真っ黒く塗り潰されて、ざわざわと浮き上がってくる環境音とともに、視界が現実に上書きされていく。

「最悪だ。充電忘れてた……」

 どうやらイヤホンの充電が無くなって、接続が切れてしまったようだった。ワイヤレスイヤホンは便利だが、この充電問題だけはどうしても付きまとう。ずぼらな私はよく充電を忘れてしまい、こうして肝心な時に使えなくなることが多かった。

 せっかく音に没頭していた意識が一気に現実に引き戻される。時計を見るとまだ朝のホームルームが始まるまでは十分ほど時間がある。しかし、充電をし忘れた自分への苛立ちと不甲斐なさで、皮肉にも息苦しさが幾分か紛れたようだった。

 目の前に迫る薄汚れたクリーム色のドアを見つめて、単なる耳栓に成り下がったイヤホンをケースにしまうと、思わず溜め息が漏れる。

 妄想に浸るのもここまでだ。音楽という逃げ場も失った私は、諦めて現実に戻ることにする。

 まだぼんやりとする意識の中で、何枚も壁を隔てても薄っすらと聞こえてくる同級生たちの喧騒に耳を傾ける。このくらい距離を置いてしまえば、別世界の音を盗み聞ぎしているようで何となく心地いい気がした。

 判然としない人々の声、廊下を駆ける足音、ワックスがかかった床に椅子がこすれる音。そのさらに向こう側では、グラウンドで練習する野球部の掛け声が青い空に響いている。気持ちが晴れれば、現実だってそんなに悪くないと自分に言い聞かせて立ち上がる。


  空を飛ぶクジラに憧れて

  夢想する幸せを噛み締めている


 現実が奏でるアンビエントのようなBGMを楽しんでいると、その奥から控えめな歌声が流れてきた。私は驚いて、その声に意識を集中して耳を澄ます。

 最初は幻聴が聴こえているのかと思った。もうイヤホンは外して、ポケットにしまったはずだ。試しに右手で耳元に触れてみるけれど、当然そこには何も入っていない。

 それなのに、その声は確かにさっき途切れたはずの歌の続きをなぞっていた。耳馴染みのあるメロディが聞こえている。洗面台で流れる水の音にかき消されそうなその声を見失わないように、私は目を瞑って必死に耳をそばだてる。

 声の正体を確認しようと扉に手をかけるけれど、ここを開けてしまったらその勢いでこの歌が消えてしまうのではないかと不安になって、外に出ることができなかった。もしこれが幻聴だとしても、せめてサビの終わりまでは聞いていたい。

 ほんの数十秒間だけ、私はその歌声だけが存在する世界に没入する。様々な記憶や想い、言葉が心から溢れ出しているはずなのに、それが形を成さずに優しく私を包み込む。そして私は何もない真っ白な空間の中に一人佇んで、ただ漠然とした多幸感を味わっていた。

 これは初めて彼女の歌を聴いたときと同じだった。私が初めて音楽というものを知ったあのときと……。

 ――キュッ。

 ちょうど水道が閉まる音とともに、サビを歌い終えてその声は聴こえなくなる。

 一瞬、世界からすべての音が消えてしまったかのような沈黙のあと、再び様々な音が耳に雪崩れ込んできた。耳に残っていた歌声の余韻がざわめきの中に埋もれていく。

「待って……!」

 私は咄嗟に扉を押し開けて飛び出すと、どこかへ行ってしまいそうなその歌声を呼び止めた。

「ん?」

 しかし、そんな私の視線の先に立っていたのは、見覚えのない少女だった。

「え、どうかしたの?」

 彼女は突然現れた私に不思議そうなまなざしを向けながら首を傾げる。

 奥の壁にぽつんとついた小さな窓から差し込む光が、まるでスポットライトのように彼女の姿を照らしていた。金色に染まった髪の毛をキラキラと輝かせて、その眩しさに私は思わず目を逸らす。

「さ、さっきの曲……」 

「あ、これのこと?」

 鼻歌でなぞられたそのメロディを聴いて、条件反射のように身体が強張る。

「もしかしてこの曲知ってるの!?」

「ま、まあ……」

「うそ、びっくり! 実は偶然マイチューブで見つけて気に入ってる曲なんだけど、全然知ってる人がいなかったんだよね。私あんまり音楽に詳しくないんだけど、結構聴くの?」

「あ、うん……」

「音楽詳しいのって、かっこよくて尊敬しちゃう。あ、この曲好きな人におすすめの曲とかある!? 教えてほしい!」

 彼女は初対面であることを感じさせないほど、自然な態度で私に話しかけてくる。その勢いに圧倒されて、私はただ機械のように相槌を打つことしかできない。

「てか、お前誰だよって感じだよね! 私は二年B組の藤原京香! 京香って呼んで!」

 そう言って思い出したように自己紹介をすると、彼女は右手を突き出して握手を求めてきた。真っ白くてきめ細かい肌の色に目を奪われながら、私は恐る恐るその手に自分の右手を合わせる。

「……二年C組、戸高灯里、です」

 私がひねり出すような声で自分の名前を口にすると、彼女は握手を交わした手をぎゅっと強く握って明るい笑みを浮かべる。何とか私も笑みを返そうとするけれど、見なくてもわかるほどぎこちない表情しかできなかった。

「あ、もうホームルーム始まるじゃん! 教室戻らないと! それじゃ、また後でね!」

 予鈴が鳴ると、彼女は慌ただしくトイレを飛び出していった。終始彼女のペースに呑まれっぱなしで、まるで竜巻に巻き込まれたような気分になりながら、私はしばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。

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