4-3

「遅すぎる」

 唐突に乱暴なスネアの音がしたかと思うと、葵が苛立った声で呟く。

「連絡もないってどういうつもりなの」

「〝どうどう……〟」

 結音がなだめようとするが、一向に苛立ちは収まらないようで、顔をしかめながら大きく舌打ちをした。

 すでにスタジオに入ってから一時間以上が経過しているというのに、京香がまだ来ていなかった。遅れるという連絡もなく、こちらから連絡しても応答がない。京香は調子のいいように見えて、時間はきっちり守るタイプなので、無断遅刻をするのは初めてだった。

 普通に考えれば、突然の病気や事故の可能性が高く、苛立ちよりも心配が勝る状況だった。それなのに葵が怒っているのは、元々ここ最近の京香に対して不信感を募らせていたからだ。

 前回のライブを経て、私たちはずっと演奏がまとまり切らない状態が続いていた。そのことに各々が焦りや不安を感じる中、一番その影響が顕著に出ていたのが京香だった。

 京香はずっとバンドのムードメーカー的な立場で、練習の合間も話を回してくれていたが、最近になって急に練習中の口数が減って静かになっていた。練習が終わって二人で帰っているといつもの彼女に戻るのだが、スタジオの中にいる彼女は別人のようだった。

 歌についてもあまり調子が良くなかった。時折それを葵に指摘されると、「ごめん」と萎縮して謝るばかり。その度に京香の良さがどんどんと失われているように感じた。

「やる気がないなら辞めたら? あなたみたいな人間がいると、正直迷惑よ」

 そんな京香の様子を見て、葵はついに我慢の限界に達したのか、辛辣な言葉をぶつけた。そこにはもちろん京香への怒りもあっただろうが、バンドが上手くいかず、自分もどうにもできないもどかしさみたいなものも含まれていたのではないかと思う。

「……ごめん」

 しかし、京香はすべて自分のせいだというように、彼女の言葉を受け入れて、ただ俯いて謝るだけだった。

 そういうことがあったから、私は京香がこのバンドに、あるいは音楽そのものに嫌気が差してしまったのではないかと心配だった。もしかしたらこのまま二度と練習に来ないつもりなのかもしれない。

 思えば、彼女はずっと一生懸命だったけれど、楽しそうに歌う姿は見たことがなかった。自分だけ初心者であることに引け目を感じて、それを埋めようと必死だった。

 そもそも本当は歌なんて歌いたくなかったんじゃないだろうか? 無理矢理私を誘ったのだから、彼女にも一緒にバンドをやってもらう責任があるなんて思っていたけれど、そのせいで彼女を苦しめてしまっていたのではないだろうか?

「めっちゃごめん! 遅くなりました……!」

 もやもやとそんなことを考えていると、スタジオの扉が開いて元気な京香の声が飛び込んできた。息を切らしながら入ってくる彼女の姿を見て、私は少し安堵する。

「実は今日どうしても連れてきたい子がいて……。部活が終わるのを待ってたら遅くなっちゃったの」

 すると、京香の後ろから女の子が現れた。どこかで見たような気もするが、はっきりとは思い出せない。

「この子は友達の明子! 中学の時から一緒で、うちのバスケ部のエースなんだよ!」

「ど、どうも……。竹内明子です」

 ノリノリで紹介する京香に対し、竹内さんは明らかに困惑している様子だった。

「どういうつもり? 練習に遅れた挙句、部外者を連れてくるなんて」

 葵は見るからに不快感を露わにしていた。竹内さんに迷惑そうな目を向ける。

「とにかく一度明子と合わせてみてほしいの! 実は明子はめっちゃ歌上手くてね。声質も灯里の曲にぴったりだから、ずっと歌ってほしいって思ってて……。だから突然だけど、今日は無理言って明子に来てもらったの」

「ちょっと待って。歌うとは何となく聴いてたけど、カラオケとかじゃなくてバンドで歌うってこと?」

「そうそう! 曲も渡しておいたやつ聴いてくれたでしょ?」

「一応歌えるようにはしてきたけど……」

「まあとりあえずやってみようよ! 絶対いい感じになると思うから!」

 全員を置いてけぼりにして、京香が一人で話を押し進めていく。

「……意味がわからない。どうしてその子が歌うことになるの?」

「ごめん! 完全に私の自己満なんだけど、どうしても聴いてみたくて。ちょっと新しい風を入れるっていう意味でも、気分転換にいいと思うし。息抜きだと思って、一度だけ合わせてみてよ」

 葵はまるで納得していないようだったが、これ以上話すのは無駄だと諦めたのか、黙ってスティックを持って構えた。

 私も京香の意図がよくわからなかったが、わざわざ反発する理由もない。結音も特に何も言わずにベースを背負い直していた。

「じゃあ、曲は『スキトオル』で!」

 そうして演奏の準備が整い、竹内さんが恐る恐るマイクの前に立つと、葵のフォーカウントから曲が始まる。

 竹内さんは確かに歌が上手かった。声量がしっかりあって、ロングトーンにブレがない。ピッチやリズムも正確なので、安定感のある耳心地のよい歌声だった。正直言って、歌唱力と言う面では、京香よりも圧倒的に高いレベルだろう。

 けれど、不思議と演奏していてワクワクしない。機械的、とまでは言わないまでも、彼女の歌には人間味が感じられない。そのせいか、演奏と歌が完全に切り離されているような感覚があった。まるで彼女のバックバンドになったみたいだった。

 違和感を拭えないまま曲が終わる。葵と結音も同じようなことを感じているのか、微妙な表情をしていた。

「ね、明子ってめっちゃ上手いでしょ!?」

 京香だけが満足げな顔で言う。

「その子が上手いのはよくわかったわ。それじゃ、満足したなら帰ってもらえるかしら? もう時間もないし、早く練習を始めるわよ」

「いや、そうじゃなくて……」

「まだ何かあるの?」

「やっぱさ、私なんかがボーカルやってるのっておかしいと思うんだよねー」

 京香は言いづらそうに言葉を選びながら、ようやく本題であろう部分を話し始める。

「私は全然歌へただし、足引っ張っちゃってるじゃん? それなら、明子がボーカルやる方がいいんじゃないかなって……」

「え、ちょっと待ってよ! 私も人前で歌うなんて無理だよ!? そもそもバスケ部だってあるし、バンドやってる時間なんて……」

「そこは部活終わりとか、休みの日とかで練習に入る感じで! ちょっと練習できる時間は減っちゃうかもだけど、ライブもそんなに頻繁じゃないし、明子なら何とか両立できると思う!」

 どうやら完全に京香の独断専行だったらしく、竹内さんもひどく困惑している様子だった。無茶苦茶なことを言う京香を見て、ますます何を考えているのかわからなくなる。

「つまり、あなたは辞めるってこと?」

 そこに葵が不機嫌そうな声で割って入る。

「うん、まあ、その方がいいかなって……」

「どういうつもりか知らないけど、本当にこの子をボーカルにするなんて言うなら、私は辞めさせてもらうわ。この子の歌でバンドをやる気にはなれない」

「ちょっと、何それ。なんか感じ悪くない? 忙しい中わざわざ来たのに、そんな風に言われると思わなかった。バンドなんて、こっちから願い下げだし。悪いけど、もう帰るね」

「あ、待って!」

 竹内さんは制止する京香を振り払うようにしてスタジオを出ていった。

「あなたも一緒に帰ったら? 前にも言ったけど、やる気がない人間はいない方がいいわ」

「葵、そんな言い方しなくても……」

 なおも鋭い言葉を京香にぶつける葵に対し、私は見かねて口を挟む。

「あなただってそうよ。一体いつになったら曲を仕上げるつもりなの? いつも「次までには」とか「もう少しで」とか誤魔化すばかりで何も進展してないじゃない。あなたが曲を作る気がないなら、このバンドを続ける意味がない」

 そう言われて私は何も言葉を返せなかった。京香よりも私の方がよっぽどこのバンドの足を引っ張っている。そんなことは自分でもよくわかっていた。

「〝STOP!〟」

 険悪な空気を断ち切るかのように、結音が両手で大きくバツを作りながら私たちの間に割り込んできた。そして三人の頭をそれぞれ掌でコツンと軽く叩くと、眉間に皺を寄せて咎めるような視線を向ける。

「なんか、ごめんね……」

 ちょうど京香が謝るタイミングを見計らったかのように、スタジオの使用時間終了を告げる赤いランプが点灯した。その気まずい空気の中無言で片付けを終えると、そのまま誰も口を開かずにその日の練習は終了となった。

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