トラック5 ややこしい私はきっとロックに向いてない

5-1

 目覚ましよりも少し早い時間に目が覚めて、二度寝をしかけたところで耳障りなアラームの音に叩き起こされる。こんな嫌な気分になるなら一度目で起きればよかったと思うけれど、いつも同じ過ちを繰り返してしまう。

 顔を洗って、歯を磨き、制服に着替えて身支度を整える。朝食は食べない派なので、準備ができたらそのまますぐに家を出て学校に向かう。

 この朝の時間は一番街が動いているように感じる。人々が忙しなく行き交う街を歩きながら耳を澄ますと、都会の喧騒があちこちから発せられる様々な音の集合体であることに気付かされる。

 視界の先を流れていくこの人たち一人一人に、顔があって、名前があって、生活がある。それはあまりに途方もないことで、意識すればするほど、逆に私という存在が雑踏の中に消えていってしまう気がした。

 外に出るときはいつも耳を塞いでいたイヤホンを外すだけで、こうも一気にこの世界の広さを痛感する。殻に閉じこもって音楽に没頭するのは、ひどくエゴイスティックな自己陶酔でしかなかったということだ。

 相変わらず友達はいないので、学校に着くのはギリギリの時間のままだった。今日は歩くペースを上手く調整できたので、教室に入って席に着くと、あと二分ほどでホームルームが始まる。

 朝の学校はいつでも騒がしいが、最近は特にそれが顕著になっている。文化祭が二週間後に迫り、生徒たちがみな浮かれていた。あちこちから金槌の音が聞こえ、廊下では怪訝な顔をした生徒たちが熱く議論を交わし、教壇の上ではクラスの中心メンバーが演劇の練習をしている。

 私も確か役割を与えられていたはずだが、仕事を振られたことは一度もない。このまま仕事をしていないことにすら気付かれずに、文化祭当日を迎えることになるだろう。「普通」なら自分から何か手伝ったりするのかもしれないけれど、今の私にはまだ難しかった。

 騒がしさを意識しないように、この前買った参考書を開いて眺めてみる。まだ受験というものに対して実感が湧かず、こうして時折読むふりをしているが、まだ数ページしか進んでいなかった。

 まだ歪ではあるにせよ、そんな特筆すべきことのない生活に少しずつ慣れてきていた。不思議と今まで感じていた生きづらさを感じにくくなったのは、きっと色んなことに折り合いを付けて諦めることができたからだろう。

 あれ以来、京香とは顔を合わせていなかった。流石の彼女も気を遣っているのか、あるいは単に私に愛想を尽かしたのかはわからないが、わざわざ会いに来ることはしなかった。クラスは隣でも授業は一緒にならないし、案外偶然すれ違うということもない。

 もちろん葵と結音にも会っていなかった。結音からは何度かメッセージが届いていたが、中身も見ずに消してしまった。学校の違う二人はそれこそ偶然出くわす心配もない。

 このまま『水彩のよすが』は自然消滅していくのだと思っていた。水に溶けるように音もなく消えて、いつしか目を凝らしてもわからなくなる。まるでこの終わりを予見していたみたいに皮肉めいた名前だなと思う。

「……久しぶりね」

 だから校門の前で呼び止められたとき、私は人違いをされているのかと思った。

「取って食おうっていうわけじゃないから、怯えなくていいわよ」

 私は葵に連れられるがまま、近くの喫茶店にやってきた。よりにもよって彼女が私に会いに来るとは思わず、どういうことかと身構えていると、そんな私を見て彼女は呆れたように笑った。

 とりあえず飲み物を注文して、それが来るまでの間、気まずい沈黙が流れる。何か私に用があって来たはずだが、葵は一向に喋り出そうとしない。かと言って、私の方から話しかけることもできないので、黙って机の木目を一心不乱に見つめるしかなかった。

「まずは、ごめんなさい」

 飲み物が運ばれてくると、それをきっかけにしてようやく葵が口を開いた。

「この間はイライラして少し言い過ぎたわ、悪かったと思ってる」

「え、いや、そんなこと……」

 唐突に葵がしおらしく謝ってきたので、私は戸惑いを隠せなかった。怒りを向けられることはあれど、謝罪をされるなんて思ってもいなかった。そもそも彼女が謝る理由がない。

「ただサボっているんじゃなく、何か理由があって曲が書けないということは何となくわかっていた。それなのに、あなたを傷付けるためだけに、ああやってもっともらしい説教をしてしまった」

 おそらく葵の様子を見るに、誰かから弥那のことを聞いたのだろう。だからこうして直接謝りに来た。でももう私にとっては全部どうでもいいことだ。

「葵に言われたことは事実だし、それで私も目が覚めたから」

 実際今になって思えば、ずっと誤魔化していたことを葵がはっきりと指摘してくれて、解放されたような部分もあったと思う。

「事実、ね。あなたがそう受け取ったなら、それでいいのかもしれない」

 葵は意味深なことを呟いて、机の上に置かれたカップに口を付けた。再び会話が途切れ、店内に流れるしっとりとしたジャズの音量が大きくなる。

 当然ながら、これで話は終わりというわけではないようだった。彼女は一向に席を立つ気配はない。私はその話題が始まる前に逃げ出したかったが、熱々の紅茶がなかなか飲み終わらなかった。

「その様子だと、まだ京香とは話をしていないみたいね」

 葵は手に持ったカップの目を落としたまま、まるで独り言のようなさりげないトーンで呟いた。京香の名前が出て、私は身体がぐっと強張る。

「実はこの前京香とも会って話をしたの。あなたに嫌われたって、ずいぶんと落ち込んでたわ」

「……嫌いとか、そういうことじゃない。私と京香は本来交わらない人間で、その関係が元に戻っただけ。今までがおかしかったんだよ。京香だってしばらくしたら、私のことなんて忘れるはず」

 きっとその方がお互いにいい。あのまま近くにいたら、気付かないうちに傷付け合ってしまっていただろう。取返しがつかなくなる前に気付くことができてよかった。

「バンドはどうするつもり? って、私が聞くのもおかしな話だけど」

 そしてついに、葵は一番触れてほしくなかった話題に切り込んできた。どうやら曖昧なままにして自然消滅というわけにはいかないらしい。彼女が現れた時点で覚悟していたことではあったが、いざとなると喉の奥が締まって言葉が上手く出てこなかった。

「……もう、音楽は辞めた」

 やっとの思いで出した言葉は、質問の回答にはなっていなかった。しかし、心臓の鼓動が喉元までせり上がってきて、それ以上言葉が続かない。

 ただこちらの意図は伝わったはずだった。音楽を辞めた、つまりはバンドもやるつもりはない。私の気持ちはそれだけだ。

「そう」

 対する葵の反応は驚くほどそっけないものだった。理由を追求されるのではないかと思っていた私は、そこで会話が終わったことに拍子抜けしてしまった。

「もしかして、ちゃんと止めてほしかったかしら?」

 そんな私の心を見透かしたように、葵は意地悪な笑みをこちらに向けた。

「別に、私はあなたを引き戻しにきたわけじゃない。実はあの後、結音にこっぴどく叱られてね……。ちゃんと謝ってこないなら絶好だ、ってあんなに怒ってるあの子は初めて見た。私自身、一方的に言葉をぶつけて終わりというのも気持ちが悪かったし、ケジメをつけようと思ってきただけで、バンドがどうなるかはあまり重要ではないの」

 その冷めた態度が葵らしくて、ここまでの流れの辻褄が全て合ったようで妙に納得した。

「確かに、あなたの曲はとてもいい。だから私はあのバンドに入った。その才能を腐らせるのはもったいないと思うけど、それとこれとは関係のない話だものね。結局決めるのはあなた自身だから」

 ひどくつまらなそうな顔で、そんな達観したようなことを言う。葵が私の曲を気に入ってくれていたというのが意外だった。

「でも音楽を辞めると決めたにしては、ずいぶんと悩んでいそうな顔ね」

「え……?」

「少なくとも、諦めがついた人間の顔じゃない」

 私はその言葉をすぐに否定することができなかった。どこかで未練めいた感情が残っていると自分でもわかっていた。私は音楽への憧れと希望を捨てきれずにいる。だからそれを見ないふりするために、京香たちと会わないようにしていたのだ。

「葵はさ……」

 心を覆っていた氷が溶けて、ひた隠しにしていた感情が露わになる。私はずっと誰かに尋ねたかったことを葵に投げかける。

「何のために音楽をやるの?」

 それは弥那がいなくなってから、ずっと自分に問い続けて、答えが見つけられずにいることだった。

「嫌なことを聞くわね」

 葵は露骨に顔を歪めた。しかし、この質問を嫌だと思うのなら、一層彼女の答えが知りたかった。

「音楽なんて結局消費されて、いつかは忘れ去られてしまうものでしょ? そんな無意味なものなのに、作り手側は心をすり減らして音楽と向き合わなくちゃいけない。それってあまりにも馬鹿げてる」

 私の幼稚な意見を聞いて、葵はしばらく考えるような素振りを見せた。そして眉間に皺を寄せながら、一つ一つ言葉を選ぶようにゆっくりと語り始める。

「あなたの言う通り、音楽そのものには意味なんてないのかもしれない。ましてや学生ごときがお遊びの延長でやっている曲なんて、世界から見れば何の価値もないでしょうね。聴き手のいない音楽ほど虚しいものはない」

「じゃあ、どうして……」

「どうしてかしらね」

 溜め息混じりに自嘲して、葵は改めて私の方に向き直る。

「きっと私は自分自身のために音楽をやっているんだと思う」

「自分自身のため?」

「音楽という形で自分を表現することで、曖昧になりそうな自分という存在を見失わずに済む。だから音楽そのものに意味がなくても、私が音楽をやることには意味がある」

 私から見えていた葵は、自信に満ちて自分の芯をしっかりと持っている人間だった。でもそんな彼女でさえ、自分の存在を見失いそうになることがあるということが驚きだった。

「あなたはきっと自分のことが嫌いすぎるんじゃない? 自分のことが信じられないから、自分のために音楽を作ることができない」

 葵にそう言われるまで気が付かなかったが、私は自分のために曲を作ろうとしたことがなかった。弥那がいた頃は彼女と一緒に音楽をやりたい一心で、彼女に向けて曲を書いていた。京香と出会ってからは、私の曲に救われたと言ってくれた彼女に向けて曲を書こうとしていた。

 だから私の音楽への動機には強度が足りなかった。弥那がいなくなった後は曲を書く理由が見つけられなくなり、バンドを始めてからも自分の曲に価値を見出せない私は曲が書けなかった。

「でも私は葵みたいに強くはなれない」

 強い自分を持っているからこそ、それを保つことに意味がある。葵のように自分を持たない私には、自分のための音楽というものを見つけられる気がしなかった。

「何も私みたいになる必要はないでしょ。私の考え方だって正しいかどうかはわからないし、音楽をやる理由なんて人それぞれ違うに決まってる」

 結局葵との会話の中でも、求めていた答えを得ることができなかった。むしろ、自分を騙そうとしていた部分を明るみにされて、以前よりも八方塞がりになってしまったような感覚があった。

「あなたがどういう選択をするのも自由だけど、一つだけ言わせてもらうわ」

 別れ際、葵は最後に念を押すように言う。

「少なくとも、あなたは音楽がいらない人間には見えない」

 それはたぶん私は一番言われたくない、呪いのような言葉だった。

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