5-2
「お帰りなさいませ、ご主人様」
私はその日、夏休みぶりにめいど・きゃっするにやってきていた。
入口の前に立ち、自動扉を抜けて入ってきた三人組を出迎える。無理に愛想を良くするのは諦め、顔の表情を変えずに決められた文言を口にする。お客さんたちはそんな私の態度に面食らったようだったが、気にせずそのまま座席へと案内した。
『突然で申し訳ないんだけど、明日バイト入れないかしら……?』
るなっぺから夜遅くに電話がかかってきて、何事かと思いながらその電話を取ると、彼女は前置きもなしに切羽詰まった様子でお店のヘルプを頼んできた。
『実はスタッフたちの間で風邪が大流行しちゃってるの。それで明日入る予定だった子が急遽お休みになっちゃって、他の子もみんなダウン中。知り合いのお店にも聞いたりしたんだけど、明日入れる子がどうしても見つからなくて……』
最近は使いどころもなくなってお金には困っていなかったし、正直言ってあまり気乗りはしなかった。しかし、特に予定があるわけでもなく、るなっぺにはお世話になったので断るのは忍びない気持ちもあった。
「京香は、来るんですか……?」
『それがね、さっき電話したんだけど、あの子も体調を崩しちゃってるんだって。最近色んなところで風邪が流行ってるみたいね……』
京香と会うことだけは避けたかったが、そこは心配しなくてもいいようだった。となると、もはや積極的に断る理由はない。
「わかりました。戦力になれるかはわからないですけど、頑張ります」
『わー! ありがとう……! それじゃ、明日十時にお店に来てくれるかしら? バイト代は思いっきり弾むから期待しておいて!』
そんな経緯を経て、私は思わぬ形で再びこの華やかな制服に袖を通すことになったのだった。
およそ二か月ぶりということもあり、きちんと仕事ができるか不安だったが、案外身体が覚えてくれていた。むしろヘルプという立場の気楽さもあってか、前よりもリラックスして仕事ができている気がした。
私にまで話が回ってきただけあって、お店はかなりギリギリの状況だった。比較的お客さんの多い土曜日だというのに、スタッフは私を含めて四人。普段は最低でも六人程度で回しているので、全員フル稼働でも追いつかない。
そうして目まぐるしく働いているうちに、あっという間に夕方になっていた。ちょうど昼と夜の合間でお客さんの波が途切れ、ようやくお店が少し落ち着く。
「今日は本当に助かったわ。これから別の子がヘルプで来てくれることになったから、あかりんはもうあがっちゃって!」
「とんでもないです。あまり戦力にならなかったかもですが……」
「何言ってるの! あかりんがいなかったらやばかったわ。今度はお客さんとしてゆっくりしに来てね。ご馳走するから」
朝から働き詰めでバテ始めていたところだったので、るなっぺの言葉に甘えてあがらせてもらうことにした。
バックヤードのパイプ椅子に腰を下ろすと、溜まっていた疲れが一気に押し寄せてきた。しばらくそのまま動けなくなって、帰ろうにも着替えることができない。
「お疲れさまでーす」
半ば放心状態でだらけていると、スタッフの一人が仕事を終えてバックヤードに入ってきた。私は慌てて体勢を直して軽く会釈をする。
「あ」
すると、彼女は私の顔を見るなり、怪訝な表情をしながら近付いてきた。
彼女はクールビューといった雰囲気で、京香とはまた違うジャンルのギャルだった。
腰辺りまで長く伸びた髪は、ほんのりと自然な茶色がつやつやと輝いている。前髪を綺麗に上げておでこを出していることで、化粧映えするはっきりとした目元がより際立って見える。
「ど、どうかしました……?」
まじまじと顔を見つめられ、私は身をのけぞりながら恐る恐る尋ねる。
彼女と顔を合わせるのは今日が初めてだった。夏休みに働いていた時は一度も見かけなかったので、その後に入った人なのかもしれない。朝は挨拶をする間もなく働き始めたこともあり、私は彼女の名前すら知らなかった。
「もしかして、あんたが戸高灯里?」
ところが、彼女は何故か私の名前を知っているようだった。いきなり名前を呼ばれて、思わずびくりと身体が反応してしまう。
「そうですけど……」
「あーやっぱり。話に聞いてた通りだからすぐわかったわ」
勝手に納得したように頷きながら、彼女は私の向かい側に置かれた椅子に腰を下ろした。
「私は倉木ゆり。ここでは『きゅるりん』って言った方が伝わるかも」
「ああ、あなたが……」
その名前を聞いて、私はようやく合点がいった。彼女が例の京香の友達で、夏休みが明けてバイトに復帰していたらしい。京香に聞いていた印象で私だとわかったということなのだろうけれど、一体どんな言われ方をされていたのか少し気になった。
「にしても、今日はマジやばかったね。四人で店回せたの、正直奇跡っしょ」
「そ、そうですね……」
「灯里はまたバイト復活すんの?」
「いや、今日だけどうしてもって言われて……」
「なーる。るなっぺもだいぶ焦ってた感じだもんね」
倉木さんは一向に帰る素振りを見せず、むしろすっかりくつろいだ様子でスマホを片手に私に喋りかけてくる。私は適当な相槌を打ちながら立ち上がるタイミングを見計らうが、なかなか会話が途切れない。
「そうだ。ちょうど気になってたことがあったんだった」
しばらくバイトの話などが続いたあと、倉木さんは唐突に話題を切り替えた。
「京香のことなんだけどさ。最近あの子、何となく元気ない気がするんだよね。もしかしてなんか知ってたりする?」
思わぬ形で一番触れたくない話題が飛んできて、私は全身に寒気がして息が詰まる。倉木さんにそんなつもりはないとわかっていても、まるで糾弾されているような気分になった。
「一緒にバンドやってるんでしょ? だからそっちでなんかあったのかと思ってさ」
「最近、あんまり集まれてなくて……」
自分の中に押し隠していた彼女への罪悪感や惨めな自分への嫌悪感が膨れ上がってくる。それを辛うじて呑み込んだ私は、嘘でも本当でもない曖昧な答えを返すのがやっとだった。
「ふーん、そっか」
突っ込んだことを聞かれたらどうしようという不安があったが、バンドのこと自体には興味がなかったのか、案外すんなりと受け入れてくれた。
そんな倉木さんの態度に安堵する。そしてそれと同時に、他人から見れば結局バンドなんてその程度だということにどこか虚しさを覚えた。自分から捨てた身でありながら、ずいぶんと身勝手だなと我ながら呆れてしまう。
「ほら、京香って、意外と色々と気にするタイプじゃん?」
「え……?」
「何も気にしてませんよーみたいな感じで明るく振る舞ってるけど、ほんとは全部溜め込んでるんじゃないかな。ありゃ、奥の奥は根暗気質なんだよ」
倉木さんが語る京香の人物像は、私の持っている印象と真逆だった。落ち込んでもすぐに元の明るさを取り戻して、前向きに行動していく。だからこそから回ってしまうこともあるけれど、それも含めて多くの人に愛される。
そういう人だから、私は隣にいることが耐えられなくなったのだ。彼女を見ていると、自分が悩んでいること、苦しんでいることが馬鹿らしく思えてしまう。
「根暗、だとは思えないですけど……」
私はつい思ったことが口をついて出た。
「まあ、根暗ってか、たぶん京香は自分に自信がないんだと思う。人のことはすぐ褒めるし、絶対誰かを嫌ったりしないのに、自分のことだけはめっちゃ否定するんだよね。だけど、それを上手く表に出したりできないから、周りからは勘違いされがち」
確かに、時折「京香らしくないことを言うな」と違和感を覚えることがあった。思い返してみると、そういうときは決まって自分を卑下していたような気がする。
「バンドのことも、自分がへたくそだってずっと気にしてたよ」
京香は一貫してそう言い続けていた。私はそれを初心者なりの不安感だと思っていたけれど、自己否定の顕れだったのだろうか。もしそうだとしたら、スタジオに突然竹内さんを連れてきたことも納得できる。
「とにかくさ、落ち込んでるみたいだから慰めてあげてよ。手のかかる子で困っちゃうけどね」
ちょうど話が終わったところで、夜のヘルプでやってきたスタッフが部屋に入ってきた。倉木さんはそちらに近付いていって楽しげに話を始めると、私はぽつんとバックヤードの隅に取り残された。
――私はずっと勘違いしてたのかもしれない。
てっきり京香はバンドに対して前向きに頑張っているのだと思っていた。実際、ボーカルとしての技術は徐々に上がっていて、自主的に練習しているのが見て取れた。自分の歌に関していつも積極的に意見を求めてきたし、葵が厳しいことを言っても真剣に受け止めている様子だった。
そんな彼女の態度を「初心者だから頑張らなきゃ」という前向きな想いだと受け取っていた。でも、きっと違ったのだ。
彼女はずっと悩み続けていたのだろう。私に音楽をやらせた責任と、私に選ばれた責任。その二つを背負いながら、上手く歌うことのできない自分に苦しんでいた。
そうやって悩み続けながらも、それでも前向きに頑張っていたのは、彼女の気質によるものだけではなかった。
彼女は私の音楽を信じてくれていたのだ。だから、私に音楽を続けさせるために、歌を歌ってくれていた。自信のない自分は信じられなくても、私が期待した彼女を信じていた。
それなのに、私は彼女が悩んでいる姿が想像できなくて、彼女の苦しみを見て見ぬふりしていた。挙句の果てに、自分の苦しみばかりを彼女に押し付けて、ひどく傷付けてしまった。
バイトを終えた帰り道、私はコンビニで安い有線イヤホンを買って耳にはめ込んだ。音が遮断され、世界と隔絶されるこの感覚が懐かしくて、ざわついていた心が落ち着く感覚があった。
マイチューブを開き、見慣れたサムネイルをクリックする。
私はまだ名前を付けられていないあの曲を聴きながら、自分が本当はどうしたいのかを考え続けていた。
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