4-5

 風邪を引いたふりをして学校を休むと、有り余る時間に驚かされる。二度寝から目覚めて、ベッドに転がったままスマホを弄っていても、一向に時間が進まない。やることもないが、もう一度眠る気にもなれず、大して内容もない動画を垂れ流しにして退屈を誤魔化す。

 しばらくするといよいよ何もしないことにも飽きてきて、凝り固まった身体をほぐすためにようやくベッドを降りて立ち上がる。横になりすぎていたせいか、片頭痛の種のような痛みをほんのりと頭の中に感じた。

 一度リビングに降りて水を飲み、ソファに腰を落ち着ける。両親はとっくに仕事に出かけていて、家には私一人だった。がらんとしたリビングを秋晴れの太陽が虚しく照らしている。

 私はずっと本棚の端に放置してあった文庫本を手に取って、ソファに横たわるようなだらけた体勢で読み始めた。上手く集中できずに、目が滑って文章が頭に入ってこなかったが、読んだ気になってパラパラとページをめくっていく。

 そうして内容を半分も理解しないままその本を最後までめくり終えた頃、やっと学校では授業が終わるくらいの時間だった。普段は毎日こんなにも長い時間を学校に幽閉されて勉学に勤しんでいるのだから、学生というのは大変だなと他人事のように思う。

 朝から何も食べていなかったので、流石にお腹が空いていることに気付いた。私はキッチンの戸棚を物色して、ストックしてあったカップ麺を手に取った。

 ケトルで沸かしたお湯を注いで、蓋が浮いてこないように重石替わりに箸を置く。そのままキッチンでカップ麺とにらめっこをしていると、ちょうど不快になるくらいの音量で突然インターホンが鳴った。

「はい」

 通話ボタンを押して応答したところで、画面に映る京香の顔を見て慌てて口を閉じる。先に彼女だと気付けば居留守を使ったのに、失敗した。

『いきなりすみません。灯里さんの同じ学校の藤原です。灯里さんいますか?』

 まだ京香は相手が私だと気付いていないのか、似合わないくらい丁寧な言葉遣いでこちらに呼びかける。返答しないわけにはいかないが、声を出してしまえば私だとバレてしまうので、どうやって彼女を追い返すべきか対応に悩む。

『もしかして、灯里? そこにいるの?』

 しかし、その沈黙がかえって京香に私であることを悟らせてしまったようだった。もう隠れることはできないと諦めて、私は画面上の彼女に向き合う。

「ごめん。今は京香と話したくない」

『待って! 私、謝りたいの。別にバンドがやりたくなかったわけじゃなくて、ましてやこんな風に自分のせいでみんながバラバラになってほしくない。だからもう一回ちゃんと集まって、四人で話せない?』

「もういいの。もう、全部どうでもよくなったから」

『それなら、バンドは、音楽はやらなくてもいい。でも灯里の気持ちを聞かせてほしいの。ちゃんと友達に戻りたいから……』

「……京香みたいな人間には、私の気持ちなんてわからないよ」

 私は強引に通話を切って、インターホンに背を向ける。何度か立て続けに呼び出し音が鳴っていたが、耳を塞いでその音から逃げるように蹲る。しばらくして京香も諦めたのか、再び家の中に静けさが戻った。

 キッチンに戻ると、カップ麺はすっかり水を吸って不細工に膨れ上がっていた。お腹は減っていたが食べる気にはならず、こぼれないようにそのままビニール袋に入れてゴミ箱に放り込んだ。

 気持ちを落ち着けようと深呼吸をして顔を上げると、ちょうどテーブルの上に置いてあった学習塾のチラシが目に入る。

 いつの間にか高校二年の夏も終わり、進路希望調査なども始まって、徐々に学校は受験モードに切り替わっていた。私たちがバンドにかまけている間も、同級生たちは少しずつ将来のことを考え始めている。

 本当はそもそもバンドなんてやっている場合ではないのだ。成績は決して良いとは言えない私は早く勉強を始めないとみんなに追いつけなくなる。

 普通に勉強して、普通に大学に入って、普通に就職する。それが真っ当な人生というやつで、そこに音楽はいらない。

 私は自分の部屋に上がり、不要なものを処分することにした。

 CDや音楽雑誌、教本、バンドスコア。本棚に並べたそれらを片っ端からゴミ袋に投げ入れていく。ギターやエフェクターはすぐに処分できないので、一旦クローゼットの奥に押し込むことにした。一通り片付け終えると、物で溢れ返っていた部屋がだいぶすっきりして見えた。

 最後に残っていたのは、父のおさがりでもらったミニコンポだった。最近は音楽を聴くのもスマホばかりだったので、もう長らく使っておらず、すっかり埃を被ってしまっている。

 これはリビングに下ろしてしまおうと持ち上げる。すると、その裏に挟まっていたCDが床に落ちて、ケースとジャケットがバラバラになった。

「……うわ、懐かしいな」

 それは弥那が初めて自主制作で作ったCDだった。懐かしさのあまり、ついジャケットを拾って眺めてしまう。

 私は最後に一度だけ、弥那の曲を聴くことにした。もう音楽を全部手放すことにしたからこそ、追悼として彼女の曲を最後に聴いて、綺麗に未練を捨てるつもりだった。CDをコンポに入れて、トラックを選択して再生ボタンを押す。

 選んだのは、アルバムの一番最後に入っている『夕景』だった。

 アルバム全編を通してバンドサウンドの曲が入っている中で、この曲だけは弥那によるアコギの弾き語りで演奏されている。アルバムの完成間際になって、「いい曲ができたから」と無理矢理ねじ込んだ曲だった。

 弥那が六畳間でこの曲を録音するのを、私は目の前で聴いていた。汗だくになりながら命を削るように歌う彼女の姿を見て、私はできるはずもないのに、自分も音楽をやってみたいと思ってしまったのだった。


  幸せだった日々ばかりを 繕い、憂う生活に

  いい加減疲れちまったな もう終わりにしようか

  幸せだった日々なんてさ 虚ろに見える幻想か?

  思い出に浮かぶ夕景を 沈まないように願って目を瞑る


「あれ……」

 曲を聴き終えると、知らないうちに涙がこぼれていた。特に悲しいわけでもないのに、どうして私は泣いているのだろう。こんなにちゃんと泣くのはずいぶん久しぶりで、ただ自分に困惑しながら、その涙が止まるのを待つしかなかった。

 しばらくして涙が止まる頃には、すっかり気持ちが晴れているような気がした。今までうじうじと考えていたことがみんな馬鹿らしく思える。

 私はきっと悩むために悩んでいたのだ。息苦しく生きることが正しいことだと思っていた。そうやって周りを「普通」だと見下して、自分が特別であると勘違いしていただけだった。

 もうそんなのはやめにしよう。歌にするようなことはない方がいいし、私には歌にしたいことなんて端からなかった。だからあんなに曲を作るのが苦しかった。

「さよなら」

 私は弥那のCDをゴミ袋に放り込んで、そのまま袋の口を堅く縛った。

 これでもう終わりにしよう。全部、忘れてしまおう。

 そのために、私は今後こそ音楽を辞めた。

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