5-4

 屋上へと上る階段は校舎の一番奥まったところにある。

 アルファベットのHの形をした校舎には、全部で四つの階段があり、それぞれが一階から四階までを繋いでいるのだが、この階段だけがその先もさらに続いて屋上まで伸びている。

 場所の悪さもあって、たとえなくなっても困らないほど使用頻度の低い階段となっていた。普通の生徒は屋上に行くこともほとんどないので、もしかすると一度もこの階段を使わないまま卒業していく人もいるのかもしれない。

 そんな忘れられかけた場所だからか、あるいは私の心象を具現化しているのか、不気味な薄暗さを感じるその階段を上っていく。

 ――いや、単純に日当たりが悪い場所なだけか。

 こうやってすぐ感傷的になるのは悪い癖だ。窓の外に揺れる木々を見て溜め息が漏れる。

 できるだけゆっくりと、一段ずつ踏みしめるように歩いていたはずなのに、気付けばすでに屋上の扉の前まで辿り着いていた。少しくすんだドアノブを見つめて、しばらくその場に立ち止まる。

 ここまで来たはいいものの、そもそも彼女が屋上にいるとは限らなかった。というか、別の場所で他の友達といる可能性の方が高い。彼女がまだ私を待ってくれていると考える方が傲慢だろう。

 途端に私は恥ずかしさが込み上げてくる。すぐに主人公を気取って、自分に都合のいいものしか見えなくなってしまう。そんなことばかりしているから、私は前に進めない。

 ――違う。これもまた言い訳だ。

 私はまた彼女から逃げる理由を探そうとしている。ダメだ。私は彼女に会わなくちゃいけない。

 とにかく一度考えるのをやめて、私はドアノブに手をかけて勢いよく屋上に飛び出す。

 すると薄暗かった世界が一変して眩い光が目に飛び込んでくる。思わず閉じかけた瞼を少しずつ開くと、そこには縮尺を間違えたのかと思うほど雄大な青空が広がっていた。

 そして目が慣れてきたところで正面を向くと、ちょうど視線の先にいる彼女と目が合った。

「京香……」

 私は彼女に会いに来たはずなのに、いざ目の前にすると溢れ出す感情に頭が追い付かず、完全に思考が止まってしまった。

 何か言わなければと思うけれど、どこから言葉にすればいいのかわからない。

 彼女がここにいたことへの驚き。

 彼女と再び会えたことへの安堵。

 彼女を傷付けてしまったことへの申し訳なさ。

 彼女に抱いてしまったみっともない怒り。

 そして、改めて気付いた彼女への感謝。

 全部余すところなく伝えなければ。そう思うほどに、言葉が泡のように浮かんでは消える。

「ごめーーーーーん!!」

 しばらく無言のまま見つめ合う時間が続いた後、先に声を発したのは京香だった。

「私の方こそ、ごめん!」

 遠いところにいる京香に届くように、私は精一杯声を張り上げて言う。

「ほんとだよ! ずっともういない人のことばっか気にしてさ! 元カノに未練たらたらのメンヘラ女めー!」

「そこまで言わなくてもいいでしょ! 弥那はそれくらい私にとって大切な人だったの! 京香こそ、そんな見た目で自分に自信がないとか、ギャップ狙いすぎ!」

「しょうがないじゃん! 私だって、ほんとは自信満々でいたいよ! てか、灯里だって自信ないのは一緒でしょ!」

「私はキャラと合ってるからいいの!」

 そうやってひとしきり大声で言い合いを続けた後、最終的に二人とも疲れ果てて仰向けに倒れ込んだ。嘘みたいに澄んだ空を眺めていると、急に全部が馬鹿らしく思えてきて、一度笑い出すと止まらなくなった。

 学校の喧騒から切り離されたこの屋上は私たち二人だけの空間だった。

 私たちの声は空に吸い込まれて消えていき、二人の間だけで完結する。その静けさが心地よかった。

「私はさ、何もない人間なんだよね」

 先に口を開いたのは京香だった。

「見ての通りあんまり頭よくないし、難しいこととか考えらんないの。だから毎日楽しく生きてるし、それでいっかーって思ってた、何かを考えてても、悩んでても、大体すぐに忘れちゃう。本気で何かに向き合うことができなかったんだ」

 京香がこぼした本心を聞いて、私は倉木さんの言っていたことを思い出す。彼女は自分に自信がなくて、でもそのことにすら上手く向き合えずに、だから明るく振る舞っていたのだ。

「人の心を動かせるのは、自分の心をちゃんと震わせられる人なんだと思う。怒ったり、悲しんだり、苦しんだり、そういう強い感情が人に届く音楽を作るんだよ。だから私は灯里の強い想いがこもった音楽に感動した」

 飄々と何でもそつなくこなして、人付き合いも上手くて、器用に生きているように見えていた。でもそのことこそが、京香にとってはコンプレックスだった。

「バンドで歌うことになった時、私なんかにできるはずないって思った。実際、始めてみたら上手くいかなかった。自分なりに練習とかしてみたけど、いい歌を歌いたいからじゃなくて、みんなの足を引っ張りたくないっていう気持ちが大きかったの。それで結局から回って、明子を勝手にメンバーに入れようとしたりもして……。私的には明子みたいな歌の上手い子が歌ったらバンドが完璧になるって思ったんだけど、たぶん全然何にもわかってなかったんだよね」

 決して悪気があったわけでもなければ、バンドをやりたくなくなったわけでもなく、京香は本気で竹内さんがボーカルをやる方がいいと思っていたのだ。しかし、それが彼女を信じてバンドを組んでいた私たちを踏みにじる行為だということに気付いていなかった。

「私の心は穴が開いて空っぽなんだ。その瞬間は何かを思っても、すぐに通り過ぎて消えてっちゃう。私には音楽なんかできない」

 京香は寂しげな顔で笑った。そして少し躊躇うように息を吸うと、私の方を真っ直ぐ見据えて再び話し始める。

「でもね。灯里と、葵っちと、結音ちゃんと、四人で音楽をやるのは楽しかった。歌はへたくそだし、人の心を動かす歌は歌えないけど、それでも楽しかったんだ。だから、今更かもしれないけど、灯里たちと一緒にもう一度音楽をやりたい」

「私は……」

 もう逃げない。誤魔化さない。そのためにここへ来たのだ。

 弱気になって狭まっていく喉を無理矢理こじ開けて、自分の本当の想いを口にする。

「私はずっと怖かった。京香たちとバンドをやるのが楽しくて、それで満足してしまうのが怖かった。弥那との思い出がなかったことになってしまうんじゃないかって」

 弥那との思い出を忘れてしまうことは、私にとって過去の自分に対する裏切りだった。それがずっと怖かったんだと思う。

「でも、それこそが弥那との思い出を蔑ろにする行動だった。せっかく弥那に音楽の楽しさを教えてもらったのに、それを忘れようとしていたんだから」

 今の私を弥那が見たら、うじうじ悩んで馬鹿みたいだと笑うだろう。自分のことなんか忘れて音楽をやれと言うはずだ。

「私はもう一度京香と音楽をやりたい。私の曲を好きだと言ってくれた京香のために、私の想いを込めた音楽を作りたい。その曲を京香が歌ってくれたら、きっととんでもなくいい曲になるはずだから」

 私は京香の瞳を見つめる。この時初めて私は京香のことをちゃんと見ることができた気がした。

「できるかな、私なんかに……」

「できるよ、京香なら。京香は京香が思ってるよりすごいんだよ」

「ハハ、何それ。それを言うなら、灯里こそ灯里が思ってるよりすごいよ」

 そうやってお互いに褒め合うと、急に照れ臭くなって笑みがこぼれた。

「私は京香が信じてくれる私を信じる。だから京香は、私が信じる京香を信じて」

「うん。それならできるかも」

 私たちの和解を祝福してくれるかのように、ちょうど昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。

「なんか、京香の歌に惹かれる理由がわかった気がする。明るい太陽みたいに見えて、実は中身はぐちゃぐちゃ。京香は自分の心が空っぽだって言うけど、私は真逆だと思うな」

 本当に空っぽだったとしたら、こんなにも自分を言語化することはできない。彼女が語ったことは、ずっと自分のことを考え続けてきた人のものだった。

「正直、こんな屈折してる人間は他にいないよ。そういう『ややこしさ』が出てる歌だから、私は京香の歌に惹かれたんだ」

「それ、褒めてる……?」

「うーん、一応?」

 私が冗談めかして笑うと、京香は不満そうに顔をしかめた。

「そんなこと言ったら、灯里こそ『ややこしい』奴だもんね。そのせいでこっちがいつもどんだけ困らされてるか……」

「そればっかりは申し訳ない……」

 確かに京香には迷惑をかけてばかりだ。こうして見捨てずに隣にいてくれることに感謝しなくてはいけない。

「ロックバンドってもっとかっこいいもんだと思ってたなー。自分をしっかりと持ってて、代弁者として歌を歌う、みたいな? 自分のこともよくわかんないまま、何に悩んでいいかもわかんないまま歌うって、アリなのかな」

「確かに、ロックを名乗るにはあまりにもややこしすぎるかもね。でもいいでしょ。私たちが歌いたいことを歌えば、それが一番価値のあることだと思う」

 ややこしい私たちにはきっとロックは向いてない。

 でも私たちは音楽を選んだ。バンドを選んだ。ロックを選んだ。

 そういう奴がいたって、悪くはないはずだ。

「あ」

 急に思い立って、私は勢いよく起き上がる。

「ごめん、私帰る! 今なら曲ができそうな気がする……!」

 曲の種になりそうなイメージが、頭の中でもやもやと渦巻いていた。これを見失わないうちに、すぐにギターを手に取りたい。

「それじゃ、私も一緒に行かせて!」

「え、でも授業は……?」

「いや、それは灯里も同じじゃん」

 引きこもり崩れの私はともかく、優等生の京香を巻き込んで授業をサボるのは忍びなかったが、そう言われるとぐうの音も出ない。

「わくわくしてきた!」

 京香は楽しそうに笑いながら、勢いよく駆け出した。

 私も高揚しているのを感じた。内側から湧き出てくる衝動みたいな感覚が全身を熱くしている。

 あの頃もこういうどうしようもないほどの熱に浮かされて、曲を書いていたのだと思い出す。

「ちょっと、待ってよ!」

 もつれる足を強引に動かしながら、一足遅れて、私も京香を追いかけて走り出した。

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