2-3

 ちょうど結成から一か月ほどが経過して、けたたましく響くセミの鳴き声とともにすっかり夏の気配が漂い始めた頃。

「〝じゃじゃーん!〟」

 練習を終えて、いつものようにロビーのテーブルで軽く雑談をしていると、唐突に結音がチラシのようなものを私たちの前に差し出した。

「これは……?」

 それは近くのライブハウスで行われるブッキングライブのフライヤーだった。日付は二週間後。ちょうど夏休みに入る学生に向けたライブのようで、出演者は高校生に限られているようだ。

「〝ピコンッ〟」

 結音はフライヤーの一番下に書いてある吹き出し部分を指差す。

「出演バンド大募集……って、もしかして、これに出ようってこと?」

「〝コクリ〟」

 続いて結音は自分のスマホを取り出して、画面を私たちに見せる。そこにはライブハウスとのメールのやり取りが表示されていて、まだ枠が空いていること、今からでもエントリーが可能なことを確認済だった。

「でも二週間後って、流石に急すぎるんじゃ……」

「いや、いいんじゃないかしら? 漫然と練習するよりも、明確に目指す場所があった方がいいのは間違いないわ。曲はもう二曲あるし、コピー曲を追加すれば、持ち時間の十五分は埋められるし」

 尻込みする私をよそに、葵はかなり前向きのようだった。元々ストイックな性格だから、こうやって自分を追い込むのが得意なのだろう。もちろん彼女の言っていることも一理あるが、どうしても私は不安の方が勝ってしまっていた。

「京香はどう思う?」

 票は二対一で結音たちが優勢。私も自信がないというだけで絶対反対ではないので、あとは京香の意見次第だった。

「え、私……?」

 まるで自分に話が振られるのを予想していなかったというように、驚いた表情を浮かべる。さっきからどこか上の空で、ちゃんと話を聞いていなかったようだった。

「私は、みんなに任せるよ。ライブのこととか、全然わかんないし」

 そう言って京香はばつが悪そうに苦笑いをした。彼女はいつもこうやって自分の意見をあまり主張しない。周りに合わせ、流れに身を任せるというのが、陽キャの処世術なのかもしれない。

「……何よ、それ」

 しかし、葵が低い声でそう呟きながら、京香に睨むような視線を向けた。

「自分のバンドのことなんだから、ちゃんとあなたも意見を言いなさいよ。ましてや、あなたはボーカル、このバンドの顔でしょう? そんな気の抜けた態度の人間の歌じゃ、誰の心にも響かない」

 葵はひどく苛立った口調でまくしたてる。どうやら京香の反応が気に入らなかったらしい。

「それに私たちだって、そんな風に思ってることを隠されたら気持ちが悪い。自分が我慢すればいいとでも思ってるのかもしれないけれど、音楽をやる上で、そういう中途半端な態度ははっきり言って迷惑よ」

「ごめん、そんなつもりじゃ……」

「そんなつもりじゃなかったら、どういうつもりなの?」

「いや、私はみんなを信用してるから、任せるよって……」

「信用? あなたのそれは責任を押し付けてるだけじゃないかしら?」

 言葉を重ねる度に、どんどんと葵はヒートアップしていく。京香はあたふたとして彼女をなだめようとするが、それすら逆効果になっている。

「大体あなたはいつも……」

「〝ピシッ!〟」

 収拾がつかなくなりかけたところで、結音が二人の間に割って入ると、頭を思い切り手刀で叩いた。そして頬を膨らませて、咎めるように怒った顔を二人に向ける。

「ふ、二人とも、喧嘩はやめよう」

 私も一歩遅れて止めに入る。葵は少し冷静さを取り戻したのか、それ以上何も言わず口を閉じて俯いた。

「じゃあ、とりあえずライブは出るってことで! 細かいことは明日にでも決めよう!」

 そんな事件がありつつも、結局私たちはライブへの出演が決まった。

葵と京香も一日経ったら元通りになっていて、私はそれを見て安堵した。もしもあんな喧嘩でバンドが解散となってはあまりにもやるせない。

 いざ出演するとなって、今までよりも気合いが入ったようだった。ライブまでの間はバンドでの練習時間を増やし、内容も漠然と曲を合わせるだけでなく、細かい部分の確認やニュアンスのすり合わせなどを行うようになって、曲の完成度が上がっていった。この辺りは経験者である葵と結音が積極的に仕切ってくれて、私はそれに必死に食らいついていく。

 葵に窘められていた京香も、意欲的に練習に取り組むのはもちろん、コピー曲の候補を積極的に出してくれた。結局セトリは完成済のオリジナル二曲と、結音が提案したきのこ帝国の『東京』という曲に決まった。

 そうやって上手く歯車が噛み合い、ライブに向かって前向きに進んでいく、はずだった。

「……どうしよっか」

 練習を終えてファミレスに集まった私たちは、重たく暗い空気を漂わせていた。完全に八方塞がりで、活路が全く見出せない。何よりも、みんな発言するのが恐ろしくなっていて、しばらく沈黙が続いてしまっていた。

「そういえば、バンド名はどうするの?」

 ライブ本番まで一週間を切った頃、葵が思い出したようにその話題を口にした。

「そっか。ライブに出るんだから、名前は決めないとだよね」

 というわけで、一日各自で案を考えてきて、次の日の練習後に話し合うことになった。

 正直言って、このとき私はバンド名というものをかなり軽く考えていたと思う。そこまでこだわりがあるわけでもないし、みんなで頭をひねればそれなりの案が出るだろう。そんな程度にしか考えていなかった。

「とりあえず一個ずつ出していこうか」

 約束通り、私たちは各々が考えてきたバンド名を発表し合った。

「灯里の名前から取って、『akari』がいいと思う!」

「ちょっと待って! 名前から取ったってか、そのままじゃん!」

「〝じゃーん〟(『ぱくぱくおさかなクラブ』)」

「流石にゆるすぎるでしょ!」

「『融解する精神はやがてあなたを蝕んでいく』」

「ちゅ、中二病……?」

「歴史で出てきたそれっぽい言葉で……『天球回転論』とか」

「それ、ほとんど『相対性理論』じゃん」

「〝ピンポーン〟(『またね』)」

「悪くないけど、ちょっとシンプルすぎるわね」

「灯里、京香、葵、結音で、『アキアオネ』とか……」

「うーん……」

 それぞれ何個か候補を持ってきていたが、どれもあまりしっくりこなかった。最初はわいわいと楽しげにお互いの案を批評し合っていたが、次第にバンド名がゲシュタルト崩壊を起こし、どんな反応をしていいのかわからなくなっていく。さらに、自分の案に他の三人が微妙な反応を見せることで自信がなくなると、段々新しい案を口に出すのも難しくなってしまった。

 そんな風にバンド名会議は難航に難航を重ねて、今に至るというわけだった。もはや出涸らしすらも出なくなった三人は腕を組んで唸ったまま、ただ時間だけが過ぎ去っていく。

 私はようやくバンド名を決めることの難しさを痛感していた。人名のようにある程度のルールがあるわけでもないため、自由度が高すぎてとっかかりを見つけづらい。その割に既存のバンドと被ってはいけないため、意外に条件は厳しいのだ。

 何よりも難しいのは、自分が考えたバンド名を発表することが途轍もなく恥ずかしいということだった。「こいつ、こういうのがかっこいいと思ってるんだ」と見透かされてしまうわけで、しかもそれが否定されれば、露骨に自分のセンスを否定された気分になる。

 このままでは一向に決まらないままだった。そこでようやく私は意を決して口を開く。

「実は、もう一つ考えてきたのがあって……」

 これまで私が出した案は、言うなればダミーみたいなものだった。考えてきた案を出すのが恥ずかしくて、話し合いに参加してる風を装うために、それらしいバンド名を言っていただけだった。

 しかし、三人がこれだけ真剣に考えているのに、自分だけそこに入らないのはあまりにずるい。そう思って、私はやっと決意が固まった。

「『水彩のよすが』ってどうかな……?」

 宙を彷徨っていた三人の視線が一斉にこちらに向けられる。まだその段階では反応を決めあぐねているからか、誰も何も言わず、続きを待つような顔をしている。

「私たちの音楽なんて、きっとすぐに忘れられちゃうと思う。自分が歴史に名を刻むほどの大天才だとは思わないし、もし仮にそうだったとしても、時間とともに少しずつ忘れられていくことは決して避けられない」

 弥那が死んでから、再び音楽を始めた今も、この考えはずっと変わらない。

「だけど、一人でも私の音楽に心を動く人がいるなら、意味はあるのかもしれない。いつかその人も私の音楽を忘れてしまったとしても、聴いていた事実はなくならないから」

 これは京香の受け売りだ。正直言って、所詮は綺麗事だと思う。でもそれを信じてみたくなったから、私はもう一度音楽をやろうと決意したのだ。

「私はそういう音楽を作りたい。誰かの心を色づける音楽を」

 水彩で描いた風景は、一度は誰かを救う拠り所になれたとしても、人の心に沈んでいくうちに溶けてなくなってしまう。けれど、その溶け出した絵具は心に色を付けて、薄れていくことはあっても、完全に消えることはない。

 そしてその人が別の形で誰かの心を染めて、さらにその人もまた別の誰かの心を染める。そうやって私の落とした絵具の色は、ほんのわずかかもしれないけれど、人の心に残り続ける。

 必死に忘れまいとしていても、あの頃よりもずいぶんと薄れてしまった弥那の音楽こそ、まさに私にとっての『水彩のよすが』だった。だから今度は私が誰かに、彼女の色が混ざった私の音楽を届けたい。

「……って、ちょっと詩的すぎるかな」

 夢中で語り終えたあと、急に恥ずかしくなって、苦笑しながら誤魔化すように付け加える。

「……ぅ」

「え、ちょっと、なんで泣いてるの?」

「うぅ……だってぇ……」

 私がこわごわ顔を上げると、京香が顔をくしゃくしゃにしながら涙を流す姿が目に飛び込んできた。

「あの灯里が、そんな前向きなことを言うなんて……」

「いや、だからって何も泣かなくても……」

 京香は一向に泣き止む気配はなく、固い紙ナプキンで鼻を噛んでいた。しばらくはまともに会話ができなさそうなので、とりあえず彼女は放っておくことにする。

「二人は、どう……?」

私は葵と結音の方に目を向けて、不安な気持ちを胸に尋ねる。

「まあ、悪くはないわね」

 すると、葵が腕を組みながらぶっきらぼうに言う。

「〝賛成!〟」

 続いて結音も両手を上げてそう答えた。

「よかった……」

 どうやら二人とも納得してくれたことがわかり、私は安堵の溜め息を吐く。まるで長い裁判を終えて、無罪判決が言い渡されたような気分だった。

「きっとさ……」

 ようやく少し落ち着いたのか、京香が真っ赤に腫れた目を擦りながら口を開く。

「きっと、灯里の曲ならなれるよ。誰かの『水彩のよすが』に」

 京香はそう言って優しく微笑む。その言葉は私にとってとても頼もしかったけれど、それを伝えるのは照れ臭くて、呆れたふりをして顔を逸らすことしかできなかった。

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