2-4

 こもり切った黴臭さと長い期間をかけて染み付いたタバコの臭いが充満する控室の中。機材や荷物に埋もれた狭い空間の隅で、自分たちの出番が来るのを待つ。

 壁には色んなバンドの名前が書かれたパスやステッカーが貼られて、元の壁の色がわからなくなっている。私はそれを一つ一つ眺めながら、ステージから薄っすら漏れ聞こえてくる音に耳を傾けていた。

 ライブ当日。出番直前の行動はそれぞれの特徴が表れていた。

 葵は膝にパットを置いて、真剣な顔でウォーミングアップをしている。パタパタと一定のリズムで鳴る音が心地よくもあったが、一方でそれを聞いているとこちらが緊張してしまいそうなほど彼女のストイックさが滲み出ていた。

 隣にいる結音は対照的に、リハーサル以降一度もベースを触っていない。今はコンビニで買ったパンを両手で持って、小動物のようにもさもさと頬張っている。彼女は彼女で緊張感がなさ過ぎて、見ていると何となく不安になる気がした。

 そして京香はと言うと、ついさっき「着替えてくる」と外に出ていったきり、なかなか戻ってこなかった。もう前のバンドは三曲目が始まろうとしていて、あと五分もすれば私たちの出番が始まってしまう。

「あぶなー! 間に合った!」

 そろそろ探しに行こうかと迷っていたところで、ようやく京香が戻ってきた。彼女はまだ私たちが控室にいるのを確認して、安堵したように近くの椅子に腰を下ろす。

「え、ちょっと待って。何その恰好……」

「ん? いいでしょ、これ! やっぱり衣装だから派手な方がいいと思って」

 私は京香の姿を見て、思わず絶句してしまった。

 胸元のざっくり開いた短丈タンクトップに、それを全く隠す気のない肩出しのジャケット。下半身は下着かと思うほど短いホットパンツからすらりと艶めかしい生足が伸びている。とにかく露出面積が多く、布で隠れている部分の方が少ないくらいだった。

「いや、肌出すぎ……」

「そう? まあこの方が可愛いじゃん」

 京香は悪びれる様子もなく、ファッションショーでもするように、その場でくるりと回転して見せた。

「あ、もしかしてエロい目で見ちゃった? 意外とむっつりスケベだね」

「ち、違う! そういうことじゃない!」

 それが冗談とわかりつつも、ばつが悪くなって視線を外す。

「私たちは音楽を聴いてもらいに来てるんだから、変に着飾ったってノイズになるだけでしょ」

「見た目も大事だと思うけどなー。てか、葵っちと結音ちゃんはちゃんと可愛い恰好してるじゃん。むしろ灯里が普通過ぎるんじゃない?」

 私は葵と結音の方に目を向ける。確かに、葵はゴシック調のドレスのような衣装、結音はレトロな雰囲気のおしゃれなワンピースを着ていて、いつもの練習の時に見ている私服よりも気合いが入っている様子だった。

 それに比べて、私は相変わらず無味無臭のつまらないファッション。本当は前に京香に選んでもらった服を着てこようとしたのだが、それも露骨すぎる気がして、結局勇気が出ずにいつもと変わらない服装を選んでしまった。

「京香のその恰好は、何と言うか、軟派すぎる! ロックじゃないんだよ!」

「うちってそんな硬派なバンドだったっけ……」

「あーもううるさい! いいからこれに着替えて!」

 不服そうな京香に持っていた予備のTシャツを無理矢理押し付けて、控室から追い出すようにして着替えに向かわせる。

「なんか可愛くない……。これがロックなの……?」

 着替えを済ませて出てきた京香は、首を傾げながら鏡を見つめる。

「文句言わないで。それ私のお気に入りなんだから」

 それは私が両親とアウトレットに行った時に一目惚れして買ったTシャツだった。スケートボードに乗ったウサギが胸元に大きくプリントされていて、シュールな雰囲気が気に入っているのだが、どうやら京香の感性には合わなかったらしい。

「はしゃいでないで、もう出番よ」

「〝レッツゴー!〟」

 そんなことをしているうちに、前のバンドが演奏を終えて控室に戻ってきていた。私は慌ててギターとエフェクターボードを手に取ると、先を行く葵たちの後を追いかける。

 観客の入りは上々だった。学生限定のイベントだから、それぞれのバンドが友達を呼んでいるのだろう。舞台袖から薄っすらと見える客席はほとんど満員だった。

 そのうち二十人ほどは私たちのお客さんだった。と言っても、ほとんどは京香が連れてきた友達で、葵と結音が呼んだお客さんが二人ずつ、そして私は一人も呼べていなかった。流石は真の陽キャと京香に感心しつつ、本当に友達のいない自分の不甲斐なさを呪った。

 目隠しの幕を押しのけてステージに上がると、まだ冷めていない前のバンドの熱気が顔に張り付いてきた。爆音でかかるBGMと観客のざわめきが薄暗い客席の方から聞こえてくる。その瞬間、自分がこれから演奏をするということを改めて認識して、急に鼓動が早くなるのを感じた。

 汗ばむ手をTシャツの裾で拭いながら、ギターをマーシャルに差してセッティングをしていく。

 アンプのノブをリハーサルの時と同じ位置に合わせて、試しに音を鳴らすと、ちゃんと想像通りの音が出てくれた。少し高音の効いた、ジャズマスらしいクランチサウンド。聴き慣れた音をかき鳴らしていると、少しだけ緊張が紛れる。

 準備を終えて顔を上げると、他の三人と目が合った。そして互いに頷き合って、京香がPAに向かって手を挙げる。

 BGMが徐々にボリュームを落とし、それと合わせて照明が消える。真っ暗になった視界の中で、ざわついていた観客たちもその空気に気付いて口を閉じると、息が詰まるほどの静けさが空間を支配する。


 ――ハッ。


 京香が息を吸うのを合図に、私がギターをかき鳴らす。

 一曲目は『青い夜、白い朝』。この曲は京香の歌と私のギターで始まる。一音目は息を合わせてぴたりと重なって、その気持ちよさを保ったまま、疾走感のあるサビが続いてく。そしてイントロに入ってベースとドラムが加わると、迫力を増した音がフロア全体に響き渡る。

 弦を強く弾くほどに、不思議と静けさが満ちていく感覚があった。その静寂に心地よさを覚えながら、曲が描き出す夜と朝の狭間の世界に埋没する。

 夜が怖くて、朝を迎えるのが不安で、そんな私が唯一居場所を感じられるわずかな時間。それを曲の中に映し出して、聴いている誰かと共有したい。そうすれば、夜の孤独と朝の眩しさが少しは紛れる気がするから。

 曲が終わり、朝焼けのような光が客席を照らし出す。

「ありがとうございます。『水彩のよすが』です」

 京香が口にした言葉を聞いて、私はようやく自分が再び音楽を始めたのだということをきちんと認識できた気がした。

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