1-6

 京香に連れられてやってきたのは、夜道の中で煌々と光を放つ何の変哲もないカラオケチェーンだった。

「せっかくだから灯里と一緒に歌いたかったんだ」

 妙に照明の明るいエントランスに入ると、京香が慣れた手つきで受付を済ませ、二~三人用の小さな部屋に案内される。

「カラオケなんて初めて来た……」

「嘘、やば!? 私なんて高一の頃は週三で来てたときもあったよ」

 明かりの付いていない部屋の中は、壁沿いに設置された大きな画面の光で青白く照らされていた。そこには旬のアーティストが新曲への想いを語るインタビュー映像が流れている。

 大して遮音性のないドアと壁を貫いて、様々な音が入り混じって聞こえてくる。有線から流れる流行りの曲、店員を呼ぶ電話の音、楽しそうに騒ぐ男子学生の笑い声。隣から掠れた声で叫ぶへろへろの歌声が漏れていて、その必死さが少し可笑しかった。

 京香は毒々しい色のメロンソーダをストローで吸い上げながら、真面目な顔でデンモクとにらめっこをしている。横からその画面を覗き込むと、「一曲目っていつも何入れればいいか悩む」と言って眉間に皺を寄せた。

「よし、これで!」

 五分ほどデンモクと格闘してようやく曲が決まったらしく、京香が画面に向けてボタンを押すと、ピッと音がして曲名が表示された。その曲は二十年ほど前に流行った女性シンガーソングライターの曲で、私は辛うじて名前を知っている程度だった。

「お母さんが好きで、ちっちゃい頃よく車で聞いてたんだよね」

 抗菌用のビニールがかかったマイクを手に取ると、流れ始めた謎の映像に合わせて、京香は早速歌い始める。

 Aメロの一節目、一番初めのメロディを聴いて、私は驚いて思わず京香の顔を見遣る。その真っ直ぐと透き通りつつも、芯の通った力のある歌声は、一般の女子高生とは思えないほど聴かせる力を持っていた。

 ピッチは甘く、声がブレているところはあるが、それを補って余りある声の良さ。そして感情の起伏がそのまま表出たような豊かな抑揚が歌にメリハリを与えている。それは歌でありながらも、どこかこちらに語りかけてくるセリフのようでもあって、歌詞に詰め込まれた言葉の一つ一つが心にすっと入ってくる心地よさがあった。

「ちょっと久々だったけど、やっぱカラオケって楽しー」

 一曲目を歌い終えると、京香は満足そうにソファに腰を下ろす。そしてメロンソーダで喉を潤すと、早々に次の曲を入れた。

 そこから京香が立て続けて歌うのを、私はただ茫然と聞いていた。やはり彼女は歌が上手い。決してテクニック的に優れているわけではないので、圧倒的な才能から来るカリスマ性のようなものが感じられた。

 どうやら京香は少し古めのロックやポップスなどを好むようだった。最初に言っていたように両親の影響なのだろうが、京香のキャラクターからするともっと流行りの曲やアイドルソングなどを歌うのかと思っていたので、私からしてみるとそうした選曲も意外だった。

「ふぅ。歌った、歌った。ちょっと飲み物取ってこよー」

 三曲目を歌い終えて一旦満足したのか、京香は空になったグラスを持ってドリンクバーへと向かった。私はテーブルの端に置かれた自分のグラスに目を向けると、まだアイスティーがなみなみと残っていた。

 扉が開いて京香が戻ってくる瞬間、薄っすらと聞こえていた有線の曲がフェードインするように部屋の中に入ってきた。

「歌……」

 私はちょうど扉が閉まりかけたところで、京香に向かってぽつりと呟く。

「ん? 何か言った?」

「歌、上手いよね」

 自分の驚きを伝えたかったのだが、何と言葉にしたらいいかわからず、お世辞にしか聞こえないような言い回しになってしまった。

「いやいやいや! そんなことないよ! 採点とかしても点数全然低いし、音楽の授業でも褒められたことないし……。私の周りだったら、明子とかのがもっと上手いよ」

 具体性を帯びたことを言おうと口を開くと、慌てて否定する京香の言葉に遮られる。

「てかさ、私ばっか歌ってるけど、灯里も歌ってよ!」

 そして無理矢理話題を変えるようにして、京香は口をとがらせながらそう言った。ここに来た時点でゆくゆくはそういう流れになると覚悟はしていたが、改めて言われると返す言葉に窮する。

「いや、私は……」

「そもそも灯里の歌が聞きたくてカラオケに来たのにさ……。歌いづらそうだったから最初は私がと思ったけど、いつまで経っても歌おうとしないんだもん」

 あわよくば歌わずに誤魔化そうと思っていたが、当然そんなわけにはいかなかった。ぐっと差し出されたデンモクを受け取り、そこに視線を落としながら身体が固まる。

「私、歌はダメなの……」

 やはり歌う気にはなれず、正直にそう白状する。別に意固地になっているわけでも、かっこつけているわけでもなく、純粋に私は歌が苦手だった。

「え、でもあの曲は……?」

「あの曲は別の人が歌ってるの。昔の友達、というか、師匠みたいな人かな」

「えーなんだー。あの歌が聴けると思ったのになー……。でも言われてみれば、灯里の声じゃないか」

 そこでようやく京香が私をカラオケに連れて来た理由がわかった。確かに彼女にはあの曲を「私が作った曲」としか説明していなかった。あえて言わなかっただけだったのだが、そのせいでどうやら勘違いをしていたらしい。

「けど、灯里の師匠かー。きっとすごい人なんだろうな」

「うん。すごい人だったよ」

「へえー! 会ってみたいな」

 そう言われて、私は一瞬胸が詰まる。しかし、それを悟られないように、精一杯頬を吊り上げて笑う。

「いつか機会があったら紹介するよ」

 幸いなことに、京香は私の嘘に気付かなかったようで、「楽しみ」と素直に喜んでいた。

「あ、そうだ! ちょっと待ってて!」

 無事、私に歌わせることは諦めてくれたかと思うと、今度は突然何かを思い付いたらしく、そう言って京香は部屋を飛び出していってしまった。彼女は生きている時間軸が違うのではないかと思うほど忙しない。そんな姿を見ていると、自分があれこれ悩みながら足踏みばかりして生きているのが馬鹿らしくなる。

「歌がダメでも、これならいいでしょ?」

 得意げな顔をした京香が手にしていたのはアコースティックギターだった。明らかに持ち慣れていない彼女は、まるでボディにしがみつくようにそのギターを抱きかかえていた。

「受付で貸し出ししてたの! 私はギターなんて弾けないから借りたことなかったけど、いつも入口のところに置いてあるのを思い出して」

 カラオケでギターを貸し出してもあまり需要があるとは思えないが、サービスとして提供されているということはそうでもないのだろうか。

 私は半ば強引にそのギターを渡されて、やむを得ず受け取る。

 初心者用として販売されているような一万円ほどの安いギターで、案の定借りる人がおらず放置されがちなのか、ボディには埃が積もっていて状態もかなり悪い。特に弦は長らく交換されていないようで、パッと見ただけでも錆びついて黒ずんでいるのがわかった。

「あの曲弾いてよ! 歌いたくてもカラオケに入ってないから困ってたの!」

「いや、でも私は……」

「お願い! 一回だけでいいから!」

 断ろうとする私に、京香は懇願するように手を合わせて詰め寄ってくる。キラキラと輝く彼女の瞳を見て、これはもう説き伏せるのは無理だと悟った。

「……わかった。ワンコーラスだけね」

 私が渋々承諾すると、両手を上げて嬉しそうにぴょんぴょんとはしゃぐ。あまり気乗りはしなかったが、これだけ喜んでくれるのならば、今日一日のお礼として一曲弾くくらいはやむを得まい。

 チューニングを済ませ、準備体操がてら軽く音を出してみる。ギターを触るのはずいぶん久しぶりだったが、自分の曲の伴奏を弾くくらいは問題なくできそうだった。一度ネックから手を放すと、弦に触れた指先から鈍い鉄の臭いが漂ってきて少し懐かしい気持ちになった。

「じゃあ、行くよ」

「うん」

 京香と目を合わせると、そのまま曲頭のコードを鳴らす。不協和音ギリギリで不安定な音なのに、どこか明るさも感じられる独特の響き。まるで深海の奥底に差し込む光を見ているような、明暗の矛盾した二つが混在している音に聞こえる。


  喧騒の中に溺れていく 都会に生まれた僕たちは

  哲学気取りのままごとを 瞑った瞼の奥に浮かべている


  そんな姿を嘲笑いながら 自由に舞ったメロディは

  真っ暗なこの世界の中で 星空よりも輝いていた 


 そして歌が始まった瞬間、暗闇に差した小さな光がスポットライトとなって、そのメロディを優しく照らし出す。ぼやけていた視界が晴れて、透き通った歌声によって描き出される美しい光景が瞳の中に広がっていく。

 そんな風に危うく白昼夢の中へと沈んでいきそうになるのを抑えて、私は歌を歌う京香の横顔をじっと眺める。やはり彼女の歌には特別な魅力があった。

 紡がれるメロディは寄り添うように聴き手を優しく包み込み、冷え切った心を冷たいまま受け入れてくれる。私たちを否定も肯定もせず、ただ彼女の中にある美しい景色を表現することで、この世界への希望を提示する。

 それは押し付けでも綺麗ごとでもない。きっと彼女が心から見たいと願う景色だった。だからこそ、私たちはそれを心から信じることができる。


  空を飛ぶクジラに憧れて

  夢想する幸せを噛み締めている

  もしも歌が歌えたなら

  見える景色は違っていたのかな


 サビに入る瞬間、少し強めにピックを持ち直して、弦をかき鳴らしながら目を瞑る。

 すると目の前には何千人もの観客がいて、自分のいる場所が大きなステージの上に変わった。自分たちが奏でる音楽に、数え切れないほどの人々が没頭している。

 これはあの日夢見た景色だった。いつか必ず、そう言って誓い合った目的地。

 ――弥那……!

 私は込み上げてくる想いを精一杯ギターにぶつけながら、中央で歌うボーカルの方に目を向ける。

 しかし、私はそこでようやく我に返る。今歌っているのは彼女ではない。それなのに、私は京香の歌を聴くうちに、いつの間にか京香と彼女の姿を重ねてしまっていた。

 最後のコードを弾き終えると、余韻が響くよりも先に様々な雑音が覆い被さってくる。相変わらずへたくそな隣人の歌声が聞こえて、さっきまで京香と奏でていた音楽が全部嘘だったんじゃないかと思えてしまった。

「うわー楽しすぎ! やっぱりカラオケとは違うねー」

 吞気に言う京香の姿を見て、ネックを握りしめていた手の力が抜けた。何だかすごく恥ずかしいことをしていた気がして、その気持ちを誤魔化すために、私は「ギターを返してくる」と言って逃げるように部屋を出た。

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