1-7

 休日出かけるというミッションを達成したことで、私と京香は紛れもなく友達と呼べる関係になった。私にとっては高校に入って初の友達である。

 とはいえ、別に何かが変わるわけでもなく、今まで通り一緒にお昼を食べたり、くだらない話をしながら下校したりといった関係性が続いていた。

 その日もいつもと同じように、灯里がどこからともなく手に入れた鍵で屋上に侵入し、青空の下二人で弁当を広げていた。

「……雨降りそう」

 私は空を見上げてぽつりと呟く。

 さっきは便宜上「青空の下」という言葉を使ったが、実際は空一面に黒ずんだ雨雲が敷き詰められていた。朝の天気予報を見てこなかったから、今日は傘を持ってきていない。帰りまで天気が保つか心配だった。

 いつもなら先生に見つかってしまうのではないかと思うほど騒がしい屋上も、どんよりとした天気に当てられたように静かだった。私が呟いた言葉も、雨粒が地面に吸い込まれるように、すぐさま消えてなくなってしまう。

 というのも、隣にいる京香がここへ来てから一度もしゃべっていなかった。こちらから声をかけても気のない返事が返ってくるばかりで、ずっとうわの空のまま、排気ガスで汚れた都会の雨雲を見つめている。

 本来ならこういうときは優しく声をかけたり、何気なく話を聞いてあげたり、あるいは逆に全く関係ない話で気を紛らわせたりするのが正解なのだろうが、対人スキルの低い私にはとても対処できない状況だった。気まずい空気の中、私は黙々と味気ない白米を頬張る。

「ねえ、やっぱりさ……」

 もうすぐ弁当を食べ終えてしまいそうなところで、ようやく京香が口を開いた。

「やっぱり、バンドとかやってみたらどうかな? あんなにいい曲が作れるのに、もったいないよ」

 その話題はこれまで何度も繰り返してきたものだった。特にカラオケでのセッション以降、京香からの押しは強くなる一方で、どうしても私に音楽をやらせたいらしい。

 これまではのらりくらりと躱しながら誤魔化してきたが、今日は明らかに京香のトーンが違っていた。私は嫌な予感を覚えつつも、いつもの通り煮え切らない返答でその場を凌ごうとする。

「前にも言ったけど、もう音楽は辞めたの。飽きちゃったっていうか、めんどくさくなったっていうか、そんな感じ? 京香はそうやって褒めてくれるけど、結局は下手の横好きで、上には上がいるんだよ。私の曲なんか全然大したことない」

 私はあえて軽い口調で言った。何となく京香の方を見ることができず、行き場を失った視線が宙を舞う。

「もしかしてさ、音楽をやらなくなったのって、師匠って人が理由?」

「あー……」

 どうやら懸念していたことが当たっていたようだった。

「弥那のこと、誰かに聞いた?」

「ごめん。灯里のことを探るつもりじゃなかったんだけど……」

 この高校にも中学の同級生だった人間が何人かいる。その人たちに聞けば、弥那のことなどすぐにわかるだろう。むしろ今まで京香の耳に届かなかったのは、本当に彼女が私の過去に踏み入らないようにしていた証拠だった。

「……放課後、一緒に来てくれる?」

 授業が終わり、玄関で集合すると、私は京香を連れてある場所に向かった。

 私は無言で前を歩きながら、時折振り返って彼女が付いてきているのを確認した。俯きがちに歩く彼女は、振り返る私に気が付くと少し不格好な笑みを返してくる。そして何かを言いかけて口を開くが、私はそれに気付かないふりをして顔を前に向けた。

 帰り道とは違う方向の電車に揺られながら、ぼーっと窓の外を眺める。空を覆う雲は昼よりも分厚さを増して、街全体に不気味な影を落としていた。どうして今日に限って傘を忘れたのだろうと溜め息が漏れる。

「ここは……」

 滅多に使わない駅で電車を降りて、しばらく歩いて目的地に辿り着く。目の前に広がる光景を見て、京香はすぐにこの場所が何かを悟ったようだった。

「村雲弥那って名前聞いたことある?」

「えっと、何となく聞いたことあるような……。確か、歌手だよね?」

「そう。心を直接鷲掴みするような力強くて芯のある声と、苦しくなるほど切実で真剣な歌い方が特徴で、一時期ネットを中心に話題になった天才中学生シンガー」

 どこかで見た記事に書いてあった耳心地のいい美麗字句を使って彼女のことを説明した。当時はこんなんじゃ全然魅力を伝えられていないと、いっちょ前に評論家を気取っていたなと思い出して自嘲する。

「そしてここがその村雲弥那のお墓」

 ちょうど雨粒が渇いた墓石の上に落ちて、小さな染みができた。いよいよ本格的に雨が降り出すかもしれない。

「弥那は私の師匠だった。ドレミも知らない私に音楽を一から教えてくれて、彼女に追いつきたくて私も曲を作るようになった」

 私は墓石の方を向いたまま、淡々と話を続ける。

「彼女は紛れもなく天才だった。その才能はすぐに見つかって、ネットの中ではそれなりに名が知れるようになった。中学生というのも公表していたから、その年齢に見合わない歌声も話題になって、テレビなんかにも出たりしていた。事務所からのスカウトやCMタイアップの話もいくつか来てたみたい」

 そんな彼女のことが、私は誇らしくてたまらなかった。私の信じる才能が世界に認められていくのはとても嬉しかった。そしてそんな彼女に認められるくらいの曲を作りたくて、私も私なりに努力して、曲作りに没頭するようになった。

「でも」

 そこまでは何の感情も出さずに、ただ渡された原稿を読むようにして語っていたつもりだったが、肝心なところで言葉が詰まる。

「……亡くなった、んだよね?」

 私が言い淀んでいるのに気付いて、京香が後ろから代わりにそれを口にした。

「大切な人を失うのがどれだけ苦しいことなのか、正直言って私にはわからない。でも、灯里が音楽を辞めちゃったら、村雲さんは悲しむんじゃない?」

「そう、かもね」

「だったら、どうして……!」

 突然堰き止めていた栓が抜けてしまったかのように、激しい雨が降り出した。地面に叩きつけられる雨の音が嫌がらせのようにうるさく響く。

「弥那の歌はさ、すごく人気だったんだよ。何千万回も再生された曲もあったし、配信ライブをやったら同時視聴で一万人近い人が集まった。有名なアーティストも曲を褒めてくれたり、音楽雑誌には仰々しい評論が何度も載った。それなのに……」

 雨音があまりにうるさくて、私はほとんど叫ぶように言う。

「それなのに、死んだ途端、みんな弥那の歌を忘れちゃったんだよ!」

 私が弥那の死を知ったのは、彼女が車に轢かれてぐちゃぐちゃになった翌日だった。

 もう元に戻せないほど無惨な姿になっていたはずなのに、棺桶の中で眠る彼女は恐ろしいほど安らかな顔をしていた。

「みんなが弥那の死を悲しんでたのは、せいぜい一か月くらいだった。熱狂的なファンも、追悼記事まで出していた音楽ライターも、有名人だと持て囃していた同級生も、気付けばみんな弥那の話をしなくなってた。曲も急に再生されなくなって、途中までタイアップの話も当然なしになった。今はもう過去の人みたいな扱いになっていて、誰も彼女の曲に感動しない」

 一度降り出した雨はなかなか止まない。水を吸った制服が重たくなっていた。

「あんなに才能があって、いい曲を作って、世間に評価されていても、すぐに忘れられちゃうんだよ。聴いてた人のちょっとした思い出になって、たまに思い出されたときに「懐かしいね」って言われて終わり。結局音楽に感動するなんて勘違いでしかなくて、偶然条件が合えば誰のどんな曲だってよくて、そもそも音楽自体に意味なんてないんだと思う。所詮は雑音をかき消すBGMくらいの役割でしかない。だとしたら、私みたいな凡人が必死になって曲を作ることに何の意味があるの?」

 私は顔を上げて、墓石に掘られた名前をじっと見つめながら、吐き捨てるように呟く。

「一番聴かせたかった人だって、もういなくなっちゃったのに」

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