1-8

 それから私は何となく気まずくて、京香を避けるように過ごしていた。あんな話をしてしまった後に、どんな顔をして彼女に会えばいいのかわからなかった。

「ちょっと待ってよ! 一緒に帰ろー!」

 しかし、京香の方はそんなことを全く気にする様子もなく、まるで何事もなかったかのように明るい笑顔でいつも通り振る舞ってきた。鬼ごっこでもしてるみたいに追いかけてくる彼女を撒くようにして、昼休みはトイレの個室で弁当を食べ、放課後は逃げるようにこそこそと帰路に着く毎日が続いていた。

「やっと捕まえた……!」

 その日は一日京香の姿を見ておらず、少し油断していた部分があったのかもしれない。そんな隙に付け込まれ、家に帰ろうとしていた私はついに校門で彼女に肩を掴まれた。

「どうして逃げるの?」

 京香は心底不思議そうな顔で尋ねる。

「いや、京香の方がおかしいよ。あんな風にダサい自分語りをしちゃった後なんて、普通に考えて気まずいでしょ」

「ダサいなんて思ってないよ? むしろ本当の気持ちを聞けて嬉しかったし。そもそも別に喧嘩したわけでもないんだから、気まずくなることなんてないじゃん」

 恐るべきコミュ強っぷりに、私は言葉を失う。別に無理して取り繕っているわけでもなく、きっと京香は本当に何とも思っていないのだ。それどころか、あの雨の日のことがあってから、より仲が深まったとすら思っている。

「そんなことよりさ、今日は一緒に来てほしいところがあるの!」

 そう言って京香は私の手を引っ張ると、有無を言わさず駆け出した。

「ここって……」

 辿り着いた先は、駅の近くにある音楽スタジオだった。

「何度も言うけど、私は……」

「いいから、とりあえず中に入ろ!」

 京香は私の手を強く握ったまま、弾けるような笑顔を向ける。そんな彼女に抗えるわけもなく、私は仕方なく入口に向かう階段に足をかける。

「ごめん、お待たせー」

 分厚い二重扉を押し開けて八畳ほどの小さな部屋に入ると、その中にはすでに先客がいた。それぞれドラムとベースのセッティングをしていたらしい二人が、京香の声に気付いてこちらに視線を向ける。

「ねえ、これってどういう……」

「実はバンドメンバー候補を連れてきたの! 灯里と合いそうな人で楽器ができる探してたら、思ったより時間がかかっちゃった」

 京香は私にバンドをやらないのかと圧をかける裏側で、ずっとバンドメンバーを探していたらしい。確かに「一緒にやる人がいない」というようなことを言った気もするが、まさか実際にメンバー候補を連れてくるなんて想像もしていなかった。

「ちょうど二人もバンドをやりたかったみたいで、灯里の曲を聴いて、興味を持ってくれたの。だから今日ここで試しに合わせてみて、いい感じだったら、バンドを組んでみたらどうかなって」

 二人は何も言わず、値踏みするような目で私を見つめていた。

「もしバンド組むってなったら、私がマネージャーに立候補するね! 灯里たちの曲を世界中の人に届けてやるんだから!」

 冷たく張りつめた空気の中で、京香だけが一人盛り上がっている。この厚顔無恥な強引さには呆れを通り越して尊敬の念を覚える。

「ギターは借りておいたから、あれを使って!」

 京香が指さす方を見ると、真っ赤なストラトキャスターがスタンドに立てかけられていた。あまり使われていないのか新品のように綺麗で、照明の光を反射して眩しいくらいに輝いている。

「突っ立ってないで早くしなさいよ。こっちはもう準備できてるわ」

 ドラムセットの奥に座る子が苛立ちの混じった声で言う。

 とりあえずこの場は適当に凌いで、後で断ればよかった。どうせこの二人も京香の押しに負けて、嫌々ここへ来ているだけだろう。京香さえ満足すれば場は収まるはずだ。

 しかし、ぬらぬらと光るストラトに再び目を向けると、急に腹立たしさが湧き上がってきた。どうして京香はここまでして私に音楽をやらせようとするのか。弥那の話を聞いてもなお、目の前に音楽を突き出してくる彼女は、もはや嫌がらせをして楽しんでいるんじゃないかとすら思えてくる。

「ごめん。ちょっと来て」

 私は京香の腕を掴むと、他の二人を置いて一度部屋の外に出る。

 廊下には長年かけて染み付いたのであろうタバコの臭いが充満していた。防音の扉を貫いて、他の部屋からガチャガチャとした音楽が漏れ聞こえてくる。壁には知らないバンドのポスターが所狭しと貼られていて、何度も貼り替えられているせいか、テープの残骸や剥がれた壁紙が年季の入った建物を汚している。

「悪いけど、本当にもう音楽をやるつもりはない。弥那のこと、話したでしょ? 私は音楽に何も期待できなくなっちゃったんだよ」

 私ははっきりとそう告げる。ずっと中途半端な態度を続けていたから、京香に変な期待をさせてしまっていたのかもしれない。最初からこう言えばよかったのだ。

「でも、それでも、私は灯里の音楽が聴きたい……!」

「私はそんな風に期待してもらえる人間じゃない。私の音楽なんて、誰かのBGMにすらなれない、消費されることすらないまま忘れられてしまう。そんなものを作るくらいなら、最初から音楽なんて……」

「そんなこと言わないで!」

 私の言葉をかき消すように、京香の張り裂けそうな声が廊下に響いた。彼女は涙を溜めた瞳で真っ直ぐこちらを見据える。

「灯里の音楽は、人を救う力があるよ」

 その声はひどく寂しげで、それなのに確信満ちた力強さを持っていた。

「私はね、高校に入ってすぐの頃、ちょっとイジメられてたんだ」

「え……?」

「あはは、意外でしょ? 正直、私もびっくりした。自分がイジメられるなんて、想像もしてなかったから。でも学校ではみんな目も合わせてくれなくて、気付くと机や下駄箱が汚されてて、これってイジメなんだろうなって思った。どうしてそんなことになったのかもわからなかったし、たぶん明確な理由なんてなかったんだと思う。何となく歯車が嚙み合わなくて、私だけクラスからはみ出しちゃった」

 京香はまるでちょっとした失敗エピソードを語るような軽い口調で、苦しかったはずの過去を吐露していく。

「ちょうどそんな時に、灯里のあの曲を偶然見つけたの。私は灯里の曲に救われたんだよ」

「私の曲に……?」

「苦しくて、悲しくて、どうしたらいいかわからなくて、私は目の前が真っ暗だった。灯里の曲はさ、そんな真っ暗な世界で震える自分を受け入れて、そんな中にも希望があることを教えてくれたんだ」

 私はあの曲を書いた時のことを思い出す。学校にも家にも居場所がなくて、弥那と一緒に音を奏でている時間だけが唯一の救いだった。だから大切な時間を忘れないように、自分の生一杯を詰め込んで曲にした。

「確かに、いつかは私だって灯里の曲を忘れちゃうかもしれない。でも一つだけ言えるのは、灯里の曲があったから今の私があるし、これからの私があるの。私を救ってくれたあの曲は、そういう意味でずっと私の中に残り続ける」

 京香の言っていることは正論だった。頭ではそんなことわかっている。でも、実際に弥那の曲が世間から忘れられていくのを目の当たりにしてしまって、その恐怖と虚しさが私を締め付けていた。

「……灯里はさ、なんで私がこんなに音楽をやらせようとしてるかわかる?」

 黙り込む私に、京香はそんな質問を投げかける。

「それは、京香が私の曲を気に入ってくれたから……?」

「もちろんそうだよ。でもそれだけじゃ、ここまで粘着質にお膳立てまでして、強引に音楽をやらせようなんてしないよ」

 京香は赤く腫れた目を押さえて涙を拭うと、温かみのこもった優しい顔で笑った。

「音楽をやりたくないなんて嘘なんだもん。初めて会った時、音楽に救いを求める目をしてた。音楽を求めてた。そんな人が「音楽はもうやらない」なんて苦しそうに言ってるんだから、手を差し伸べてあげたいって思うでしょ」

「嘘……」

「カラオケの時だって、見たことないくらい幸せそうな顔をしていたじゃん。あんなの見ちゃったら、なおさら放っておくことなんかできない。灯里は私の恩人で、大切な友達なんだからさ」

「そっか……」

 京香に言われて初めて、あのカラオケでのセッションを心から楽しんでいたのだということに気付く。だから私は弥那と京香の姿を重ねて、昔憧れた夢を思い出した。必死に押し殺そうと誤魔化していたけれど、私はあの時もう一度音楽がやりたいと思ってしまっていた。

「今日が最初で最後でもいい。もう一度だけ音楽と向き合ってみてよ。でも亡くなった人を言い訳にして、自分に嘘を吐くのはやめて。大切なのは、灯里が音楽を好きかどうかだから」

 なんて強い人なんだろうと思った。他人のために、私自身よりも私と向き合って、そのためにはぶつかって傷付くことも厭わない。

 それに比べて私は過去のことばかりをうじうじと考えて、新しい世界を恐れて飛び込もうとしない。もしかしたら、いつか京香のような人が現れて、こうして無理矢理手を引っ張ってくれるのを待っていたのかもしれない。

「わかった。やってみる」

 まだ決意が固まったかどうかはわからない。でも自分ではなく京香を信じてみることにした。

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