1-9

「待たせちゃってごめんなさい」

 私は部屋に戻り、待ちわびた顔でこちらを振り返る二人に謝罪する。

「やっと話はまとまったみたいね。まったく、そっちから誘っといて待たせすぎよ」

「ごめん……」

「もういいから。やるならさっさとやりましょう」

 元々京香から事情を聞いていたのか、あるいは目を腫らした私たちの顔を見て何かを察したのか、いずれにしても二人は深く追求してくることはなかった。今はその気遣いがとてもありがたい。

「曲はあの『demo』ってやつでいいわね?」

「あ、うん」

 ドラマーがサバサバとした口調で段取りを整えてくれる。私は赤いストラトを持って、急いでアンプのセッティングを済ませる。妙にストラップが短いのが気になったが、直すのも面倒なのでそのままでいくことにした。

「それじゃ、フォーカウントで」

「あ、ちょっと待って!」

 私が準備を整えたのを見て、ドラマーが曲を始めようとするのを慌てて止める。

「はい、これ」

「えっ……?」

 私はスタンドに差さっていたマイクを抜いて、京香に差し出す。

「歌えるでしょ?」

「私が?」

「バンドをやるなら、ボーカルは京香がいいと思ったの。いや、京香以外ありえない」

 困惑する京香に、私は押し付けるようにマイクを渡す。

「でも、私は……」

「京香が焚きつけたんだから、最後まで付き合ってよ」

 一方的にそう言い放って、私は京香の返事を聞くよりも先に、ドラマーにアイコンタクトをして演奏を始める。一度演奏が始まってしまえば、彼女も諦めたようで、マイクを握って口元に構えた。

 私のアルペジオに続いて、ベースとドラムが寄り添うように入ってくる。一音目を聞いた瞬間に、二人の技量の高さに驚かされた。

 ドラムはメトロノームのように正確なリズムで、安定した屋台骨の役割を担ってくれる。一音一音にキレがあり、その鋭いリズム感は神経質にも感じられるほどだった。曲の構成上、音の密度が少ないにも関わらず、その間にも拍を感じさせる叩き方で即席のメンバーを上手くまとめ上げている。

 ベースはそのきっちりとしたリズムの中で、少し遊びを入れながらメロディを奏でていた。その音の流れを聴いているだけでも、楽しげな雰囲気が伝わってくる。それでいてシリアスで感傷的な曲調を崩さないように、前に出すぎない淑やかさも携えていた。

 そして京香の歌が入ってきた瞬間、明らかに二人の表情が変わる。彼女の歌声に驚いている様子だった。二人にしてみれば、唐突にマイクを渡された穴埋め的な立場だとしか思っていなかっただろうから、驚くのも無理はない。

 私は京香の歌を聴きながら、自分が今この瞬間を楽しんでいることに気付いた。


 ――ここをこうして、この指はこっちで……。よし、これで弾いてみ。


 初めてギターを持って音を鳴らした時のことを思い出す。弥那に教わりながら、震える指に一生懸命力を入れて、恐る恐る弦を弾く。わずかに歪ながらそれでも美しい響きを聴いて、私はあの時音楽の楽しさを知ってしまったのだ。


  空を飛ぶクジラに憧れて

  夢想する幸せを噛み締めている


 京香は声も歌い方も弥那とは似ても似つかなかった。刹那的な歌い方をする弥那と違って、京香の歌には持って生まれた温かな優しさのようなものが混じっていた。京香が歌うとこの歌もどこか前向きに聴こえるのが不思議だった。

 それなのに、私は目の前で歌う京香の姿に、弥那の面影を重ねてしまう。表面は違って見えるのに、二人の歌は奥底にどこか同じものを感じさせる。聴き手の心を震わせるその何かがあるから、私は弥那にも京香にも憧れを抱いたのだと思う。けれど、それが何なのかは上手く言葉にできない。


 ――京香となら、もう一度曲が作れるかもしれない。


 ただ、そんな淡い希望が胸の内に浮かんだ。

 そしてダメ元でもその希望を追いかけてみたくなる。


  空を飛ぶクジラに憧れて

  無謀な夢を捨てられずにいる

  遠ざかる君に追いつくように

  無意味な歌を歌い続けている


 このバンドで、京香の歌で、もう一度音楽をやってみたい。

 それがたとえ意味のないことだとしても。

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