5-8

 その日は快晴だった。

 緊張で眠れなくなるだろうと思い、昨日はいつもより早めに布団に入ったのだけれど、案外すんなりと眠れることができた。そのせいか、セットしておいた目覚ましが鳴るよりもずいぶん早く目が覚めてしまう。

 滅多に開けないカーテンから顔を出すと、まだ光に慣れていない目を眩い朝の景色が刺激する。

 会場は屋内だから天気は関係ないのだけれど、それでも晴れてくれたことに安堵した。京香の歌に暗い空は似合わない。

 着替えを済ませ、荷物をまとめて、軽くギターの調整をする。

 一通り準備を終えて、そのあとゆっくりと朝食を食べても、なかなか時間は進まなかった。

 予定よりも一時間以上早かったが、家にいてもそわそわして落ち着かないので、諦めてもう家を出ることにする。

 ケースに入れたギターを背負うと、ずっしりとその重みが身体にのしかかる。それと同時に、今日これからライブをするのだという実感がようやく湧いてきた。

 いつものように机の上に置いたワイヤレスイヤホンを手に取って耳に付ける。

 耳障りな鼓動の音をかき消すために、スマホから流す曲を探そうと画面をスクロールしていくが、結局この気分を落ち着かせるのに何を聴いたらいいかわからなかった。そして自然と擦り切れるほど聴いたあの曲を選んだ。

「……今日はいっか」

 しかし再生ボタンを押そうとする直前で、ふとその指を止める。

 弥那が死んでから、私は耳を塞いで世界と自分を隔絶するために、音楽を利用していた。

 そうすることでしか、自分を保つことができなかったから。

 でも不思議と今日は何も聴かなくていい気がして、耳から外したイヤホンをケースに戻した。

 枝葉を揺らす風の音、甲高く語らう小鳥の囀り、楽しそうに駆け回る少年たちの声、地面を揺らす自動車のエンジン音、誰かの家から聞こえる生活の断片。今までは不快でしかなかった街が放つ雑音も、その一つ一つに耳を傾けてみれば、何だか愛おしく思えてくる。

 何より、この吐き気を催すほどのうるさい心臓の鼓動さえも、今は心地よく感じられた。

「いや、早すぎでしょ」

 まだ人も疎らで閑散とした校舎にそろりと足を踏み入れると、ちょうど玄関で靴を履き替えている京香と出くわす。

「そっちこそ、目の下にべっとり隈が付いてるよ」

「え、嘘!?」

「冗談」

 そんな軽口を叩き合いながら、私たちはそれぞれの教室に向かう。そうして廊下で荷物を背負ったまま立ち話をしていると、あっという間に時間が経っていて、遅刻ギリギリのチャイムに慌てて教室に滑り込んだ。

 私たちの出番は夕方なので、ほぼ一日緊張しっぱなしの生殺しのような時間が続く。せめて練習をして気を紛らわしたかったが、文化祭を抜け出してスタジオに行くほどロックではない。

「どうせ一日暇だし、せっかくなら文化祭を満喫しよー!」

 流石は根っからの陽キャである京香は、そう言って私の手を引いて校舎中を連れ回しいく。途中から葵と結音も合流し、出番までの間、私たちは四人で文化祭を巡っていった。

 焼きそばにフランクフルト、アイス、お団子、チュロス、チョコバナナ。京香はとにかく目についた食べ物は次々と頬張る。付き合いでおこぼれを食べていた私はすっかり満腹になっているというのに、京香はまるで食べ足りないといった様子で、ハイエナのように目を光らせて屋台を探していた。

 縁日をやっているクラスに入ると、私が輪投げに苦戦している間に、結音が目を見張るほどの正確な射撃で射的を荒らしに荒らしていた。楽しげな法被を羽織った生徒たちが呆然とした顔で彼女を見つめている。

「ちょっと、やりすぎよ」

「〝しゅん……〟」

 大量の景品を抱えて満足そうに顔をほころばせる彼女だったが、最終的に葵に窘められてそのほとんどを返上させられていた。

 葵は演劇が見たいというので、ちょうどタイミングよくやっていた一年生のクラスに入った。演目はロミオとジュリエットを現代風にアレンジしたオリジナル脚本で、正直なところベタな展開と素人演技が私には退屈に思えてしまった。

 しかしふと隣に目を向けると、ラストシーンで葵がぼろぼろと涙を流していて、彼女がそんな乙女な一面を持っていたのが意外で少しおかしかった。

「あ、そうだ! 私これからクラスのシフトがあるんだった!」

 流石は人気者なだけあって、しっかりと京香はクラスの出し物にも参加していた。バンドがあるからと準備などは断っていたようだが、どうしてもシフトには入ったほしいと言われていたらしい。

 せっかくなら京香の雄姿を見に行こうと向かった私たちだったが、そんな浮足立った気持ちを打ち砕くかのように、黒々とした血に塗れたおどろおどろしい看板が私たちを出迎える。彼女のクラスの出し物は、今年一番気合いが入っているとも噂されるお化け屋敷だった。

「こ、これって入らなきゃダメなやつ……?」

「まあ、外から見るだけでも十分かもしれないわね」

「〝ごーごー!〟」

 入口の前で物怖じする私と葵に対し、結音だけはウキウキとした様子で急かすように背中を押して中に入っていった。私たちはそれに必死に抵抗をしながら、身を寄せ合いながら一歩ずつ慎重に進んでいく。

「ぎゃーーーーーーーーーーーーー」

「うげえぇぇぇぇぇえぇぇええ」

「ひぃーーーーいぃぃぃーーーーーーーーー」

「やあぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 様々な仕掛けで叫び疲れ、満身創痍の中、ようやく出口の光を見つける。

「よかった。やっと終わりだ……」

「生き、てる……」

 完全に安心しきって、縋るように出口へと歩みを進めると、最後の最後に血塗れで髪をかき乱した幽霊が私たちの目の前に襲いかかってきた。

「ぁ…………」

 あまりの恐怖に声も出せずにその場にへたり込むと、そんな無様な私たちを見た幽霊がけたけたと笑い出す。その声ですぐに幽霊の正体が京香だとわかったが、それでも恐怖が抑えきれず、気付けば涙がぽたぽたとこぼれていた。

 そうしてお化け屋敷ですっかり憔悴しきった私たちは、休憩がてら喫茶店に入って少し休むことにした。シフトを終えて再度合流した京香は「そんなに驚かすつもりはなかった」と何度も謝ってきたが、私はまだ恐怖が拭いきれず、しばらく彼女の顔を見ることができなかった。

 朝から動き回っていたこともあり、一度椅子に座ると急に疲労を自覚する。しかし、私よりもはしゃいで体力を使っているはずの京香と結音は微塵も疲れた素振りを見せず、それどころか「次はどこへ行こうか」とパンフレットを見て盛り上がっている。

「あ、戸高さん、ちょうどいいところに……!」

 私は元気すぎる二人を老人気分で眺めていると、思わぬ方向から突然声をかけられ、危険を察知した小動物のような勢いで振り返る。

「あ、斉藤さん……?」

「実はね、さっきフロア担当の子が一人カップを割って怪我しちゃったの。しかもこの時間は元々シフトに入れる子が少なかったのもあって、人が足りなくて困ってたんだ。申し訳ないんだけど、少しだけ手伝ってくれないかな……?」

 どうやらここは私たちのクラスがやっている喫茶店だったらしい。確かに周囲を見回すと、見慣れた顔が散見される。いくらクラスに馴染めていないとはいえ、まさか客として入っても気付かないとは……。我ながらあっぱれだ。

 一応私にも何かしら役割が与えられていたはずだが、当然それも覚えていないし、クラス全体での話し合いに参加する以外は何もしていない。その話し合いもほとんど聞いておらず、そういえば投票でクラスの出し物が喫茶店になったのを今になって思い出した。

「お願い! 演劇部の舞台が終わったら由佳と竹内くんが来てくれるから、それまでで大丈夫だから!」

 斉藤さんはまるで私を救世主だと言わんばかりに、目を輝かせながら懇願する。

この半年の間で私と喋ったのは、事務的な会話を数言くらいなはずなのに、苦楽を共にしてきた旧知の友であるかのような態度だった。こうやって分け隔てなく人と接することができる感じは、陽キャ同士、京香と似たものを感じる。

「いいじゃん! まだ出番までは時間あるし、せっかくだから手伝ってあげなよ!」

 陽キャの波長が通じ合ったのか、私が答えるよりも先に、京香が嬉しそうに言って私の背中を押した。

「〝立候補〟」

「あなたは部外者でしょ」

 勢いで結音も手伝おうとして、葵の冷静なツッコミによって制される。

「あ、私は……」

「ほんとありがと……! それじゃ、裏に衣装があるから着替えてきて!」

 そして私が答える間もなく、いつの間にか合意がなされて、そのままバックヤードへと運ばれる。まあ全くクラスに参加しないというのも申し訳ない気がしたので、仕方なくこの場は流されることにした。

「うわー! 戸高さんめっちゃ似合うじゃん!」

「これは……」

 この喫茶店は『和風レトロ』がテーマらしく、フロアのスタッフは和風の給仕服を着ることになっていた。

 矢絣模様の着物に、へその辺りから足元まで伸びる紺色の袴。袴の裾はスカートのようにほんのりと広がっていて、洋風な上品さを演出している。その上から白いフリルの付いたエプロンを付けると、そこに程よい可愛らしさが追加される。

 いわゆるメイド服よりもシンプルなので、より素材の味がもろに出ていて恥ずかしかった。実際『めいど・きゃっする』の衣装の方が振り切っている分、コスプレ感があってまだマシな気がする。

「激レアな灯里の和風メイド姿! 写真に収めておかないと……!」

「〝カシャリ〟」

 着替えた私が出ていくと、京香と結音が大袈裟に騒ぎながらスマホのカメラを構える。

「ちょっと、恥ずかしいから……」

「その感じ、なんかエロい」

 私が顔を隠してカメラから逃げると、何故か京香は余計に興奮して追いかけてきた。

 やめろと言っても聞かなそうなので、京香のことは放っておいて仕事に取り掛かることにした。フロアは人が足りていないせいで混乱を極めていて、彼女に構っている暇はない。すぐに斉藤さんに指示を仰ぎ、私にもできそうな来客案内と注文を取る役を引き受ける。

「お疲れ様! 次のシフトの子も来たし、もう上がってもらって大丈夫! 突然だったにありがとね」

 三十分ほど働いてちょうどお客さんの波も一度落ち着いたところで、私は無事にお役御免となった。斉藤さんは何度もお礼を言いながら、ほんのちょっと手伝っただけの私を労ってくれる。そもそも私も最初からシフトに入っていればこんな事態にはならなかったかもしれないのに、そんなことは微塵も思っていない様子だった。

「それにしても、ほんとに戸高さんがいなかったら崩壊してたよ……。すごく慣れてるみたいだったけど、バイトとかしてるの?」

「えーっと、ちょっとだけね……」

 まさかメイドカフェで働いていたとは言えず、曖昧な返事をして何となくお茶を濁す。

 メニュー数も少なくやることもシンプルなので、正直言って『めいど・きゃっする』のバイトよりはずいぶんと楽だった。それにしても、るなっぺに叩き込まれたメイドとしてのスキルがこんなところで発揮されるとは思わなかった。

「お疲れー!」

 着替えを終えて教室の外に出ると、京香たちが私を待ってくれていた。

「どうだった?」

「うん、まあ、意外と楽しかったかも」

 ほんの少しだけクラスの輪に入れたことと、労働によって気持ちのいい汗をかいたことで、清々しさを感じていた。こんなことなら、最初からクラスの出し物にも自分から参加しておけばよかったかもしれない。

 今まで世間を恨むふりをして、社会に参加することから逃げていた私は、きっともったいないことをしていたのだろう。ちゃんと接してみれば、クラスのみんなはいい人ばかりで、私なんかのことも快く受け入れてくれた。

「文化祭がこんなに楽しいなんて知らなかったな……」

「いやいや! 本番はこれからでしょ!」

 そう言って京香は壁に貼られたバンドステージのポスターを指差す。そこには下の方に小さく『水彩のよすが』という名前が載せられていた。

「そっか。そうだよね」

 時計を見ると、もうすぐ前のバンドの演奏が始まる時間だった。

「じゃあ、行こうか」

 私は緊張と興奮を飲み込むように深呼吸をする。そして賑やかな人々の間をすり抜けながら、体育館のステージへと向かった。

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