3-2
七月も終わりに近付き、うだるような暑さとむせ返るほどの湿気が街を満たし始めていた。一歩外に出ると、息を吸うのも苦しくて辟易としてしまう。世間は夏休みに入っているはずだが、あまり浮足立った空気を感じないのは、きっとこの猛暑のせいだろう。
かくいう私も学生の特権である長い夏休みに突入していたわけだが、それを素直に喜ぶ気にはなれなかった。学校にほとんど友人のいない私にとって、長期休暇というのは合法的に引きこもれる天国であるはずなのに、今年は少し事情が違っていた。
「あ、ここだ! わかりづらー」
先を歩いていた京香が立ち止まって目の前の建物を見上げる。
そこは奥まった場所ある古ぼけた雑居ビルだった。排気ガスですすけたコンクリートが薄暗い路地裏の影を一層濃くしている。
まるで侵入者を見張るような視線を向ける野良猫の横を抜け、その怪しげなビルの中へと入っていく。建物に入ると中は妙に涼しくて、それがかえって気持ち悪い。
前にいる京香は何も感じていないようで、ずんずんと奥へ進んでいってしまう。気が重い私とは対照的に、彼女は楽しそうに鼻歌を奏でている。私は彼女に置いて行かれないように、慌てて歩みを早めた。
「えーっと、五階だね」
壁に付いた案内板を確認すると、私たちはそのままエレベーターに乗り込む。
女子高生二人でも窮屈なほど狭いエレベーターの中は、黴とタバコの臭いが充満していた。そんな淀んだ空気を吸い込むのが嫌で息を止める。そのせいか、五階まで上がる時間がやけに長く感じた。
ガコン、という大袈裟な音がして上昇が止まると、ようやくエレベーターの扉が開く。
「お帰りなさいませ、ご主人様♪」
私たちを待ちかねていたかのようなタイミングでそんな声が聴こえてきて、私は驚いて顔を上げる。
すると、目の前には雑居ビルの中とは思えないような明るく華やかな装飾がなされた空間が広がっていた。薄ピンク色に塗られた壁やパステル調のテーブル、そしてフリルの付いた衣装に身を包んだ女の人が優しげな笑みを携えてこちらを見つめている。
「あ、え……」
どうやらエレベーターの出口がそのまま店内に繋がっていたようだった。私は突然のことで反応すればいいかわからず、うろたえながら視線を逸らしてしまう。
「すみません! 私たちお客さんじゃなくて、バイトしに来たんですけど……」
「あら、そうだったの! こんな可愛い新人さんが来てくれるなんて嬉しいわ」
こちらが客ではないと分かった途端、瞬時に態度を切り替えて、声色も大人びたものに変わった。そして軽やかに身を翻すと、「付いてきて」と言って私たちを店のバックヤードへと案内してくれる。
「それじゃ、改めてようこそ、『めいど・きゃっする』へ」
そう。ここはいわゆるメイドカフェという場所だった。
ノルマ代が払えない私は、京香の誘い(というか強引な勧誘)によって、二人でバイトをすることになった。そこで紹介されたのが、彼女の友達が働いているというこの『めいど・きゃっする』だった。ちょうど夏休みに入り、その友達が長期間で祖父母の家に帰省するらしく、その代打を探していたらしい。
「汚いところでごめんね~。夢の裏側はこんな感じなのです」
通された場所は店内の雰囲気とは似ても似つかない、雑居ビル然とした味気ない事務所スペースだった。年季の入ったパイプ椅子を促されると、向かい側に出迎えてくれた彼女が座った。
「私はこの店の店長のるなっぺ。しばらくはあなたたちの教育係になるからよろしくね」
そう言って差し出された名刺を見ると、店名やホームページへのリンクの他に、「るなっぺ」という名前と「星のプリンセス」という謎の肩書が記されていた。
「色々と話は聞いてるわ。きゅるりんのお友達なのよね?」
「そうです! 人が足りないって聞いて、私たちもお金がないから働きたいなーと思って」
そのきゅるりんというのがおそらく京香の友達の名前なのだろう。私はきゅるりんに会ったこともなければ顔も知らないが、とりあえず京香に合わせて頷いておく。
「きゅるりんはうちのエースだから、お休みするって聞いて正直困ってたところだったの。あなたたちには期待してるわ」
「頑張ります!」
「まあ。元気いっぱいでいいわね」
早速意気投合している二人を横目に、私はどんどんと気持ちが重くなっていた。しかし、当然ここで帰るわけにもいかない。そもそもお金がないのは事実なのだから、逃げても解決にはならないのだ。とにかく今は流れに身を任せるしかない。
「じゃあまずは着替えてもらおうかしら。一応二人の衣装は用意しておいたから、これを着てみてくれる? そこの扉の奥が更衣室ね。私は一度仕事に戻るから、着替え終わったら表に呼びに来て」
るなっぺはそう言い残すと、颯爽とホールの方へ戻っていった。
「うわー! これがメイド服かー! 一回着てみたかったんだよね」
京香は渡された衣装を広げながら、楽しそうにそれを眺めていた。
それは彼女のようなスタイルのいい美人が着たら、さぞ映えることだろう。一方で私のような引きこもり地味女のメイド服など見るに堪えないに決まっている。
虚しい気分になりながら、服を脱いでメイド服に着替える。
このカフェはその名の通り、「お城」というのがコンセプトになっているらしく、衣装もシンプルなメイド服というよりは、ラメや光沢感のあるドレスのような雰囲気のものになっていた。色味もキャストそれぞれで異なっていて、それが「○○のプリンセス」という称号と合わせてあるらしい。
陰気な顔に似合わないフリフリの洋服を着た自分を見て、言葉にできない虚しさが押し寄せてくる。私の衣装は黒ベースに銀色のスパンコールが入っているタイプだった。比較的色味が落ち着いているのが唯一の救いと言える。
「……ちょっと、やばいかも」
ちょうど私が着替えを終えた頃、隣にいる京香の焦った声が聞こえてきた。
「どうかしたの?」
「いや、それが、その……」
煮え切らない様子で言葉を濁す京香を不審に思いながら、私は彼女の方に目を向ける。するとすぐに、彼女が言わんとしていることを理解した。
「きつくて入らないんだよねー……」
明らかに服のサイズがあっておらず、パツパツになっている京香の姿を見て唖然とする。 本来鎖骨辺りまで布が来るはずのところ、膨らんだ胸に引っ張られて谷間が深々と見えるほど肌が露出してしまっている。
「まさかここまでとは……」
私は自分の平坦な胸と見比べて、その格差に驚きを隠せなかった。確かに制服の上から見ても大きいとは思っていたが、頼りない服によって露わになったそれはもはや別物だった。
「ちょっとじろじろ見すぎ! てかそれよりるなっぺ呼んできてよ!」
その姿につい見惚れてしまっていると、京香は胸を隠すように私に背中を向ける。そのままの方が客受けはいいのではないかと思ったが、流石にそんなことは言えず、私はホールにいるるなっぺを呼びに行った。
「あちゃー。最近の子は発育がいいのね」
るなっぺは京香を見て瞬時に状況を悟ったようだった。
「これなら大丈夫なはず!」
「ありがとうございます! めっちゃ可愛いー」
新しく用意してもらった衣装で無事に京香も着替えを終え、ようやく準備が整う。
ドタバタで一瞬忘れかけていたが、これから労働しなければならないということを思い出し、一気に憂鬱になる。こんな貧相で鬱々としたメイドがいたら、逆に客足が遠のいてしまうのではないだろうか。
「それじゃ、これからびしばし鍛えていくから、頑張って付いてきてね!」
「任せてください!」
私の心配をよそに、るなっぺも京香もやる気満々だった。「オー」と言って突き上げられた二人の右手を追いかけるように、私も弱々しく右手を伸ばした。
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