3-5

 次の日も私はいつも通り、午前中からバイトにやってきていた。

 あんな素晴らしいライブを見せられ、るなっぺからも励まされて、心機一転でまた頑張ろうという気持ちだったわけだが、現実はそう上手くはいかない。

 いざお客さんの前に出ると、鼓動の音が耳を覆い尽くすように鳴り響き、正常な判断能力が失われてしまう。気が付くと、お客さんが不思議そうな顔でこちらを見つめていた。

 何とか注文を取り終えると、今度は出来上がった料理を厨房から運ぶ。急がなければと慌てていると、運んでいる途中でどこへ持っていくものだったのかわからなくなってしまう。

 そんな失敗ばかりを繰り返している自分が情けなくて仕方なかった。後一週間ほどでバイトは終わりになるというのに、まだほとんどこの店の役に立てていない。身に余る給料をもらった挙句、るなっぺには余計な気を遣わせているのだから、もはや救いようがない。

 それからは仕事に集中できず、悶々と自分の不甲斐なさについて考えていた。失敗する度に溜め息が漏れて、どんどんと気持ちが薄暗くなっていく。

 次の日も、その次の日も、同じ調子で茫然と仕事を続けた。笑顔を作らなければと思うのに、もうその気力が残っていなかった。どうせ後数日で二度とここへは来なくなるのだから、と自暴自棄になって、次第にすべてがどうでもよくなる。

「あかりん、ちょっといいかしら?」

 仕事が終わって帰ろうとしていたところ、るなっぺから急に呼び止められた。

 流石に私の勤務態度を見かねて、注意しようとしているのだろう。そう思うと気が進まなかったが、無視して帰るわけにもいかず、私は彼女に促されるままバックヤードに残った。

 少し待っていると、るなっぺが仕事を終えて戻ってきて、向かい側に座った。私は彼女の顔を見ることができず、年季の入ったグレーのテーブルに付いた染みをじっと見つめる。

「ここ数日のあかりんを見ててね……」

 やはりその話か。私は思わず溜め息が漏れそうになるのを堪える。

「すごくいいなって思ったの!」

「え?」

 想定していたのと真逆のことを言われて、身構えていた全身の力が一気に抜ける。

「今までよりも自然体で仕事ができているし、実際ミスも前より減ってるじゃない? まあ愛想はちょっと悪いかなって思うけど、それがいいって言ってくれてるお客さんもいるから。アンニュイな感じが受けてるみたいよ」

 言われてみれば、きちんと働くことを諦めてからは、逆に割り切って仕事ができていたからか、緊張でテンパってしまうことはなくなっていた。そのおかげで、確かに細かいミスも少なくなっている気がする。

「いや、違うんです。私はどうせもうすぐバイトが終わりになるからって、適当に働いてただけで……。何も変われてないんです」

「いいのよ、それで」

「でも……」

「前にも言ったでしょ? ここでは自分らしく、自然体で働いてもらうのが一番なの。だから何も間違ってないわ。実際、あなたは適当に働いていると思っていても、何の支障もなく仕事はできていたんだから」

 るなっぺは私への優しさではなく、本心でそう言っているようだった。自分の中にある罪悪感が行き場をなくし、ただただ困惑する。

「あかりんはやっぱり考えすぎね。案外簡単なことなのよ。誰かに憧れたり、羨んだり、比較して自分を卑下してしまいがちだけど、そればっかり見ていると、自分の道を見失っちゃう。だから時には全部忘れてしまって、自分が楽なやり方でやってみるのがいいこともあるんじゃないかしら」

 納得しかねる表情を浮かべる私に対し、るなっぺは駄々っ子に呆れるような困り顔をした。

「まあ、私がいくら言ったところで、あなたは納得できないかもしれないわね。それがあなたのいいところでもあるのだろうし。とにかく私から言いたいのは、無理に変わろうとしなくていいってこと。それだけ肝に銘じて働いてくれたら、きっとあなたもいいメイドになれるわ」

 結局私はるなっぺの言うことを半分くらいしか理解できないまま、どうすればいいのかもよくわからずに残り数日を働いた。

 確かに個性を発露できるのはいいことかもしれない。けれど、逆に抑え込むべき悪い個性だってある。そして私が持っているのは後者な気がしてならなかった。

 ともあれるなっぺに言われた通り、とにかく取り繕うのはやめた。確かに、私がるなっぺや京香のように働けるわけはない。だから表情や振る舞いを気にするのは諦めて、淡々と与えられた仕事をこなすことに集中した。

 そして悶々と自分の個性とは何かを考えながら働いていると、不思議と仕事はスムーズに回っていった。あれだけ自分は仕事ができないと絶望していたのに、一度上手くいくようになればあまりにあっけなかった。るなっぺが言っていたように、案外簡単なことだったのかもしれない。

「本当にお疲れさま! 人手不足で困ってたから、二人のおかげで助かったわ」

 最終日の仕事を終え、私たちはるなっぺと最後の挨拶を交わす。

 元々そういう約束だったとはいえ、せっかく色々と教わってまともに働けるようになってきたところだったので、ここで辞めるのは少し申し訳なかった。しかし、どうしても勤務時間の関係上、学校とバンドと両立してバイトも継続するというのは難しかった。

「それにしても、明日から二人がいないなんて寂しいわ……。またいつでも遊びに来てくれていいからね」

「私も寂しいですー……! 絶対また来ます! てか、常連になります!」

 るなっぺと京香はこの数週間ですっかり意気投合していて、師匠と弟子のような関係になっていた。るなっぺの手を握る京香の目には、仄かに涙が滲んでいる。

「あかりんはどうだった? この仕事、楽しめたかしら?」

 そう尋ねられて、私はすぐに答えられなかった。

 ゆりっぺや他のメイドたちと会えたのはよかった。京香と毎日のように出勤して、同じ仕事をするのも少なからず楽しかったと思う。

「……楽しかった、かどうかは微妙かもしれないです」

 仕事を覚えるのは大変で、上手くいかないことばかりで苦しくもあった。正直、仕事自体を楽しめていたとは言い難い。今でもちゃんと仕事をできていたのか不安だし、やっぱり自分に向いている仕事だとは思えなかった。

「でも、やってよかったと思います」

 それだけは、確信を持って言えることだった。

「そう。それはよかったわ」

 るなっぺは満足げに笑うと、私の頭をそっと撫でた。その柔らかい感触が心地よくて、私も京香のように涙が溢れそうになった。

「なんか、あっという間だったね」

 店からの帰り道、京香と二人で歩きながら、この夏のこと振り返っていた。バンドとバイトに明け暮れる毎日は充実していて、一瞬で過ぎ去っていったように感じる。同時にほんの数週間前のことが遠い昔のように思えるのは、きっとそれがあまりに濃密な時間だったからだろう。

「ねえ、京香」

「ん、なに?」

「誘ってくれてありがとう」

 空の青と夕日の茜が交互に入り混じる美しい景色を眺めながら、私はふと、京香に言っておかなければいけないと思った。

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