5-10

 ステージの上に立ち、客席に目を向ける。視点が高い位置にあるせいか、体育の授業で見慣れているはずのサブアリーナが妙に広く感じた。

 ジリジリと鳴るホワイトノイズがずっと耳の裏を刺激している。一方で、客席に滞留する観客たちのがやがやとした声はどこか他人事のように遠い。まるで私たちのいるステージと客席とが見えない壁で隔てられているようだった。

「少し音を確認しましょう」

 事前のリハーサルで各自の音量は調整済だが、念のため軽く音を合わせて最終確認を行う。観客が入ったことで音が吸われてしまい、輪郭がぼやけた音になっている気がしたので、アンプのEQを弄ってできるだけ抜けがよくなるように調整し直した。

「それじゃ、準備できたら手を挙げて合図お願いしまーす」

 スタッフの生徒がそう言い残してステージを降りていく。

 いつも練習している八畳のスタジオよりも狭い舞台の上、私たちは互いに顔を見合わせる。

「みんな、準備オッケー?」

 京香の言葉に、私は自分の緊張を押し隠すように強く頷く。続いて葵は仏頂面のまま、結音はニコニコと笑顔を浮かべながら頷いた。

 そして京香は客席の方に向き直り、ピンと手を挙げてスタッフに開始の合図を出す。すると照明が落とされて視界が真っ暗になった。ざわついていた観客たちも空気が変わったことに気付き、唐突に静寂がこの空間を支配する。

 私は静かにギターを抱え直し、手に馴染んだコードを押さえる。これは私が初めて鳴らせるようになったコードだった。あの頃は指を攣りそうになりながら押さえていたのに、今では目を瞑っていても一発で手の形を再現できる。

 弦に指を添えたまま視線を上げると、ちょうどこちらを向いた京香と目が合った。

 次の瞬間、京香が息を吸うのに合わせて、私は一気にギターをかき鳴らす。


  朝焼けが漏れる

  終わる夜に安堵して

  明日が来るまで

  少しだけ眠ろう


 一曲目『青い夜、白い朝』。

 初めて鳴らしたコードで、初めて作った曲。最初の練習で合わせたのもこの曲だった。

 最初からこの曲だけは妙にしっくり来ていた。きっと葵も結音も同じことを感じていたからこそ、納得して私と京香にここまでついてきてくれた。

 そんな不思議な心地よさの正体がわからなかったが、今になってようやく理解した。


  眠れないと嘯く 真夜中 午前三時

  不眠症の正体は 昼寝のせいなのに

  眠れないと嘆く 怠惰な自分を忘れて

  暗い夜が怖いのは 嘘ではないから


 今になって思うと、この曲は私よりもむしろ京香に合っている曲だ。

 太陽のように明るく振る舞いながらも、どこかそんな自分に違和感を持ち続けていた彼女の姿が夜と朝が曖昧になる情景と重なる。

 ただ眠れない夜の想いを書き連ねただけだった言葉たちが、彼女の声によって紡がれることで意味を持った歌に昇華していた。

 爽やかでアップテンポな曲調もあって、観客の反応は悪くなかった。リズムに合わせて身体を小さく動かしている姿もちらほら見える。

 しかし大半の観客は、懸念していた通り聴き馴染みのない曲を前に困惑している雰囲気があった。ただそれをどう判定するのか測りかねているようで、少なくともまだ飽きられてはいない。三分程度しかない曲の短さが功を奏しているのだろう。

 二番が終わり、間奏に差し掛かる。このまま最後のサビからラストまで駆け抜けたい。私はほんの少しコードストロークを強くする。

 するとそれに呼応するように、テンポを守っていた葵のドラムが急に勢いを増す。彼女がこうやって型を崩すのは珍しかった。何だかこの時ようやく私は彼女と〝バンド〟になれた気がして嬉しくなる。

 そんな私たちのやり取りを感じ取ったのか、今度は結音が流れるようなアドリブでハイポジションのフィルを挟み込む。彼女の自由なベースラインが曲の立体感を演出してくれる。


  青い夜の影に

  白い朝の日が

  溶けて混ざっていく

  重い瞼を上げ それを眺めている


 そして私たちの演奏に乗せて、京香は歌う。

 切実で、苦しくて、でもどこか温かな歌。

「はじめまして! 『水彩のよすが』です!」

 演奏が止まった一瞬の静寂の後、京香がバンド名を叫ぶと、客席から一斉に拍手が鳴る。前の『ビッグイン』と比べると音量はずいぶん小さかったが、フロアの空気は間違いなく私たちの音楽によって支配されていた。

 一度照明が落とされ、暗闇の中に緊張が張り詰める。

 途中のMCはなしにしようと事前に決めてあった。と言っても、別に身内ノリの寒いMCで盛り上がる文化祭ステージへのアンチテーゼというわけではない。

 単純に京香が陽キャパワーを発揮して喋ってしまうと、せっかく作った空気が壊れてしまうだろうと考えたからだ。何度かスタジオで練習もしてみたのだが、MCだけは京香の明るく気さくな雰囲気が隠しきれなかったので、「黙って歌だけ歌わせておこう」という結論になった。コミュニケーション能力が高すぎるというのも考えものだ。

 そして、二曲目『いつか君にポップソングを』。

 息苦しい緊張感に観客が耐えきれなくなってきたところで、葵のフォーカウントから曲が始まる。

 この曲はずっと温め続けていた曲だった。

 最初は作る曲がいつも暗いバラードばかりになってしまうので、もう少しわかりやすくポップな曲を作りたいと思ったところから始まった。しかし、いざ作り始めてみるとなかなか頭の中にあるイメージが形にならず、書いては消してを繰り返して使えない曲の断片ばかりが溜まっていった。

『水彩のよすが』を始めてから、昔作った曲を掘り返しているうちに、この曲の残骸たちと再会した。そして当時のことを思い返しながら歌詞を読んだりフレーズを聴いたりしていると、何だかこのポップな曲への憧れは、京香への想いに似ているような気がした。

 自分には似合わないとわかっていても、好きで、憧れてしまう。

 学校で友達に囲まれながらキラキラと輝く京香は、街中で堂々と流れるポップソングと重なって見えた。


  無色透明な息を吸って歌うよ

  中身を失った言葉は空を切って消えていく

  いつまで君に縋って生きていくんだろう

  ポップソングも歌えない 僕は今日も無意味な歌を歌う


 シンプルなコード進行で、裏打ちの上に乗るキャッチーなメロディ。

明らかに一曲目よりも観客の反応がいい。当初は少し狙いすぎているのではないかという心配もあったのだが、これくらい外見を繕った方が根の暗さとバランスが取れているのかもしれない。

 京香は一曲目を経て、どんどんの歌の調子を上げていた。ライブでの感情の高まりを上手く歌へと昇華できているように感じる。

 特にこの曲は独白のような歌詞なのもあって、京香のこちらに語りかけてくるような歌い方が映えている。彼女の歌声にはライブという大勢が集まる空間の中で、観客と一対一で対話をしていると錯覚させる力があった。

「……ありがとうございます」

 京香が軽く息を切らしながらお礼を口にして、それに合わせて照明が落ちる。

 観客からの拍手は一曲目よりも大きかった。耳馴染みのよい曲を聴いたことで、迷っていた心が好意的な方向に傾いてくれたのだろう。その一方で、私たちが何を伝えたいかという部分は、この二曲で十分に伝わったようにも思う。これで最初よりは曲を聴いてもらえる体勢が整ったはずだ。

 そうしてあっという間に次で最後の曲になる。

 私は顔から滴る汗をTシャツの袖で拭う。ステージの上は照明の熱と自分たちの熱気で視界が歪んで見えるほど蒸し暑い。曲が止まって照明が消えると、仄かな風が舞台袖から流れてきて、熱暴走しそうな身体を少しだけ冷やしてくれた。

 顔を上げて、他の三人と目を合わせる。

 ここまではおおむね想定通り。むしろ状況はいいと言える。だからこそ、次の曲が勝負だった。三人も同じことを考えているのが、飢えた獣のようにギラギラとした瞳から伝わってくる。

「次が最後の曲です」

 京香があえて淡々とした声で観客に告げる。まるで深海の中にいるみたいに、音がくぐもって客席の反応が掴めない。

 その時になって、ギターを握る手がずっと震え続けていたことに気付いた。コードを押さえるのに力みすぎた指先は表面が石になってしまったように固まっている。逆にピックを握る右手は握力がなくなっていて、今にも拳が解けてしまいそうだった。

 私は京香の横顔を見つめながら、ゆっくりと息を吐いて呼吸を整える。

「聴いてください。『ややこしい私はきっとロックに向いてない』」

 京香が曲名を口にした瞬間、鈍いフロアタムの低音が力強く鳴り響く。それは私たちを見ろという号令のような一打だった。

 その音をきっかけに、私たちは一斉に音をかき鳴らす。

 歪みとディレイで原形をなくした轟音をゆったりとしたテンポの上に押し込めていく。

 一度客席のことは忘れることにした。とにかく今は四人で音をぶつけ合いながら進むこの瞬間の心地よさを存分に楽しむ。そうすることで届くものがあるはずだと、私は確信していた。

 大きなうねりを上げながら流れていくイントロは、まるで大海に浮かぶ小舟のようだ。身体をゆらゆらと揺らして、音の波が作り出す緩慢ながら激しい流れに身を任せる。でもそうやって私たちを揺らしているのは、私たち自身だというのが滑稽だった。

 音楽なんて、究極的に自己満足なものなのだと思う。結局は誰もが自分自身のために演奏をしていて、誰かのために歌われることはない。対して音楽を聴くことは所詮自己陶酔の延長でしかなく、いい音楽を聴くのではなく、都合のいい音楽を聴く。

 私はそれを悪だと思っていた。もっと純粋で根源的な音楽的なやり取りがあって、私が弥那の曲から受けたのはそういうものだと思っていた。

「灯里が言ってた曲さ、あんまり似てないと思うけど」

 ふと冗談交じりに京香が踊っていた曲に苦言を呈した。すると彼女は改めてその曲と弥那の曲を聴き比べて、とても不思議そうな顔をしてそう返してきた。

 私は恐る恐るその曲を聴き直してみると、猛烈に湧き上がっていたはずの怒りがくすぶり消えかかっていた。最初に聴いた時は似ていると確信を持って言えたのに、何度も聴けば聴くほどその感覚は曖昧に解けていってしまう。

 確かにコード進行やメロディ、言葉のハメ方などは似ていて、弥那から影響を受けている感じはあった。しかしアレンジや細かいメロディの流れなどは異なっていて、パクリと呼べるほどかと言えば、かなり言いがかりに近いくらいの類似性しか見られなかった。

 たぶん私は弥那を神格化しすぎていた。弥那の曲こそが完璧で、他の音楽は彼女に劣るとさえ思っていた。そうすることでいなくなった彼女に縋ろうとしていたのかもしれない。

 誰よりも私自身が音楽を自己陶酔の道具に使っていた。それも世間に認められた友人の音楽を、彼女がいないのをいいことに我が物顔で抱きかかえていた。その姿はさぞ滑稽だったことだろう。


  巡る自意識を追いかけているうちに

  ここがどこだかわからなくなっていく

  光を頼りに灯台を探して

  気付けば私は遠くまで来ていた


 たぶん音楽を通じて伝えたいこととか、音楽で表現したいものとか、そんなものはない。

 弥那に憧れて始めて、京香に褒めてもらえたから続けている。

 でもそういう確かなものを持っていないからこそ、音楽をやる意味とか、自分の音楽の価値とか、そんな甲斐のないことにばかり悩んでしまうのだろう。

 どうせなら楽しいからとか、メンバーと音楽をやりたいからとか、わかりやすく音楽に向き合えればいいのに、それもできない。

 自分でも呆れるほどややこしい。

 だから、そういうややこしさを歌にしてみようと思った。


  ややこしい私はきっとロックに向いてないけど

  みっともなく言葉を紡ぐよ 答えが見つかるまでは


 歌が終わり、ブレイクを挟んでアウトロに入る。

 私は、この数十秒にすべてをぶつける。

 楽しかったことも、苦しかったことも、嬉しかったことも、辛かったことも、全部をごちゃ混ぜにして、色も形もわからなくなった歪な音にして吐き出していく。

 この瞬間だけは、観客も、ステージも、バンドも、弥那のことも忘れて、とにかく夢中でギターをかき鳴らした。

 ひどく身勝手で自暴自棄な音。そんな私の独りよがりな音楽にも、三人は自分なりの音が寄り添ってくれた。

 葵の音は苦しくなるほど厳格で、だから安心してその上に乗っていられる。

 結音の音は自由奔放で、楽しげに飛び跳ねるようだ。

 京香の音には迷いがあって、その不安定な部分に美しさが介在している。

 それらが一つに合わさって、『水彩のよすが』の音楽が完成する。

 自分の音楽はあまり信じられないけれど、この四人で奏でる音楽は、間違いなくいいと自信を持って言える気がした。

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