第15話



 眠りに落ちることは、地獄に落ちることに似ている。


 多くの人々にとって眠りとは安寧なのであろうが、オドロにとっては全く違った。しかし、もう何年もこの状態なのだ。流石に慣れた。

 慣れた、と言うのは恐怖を感じないということではなく、恐怖を押し込めて眠ることに慣れた、と言う意味だ。

 つまり、オドロは未だその光景に恐怖を抱き続けている。いいや、これを恐れない方が人間としておかしくて、そしてこの耐え難い惨状に何年も耐え続けれられるオドロも、きっとどこかおかしいのだ。

 そんな狂った己を自覚しながら、オドロは今日もそこに立つ。

 その場所は、切り立った崖に囲まれた丘のような場所だった。断崖絶壁で逃げられようもない場所で、不安定な足場にオドロは立っている。またか、とオドロは嘆息した。


「今日は完全には開けてないのにな……執念深いことだ」


 思わず落とした呟きには、誰も反応しない。それもその筈、オドロはこの荒涼とした世界にただ一人だからだ。もっと正確に言うなら、本来ならその場所にはオドロのような生者は存在できない。彼は例外中の例外だった。

 ヒュおおお、と音が聞こえた。温度のない風が素肌を切り裂くかのようだった。その異音は本当に風の音なのか、はたまt誰かの絶叫か。

 ふと眼下に視線を見遣ると、谷底の闇から無数の手が伸びていた。それは剥がれかけた爪を岩肌に引っ掛けながら懸命に崖を這いずり登り、そして渇望するかのように皮膚が捲れ上がった手を伸ばす。


 苦しい。痛い。いやだ。助けて。


 そんなことを皆一様に叫びながら。嗄れた声で、啜り泣きながら。

 無限にも思えるほどに長い責苦の果てに、もはやパターン化した言葉しか話せない亡者ども。


 たすけて。たすけて。

 たすけてたすけてたすけてたすけたすけてたすけてたすけてたすけててたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて

たすけてたすけてたすけてたすけて——


「聞き飽きた」


 伸ばされる渇望の手を一蹴して、オドロは吐き捨てた。

 だって、助けようがないのだから気にしても仕方がない。

 だって、彼らが苦しんでいるのは彼らの罪の結果の罰なのだから仕方がない。

 この夢を見始めて、この地獄の光景を見始めて、最初の方は何か出来る事はないかと思っていたけれど。

 けれど、それはもう諦めた。オドロは生者で、彼らは死者。どうしたって相容れないし、どうしたって干渉できない。オドロができるのは、せいぜい彼らが救われて魂の安寧が訪れるように神に祈るくらいだ。


『全てを愛する事は、全てを愛していない事と同義やろ』


 ふと、その言葉が去来した。

 キリスト教は博愛の教えを教義としている。隣人のために祈り、家族のために祈り、人類のために祈り、自分のために祈る。

 その全てを、否定されたような気分だ。両親からずっと教えられてきたものが、ずっと自分の人生の中で是としてきたものが、瓦解しそうな。

 自分は、全てを愛している。愛せている。そう思っていた。キリストの教えの通りに、できていると思っていた。けれど、本当はずっとできていなかったのかもしれない。あの亡者達を見て何も思えないのが、その証左であるのかもしれない。


 本当は。両親が死んだあの日から。愛なんて。


 足場が崩れ落ちるかのような錯覚。

 眠りに落ちることは、地獄に落ちることに似ている。

 オドロの意識は、リンフォンを通じて地獄に繋がる。そのトリガーは二つ。リンフォンを変形させて門を開くことと、眠ること。

 オドロにとって、眠ることは地獄に足を踏み入れることなのだ。




 徐に、瞼を開いた。色素の薄い月白の瞳はカーテンの隙間から差し込む陽光に焼かれて、思わず眉を顰めた。


「……くっそ」


 何度も見たはずの夢。本物の地獄とリンクしたそれは、慣れてはいても気分が酷く沈鬱になる。悪態をついて、シーツに爪を立てて握りしめた。

 肩甲骨まで伸びた卯の花色の髪が、今は酷く邪魔だった。寝汗でベタつく体も。机の上に放り出された、リンフォンも。何もかもが。

 ふと、スマホが鳴っているのに気がついた。画面に表示された文字は、刈矢麻歌。カリヤからの電話だ。


「……はい、もしもし」


『もしもし。……夢見が悪かったのかしら』


 一瞬で言い当てられて、内心どきりとした。平静を装って、にべもなく答える。


「いつもの事だ」


『はいはい。もうすぐ空港に着くわ。タオルやお湯を用意しておいてちょうだい。どこのホテル?』


「あとでリンク送る。……いや、やっぱり迎えに行く。買ってきておきたいものがあるから、ついでに」


『まぁ、レディのエスコートをついで呼ばわり? 失礼しちゃうわ、小童』


「はいはい、悪うござんした」


 ちなみにだが、オドロは現在二十三歳だ。童顔でもないし、間違っても小童呼ばわりされる年齢ではない。しかしカリヤがオドロを小童と呼ぶのは、それだけカリヤが年齢を積んでいるからである。


『この私をエスコートするんだから、半端な格好は許さないわよ。しっかり身なりを整えてきなさい。それじゃ』


 一方的に告げられて、電話は切られた。オドロは一つ溜め息をつく。

 幸いと言うべきか、ミズエに使ったのはカソックの上に羽織っていたカズラとストラだけ。カソックは無事なので着れるだろう。一瞬そう思ったが、カソックもミズエを運んだ時に血がべっとりと付着してしまっていた。

 色が黒であるから夜ならば目立たないし気づかれないかもしれないが、今は朝である。流石に着る事はできない。あれを着て空港に行くなんて以ての外である。


「……仕方ない」


 オドロはスーツケースからもう一枚のカソックを取り出す。何故これを着たくなかったかと言うと、単純に脱ぎ着が面倒だからである。前を閉じるために三十三個ものボタンを留めなければならず、それが非常に面倒なためあまり好んで着ていない。

 本当ならば昨日まで着ていたものと同じ形のものを持っていこうと思っていたのだが、墓場の仕事の際に汚してしまって一斉に洗濯に出していたためこれしかなかった。

 何分も時間をかけて三十三個のボタンを留めてようやく着終わり、すぐにホテルを足早に出る。ミズエの様子を確認しようかと一瞬思ったが、そんな時間はなかった。

 タクシーを用いて空港に着けば、つい数十分前にカリヤが乗っていた飛行機は到着していたようだ。人通りが多いロビーの真ん中で、一人佇む小柄な人物が人目を引いていた。

 まるで人形のように、大きなスーツケースを傍に立っているその人物は、幼女と形容しても間違ってはいないほどに幼い。静かに伏せられた瞳は香染色。髪は、元は瞳と同じ色だったのだろうが色が抜けてしまっているようで鈍色だ。

 ロリータ、と言うのだろうか。桃色と白を基調にした、フリルとリボンがたっぷりとあしらわれたワンピースは、服飾についてあまり詳しくないオドロにはそうとしか言い表せられない。裾が足元まで伸びていて、ギリギリ地面に引き摺らない程の長さのスカートだ。


 刈矢麻歌。それが彼女の名だ。人形店「ローズドール」のたった一人の職員であり主人、かつ怪異お悩み相談所の医療班。


「カリヤ」


 名前を呼ぶと、伏せていたけぶるよう睫毛が震えて、視線がオドロに向いた。ふっくらとした頬と顔のパーツの大きさは、やはり幼いとしか見えなかった。小学生高学年ほどの外見の彼女は、オドロの姿を捉えるなり不機嫌そうに眉を歪める。


「遅いわ、オドロ」


「悪い」


「珍しい服着ているじゃない。ボタンが多いわ。お人形の衣装に参考にさせてもらおうかしら」


「言っておくけど、このボタンの数には理由があるんだから参考にするならするで変えないでくれよ」


「あらやだ、お人形の衣装はパーツのデフォルメが重要なのに」


 ちなみに、オドロのカソックを飾る三十三個のボタンの数は、イエス・キリストが現世で生きた年数に由来する。

 中途半端な模倣を拒否されたカリヤは、さらに不機嫌そうに頬を膨らませた。その仕草ですらおぼこいのだからやはり彼女は幼い外観であるし、その仕草ですら傍目に見たならば可愛らしいのだから、彼女は美少女と形容されるのに相応しいのだろう。

 オドロは彼女の本性を知っているため、そんな事は欠片も思えないが。


「って、そんな事を話している場合じゃなかったわね。案内してちょうだい」


「足りない道具とかあるか?」


「大体持ってきたわよ。ソーイングセットが持ち込めて本当に良かったわ」


 さりげなくオドロがカリヤのスーツケースを引っ張り、それに彼女は小さく嘆息する。ありがと、と小さく礼を言いながら、彼女達は早足で歩き始めた。

 空港は人が多い。雑踏の中、足音は完全に紛れる。だから、周囲の人々は気付きようもない。


 カリヤの足音が、二人分の音を重ね合わせたかのような音であることに。

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