第33話

「……い! ……おい! コトブキ!」


 オドロの焦っている大声で、ミズエはゆっくりと目を覚ました。やけに重い体を起こして、霞む視線をなんとかオドロに向ける。ピントが合うにも時間がかかってしまうくらいで、明らかに不調な状態だった。くぐもった聴覚が、昨日よりかは穏やかになった雨の音を拾う。


「お、どろさん……」


「! ミズエ! その顔色、お前もか……」


 オドロは明らかに寝起きの軽装で、髪も結べていない。そして、ミズエの隣の布団にいるコトブキに必死に叫んでいたのだ。


「何、が……」


「悪いが、今はコトブキだ! 少し待ってろ!」


 短く叫ぶと、オドロはコトブキの意識のない体を助け起こす。その口元にべったりと赤い液体が付着していた。オドロがその腹を下から突き上げるように圧迫すると、塊を含んだ血の塊がコトブキの口からこぼれ落ちる。激しく咳き込んで、そしてか細い呼吸を繰り返していた。

 やけに働くのが遅い頭で、ようやく理解した。コトブキが大量の血を吐き意識を失っている。

 ミズエは、さっと自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。それと同時に、胃から異物感がせり上がり、それを思わず吐き出す。

 布団の上に広がったのは、大量の血だった。真っ赤な、生暖かい鮮血。


「ミズエまで……! くっそ、一体何なんだ……?」


 コトブキを片手で抱えてミズエの背を摩りながら、オドロは絶叫した。一人で二人の介抱は流石に手が回らない。


「せめてここから離れないと……」


「なんや大変そうやなぁ。助けたるわ」


 オドロが歯噛みをしているところに、突然声が降る。特徴的な関西弁の、男の声。


「っ……!」


 オドロはその男を見上げて、そして眦を吊り上げた。


「何故ここにいる、キジマ……!」


「ここにいる子助けるよう頼まれたんやけど、えらい大きい声が聞こえたからちょいとな、塀を乗り越えさせてもろて」


「不法侵入……いや、この際いい、さっさとどっか行け!」


 警戒してがなるオドロに、キジマは小さく笑った。


「その子ら瀕死やん。ここはえらい呪いに満ちとるし、離れたところにおらへんとまずいやろ」


「……」


「んでもって、その子ら運ぶには手が足りへんやろ。いくら男手や言うても一人で人間二人運ぶのは無理あるやん。泥濘んだ山道なら尚更危ないやろ」


「……何が言いたい」


「前会った時の立場が立場やから、警戒するのもわかる。けどなぁ、おれの目的は怪異の手助けやないんやで。生きてる人が目の前に死にそうになってるなら助ける。それもまたおれの悲願なんや」


 キジマはにこやかに告げる。オドロは未だ警戒を解かない。どこまでも、以前会った時の印象が拭えないでいる。怪異のために戦うあの狂戦士の如き姿が。

 しかし、次の言葉でオドロは意見を翻す事になる。


「それにな、天辺涼って子に頼まれてな、舞草絵梨花? って子、助けなあかんねん。早く行かなあの子も手遅れになってまうかもしれへん。こんなとこでうだうだしてる訳にはいかへんやろ」


 オドロはキジマの前では絵梨花の名前もコトブキの友人で絵梨花の遠戚だという涼の名前も一回も出していない。しかし、キジマはその名前を出して助けたいと願った。

 おそらく絵梨花の名前だけを出したなら、オドロはまだキジマを信用していなかっただろう。しかし、この場にいない涼の名前を出されたなら信用せざるおえない。絵梨花が話していた、助けを求めてたという話とも合致する。


「……ひとまず、信用するぞ」


「大船に乗ったつもりでおってええで」


 挑戦的に笑んだキジマにオドロは冷淡な態度を返し、大柄かつ症状が重く見えるコトブキを背負う。キジマはミズエを背負って部屋から飛び出た。

 舞草家は随分と辺鄙な場所にある。一番近い村もまともに舗装もできていない道を十分以上は歩かなければならない。人間一人背負った状態なら全力で走っても十五分、往復で三十分といったところだろうか。それまで絵梨花が無事である保証は、どこにもない。そもそも絵梨花はどこにいるのかもわからない。

 それでも、行くしかない。オドロは人一人背負ったまま、雨降る中を走り抜ける。服は何とかカソックに着替えているが、カズラもストラも身につけている余裕はなかった。

 雨の匂いに満ちた空気を肺に収めると、ひゅっ、と呼吸のなり損ないが口から漏れ出た。


「神父さま、あっちに民家があるからあそこに頼んだらどうや?」


「ああ。それと……」


「ん?」


「名乗ってなかったか。オドロだ。棘莎凪」


 思い返せば、キジマの方からは苗字だけは教えられたがオドロは一切名乗っていなかった。せいぜいミズエやカリヤが呼んでいたのを聞いていた程度だろう。どうも不公平な気がしたから、名乗った。


「……ご丁寧にどうもぉ。おれは城島祐や。どうぞ今後ともよろしく」


 キジマもオドロも、その短い応酬を終えると口を噤む。全速力で走っている最中にこれ以上喋るのはいたずらに体力を削るだけだ。

 先ほどキジマが指差した民家にたどり着いたが、そこは既に廃屋だった。人の気配はなく草が手入れされた様子もなくぼうぼうに生え伸びている。

 戸を蹴り倒してその民家に誰もいない事を確認して、オドロは叫んだ。


「ここ以外に民家は⁉︎」


「見当たらへん! 薄暗いし雨のせいで視界も悪いんやから見つけられへんなぁ」


「くっそ……!」


 そんな時、ふと何か光るものが視界の端を掠めた。振り返ると、雨雲を突き抜けた僅かな陽光を反射している何かが屋内にある。

 それは、鏡だった。オドロの胸ほどの高さの全身鏡。

 鏡、ということは。


「ユカリ! いるか⁉︎」


 オドロの低い声が寒々しく響く。キジマは背後で「何やっとるんや」と若干苛立った様子だった。しかし、数秒経ってその鏡にユカリの姿が浮かんで、キジマは思わず一歩後ずさる。


「オドロさん! よかった、手鏡に行っても誰もいないし血痕が残ってたから心配してたんですよ!」


「悪い、緊急事態で避難してた。これから屋敷に戻って舞草を助けに行く」


「ミズエさんとコトブキは?」


「重体だ。外傷はなし、吐血していたから、多分内側をやられてる。十中八九呪いのせいだ」


「わかりました。……私は、何をすれば?」


「ミズエとコトブキを、頼む。最悪の場合は……」


 オドロが言わんとしている事を、ユカリはすぐに察した。続く言葉はこうだろう。最悪の場合は、こいつらを鏡の中に取り込んで怪異にしてでも生かしてくれ。


「けど、」


 確かに、それは手段の一つではあるけれど、最善とは決して言えない。本当に追い詰められた時しかユカリはしたくないし、オドロもさせたくない、けれど。


「俺はカリヤじゃない。おれが持ってる医療の知識ではコイツらはどうしようもない。……頼む」


 死んでしまうよりかは、遥かにマシだから。

 オドロに頭を下げられて、ユカリは渋々といったように頷いた。


「それじゃあ、頼んだ。キジマ、行くぞ」


「話の流れは読めへんけど、まぁええわ。行くで」


 コトブキとミズエの意識のない体を鏡にもたれかからせて、オドロは踵を返す。

 少しずつ弱まりつつある雨の中に、再度身を投じた。

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