第34話

 絵梨花は蔵の前で佇んでいた。静かに、雨の中で。弱まってきた風は水を吸って重くなった雑面を動かさない。僅かに覗いた口元は、屹と引き結ばれている。

 彼女のコンプレックスである醜い顔面は、布に隠されて見えない。例え親であろうともう見せないし、見せたくもない顔。忌々しい顔面を隠してくれるものであるが、知らない人に会うたびに「その布何?」と問われるので煩わしくもある。絵梨花にとってこの布もまた自分の顔だ。そしてそれに触れられるのは、やはりタブー以外の何物でもない。

 道を通る度に人目を引く。自分を見るな。自分の顔を見るな。どうか、見ないで。

 絵梨花は、人の目が何よりも苦手だった。

 彼女の目の前の蔵は、全体的に古びた屋敷の中でも一際歴史を感じさせる風格を醸し出している。そして同時に、何度も塗り重ねられた漆喰が不恰好でもあった。

 何となく、これが最後だという予感があった。母を含めた、家の中の一部の人間がどんどんと吐血して死んでいく中で、一人だけ何事もなかった自分も、これで終わりなのだと。

 恐怖は、一応ある。けどその前に、深い納得があった。己が死ぬことへの納得。同意と言い換えてもいいかもしれない。

 厭世ゆえの、自己嫌悪ゆえの、緩やかな希死願望。彼女を動かしているものはそれなのだ。

 彼女はもう一歩、蔵へと踏み出す。その重々しい扉に手をかけたところで、泥が跳ねる音が彼女の背後でした。


「待て!」


 叫び声。緩慢に振り返ると、そこには二人の青年が息を切らしている。片や、つい昨日この屋敷に来て、そして絵梨花が拒絶した神父。そして片や、見たことのない奇妙な男。目元に包帯を巻いており、夏の真っ盛りでしかも雨の中だというのにロングコートを着ている。


「そこは駄目だ、こっちに来い」


 オドロはひどく焦った様子で早口に言った。絵梨花は軽く首を傾げる。


「どうしてですか」


「そこは……呪いの根源だ」


 オドロは唇を僅かに戦慄かせた。絵梨花は蔵を……屋敷の敷地内、その南端に位置する蔵を見上げる。


「呪い? ……そうかもしれませんね」


 呪いなんて言葉は絵梨花にとっては少々唐突なものであったが、けれども腑に落ちる言葉でもあった。なるほど、確かに舞草家がこうなってしまっているのは呪いのせいなのだろう、と。


「これ、死臭か……お姉さん、もしかしてここは」


 包帯の男、キジマの問いに絵梨花は無感情に答えた。


「お察しの通り、死体安置所になっています」


 絵梨花も、死体と一つ屋根の下で平気な顔をできるほど神経が太い訳ではない。そして、この蔵にいるであろう彼女が詫びるべき存在にも、こうするべきではないかと思ったのだ。そうして、相手の溜飲を下げさせるべきだと。


「きみは、死にたいんか?」


 キジマはコートの上から自分の腕を摩る。彼も蔵から滲み出る色濃い呪いの気配を察知したのだろう、包帯から覗く肌の色は血の気が引いて青白い。

 その問いに、絵梨花は即答した。


「そうですよ。自分は死にたくて死にたくてたまらない」


 オドロもキジマも眉を顰める。どうして、という無言の問いを感じ取った絵梨花は蔵を見上げながら、彼女は語り始めた。


「自分の家……舞草家の蔵には、座敷童がいたんです。自分は見たことがない……と言うより、見えなかったんですけど、涼ちゃんが見た事あるって言っていました。それも、複数」


 唐突な話題に、二人は口を噤んだ。その沈黙は先を促しており、絵梨花は続ける。


「舞草家は代々神職の家系で、そこそこ昔から栄えていたんです。天辺などの分家もその時に生まれました。現代では随分と遠い縁ですけどね。……閑話休題。座敷童の起源って、知ってますか? 間引かれた……つまり、殺された子供だって話です。その子供の怨霊。それってつまり、舞草家は今まで何人も子供を殺して長らえてきたって事です」


 オドロが息を呑み、キジマは包帯の下で眉を顰める。彼の不機嫌を感じ取り、絵梨花は薄く微笑んだ。

 座敷童は、住み着いた家に幸福をもたらす存在とされている。去ってしまえばその過ぎた福を取り返すかのように厄が襲いかかるらしいのだが、少なくとも座敷童がいる間はその心配はない。

 つまり、絵梨花が言いたいのはこうだ。『舞草家は子殺しを行い、あまつさえその子供の魂を座敷童として利用し続けていた』と。


「自分はそんな家に生まれて、のうのうと幸福を享受してきた。……ゆるせますか、そんなの」


 オドロは目を伏せる。キジマは小さく「ゆるせるかいな」と悪態をついた。その言葉に、絵梨花は「同感です」と返す。


「自分はそんなの嫌です。勿論、時代的にそういう事をしなければならなかったのは理解できますけど……けど、どうしても拒否感があって。年端もいかないうちに殺された子供の感情を考えるとどうにかなってしまいそうで。家を栄えさせるために消費された命が、魂があるって考えただけで悍ましくてたまらなくて……その一族に自分がいるって考えると、どうしようもない」


 絵梨花は頭を抱えて掻き毟った。長い髪が絡まり、ほつれ、ぐちゃぐちゃになる。その狂気に、オドロは驚愕を隠しきれなかった。


「……きみは、誠実な子なんやな」


 キジマの言葉に、絵梨花は首を横に振る。


「……赦したくないだけですよ。自分が、紛れもなく自分自身が、この家が嫌いですから。自分自身も家も何もかも嫌いだから、死んで当然って、それだけです。そんな人間が、誠実な訳ありませんよ」


 キジマの柔らかな、親近感にも近い微笑みに絵梨花は目を背ける。自分の中の抑えきれない衝動は、そんなにきれいなものではないから。


「……けど、おれは座敷童の正体って自閉症の子供だって聞いたことあるで?」


「……え?」


 キジマの言葉を、思わず絵梨花は訊き返した。全く、聞いたことのない話だった。キジマは数歩ずつ、ゆっくりと絵梨花に歩み寄る。キジマは何故だか、今までずっと内臓にあった重みが消えていく感覚に違和感を覚えながら話を続けた。


「昔の普通の家は貧しくて、そういう子供を育てられなかったんやって。だから、育てられるのは裕福な家だけ。つまり因果関係が逆なんや。座敷童がいるから家が裕福になるんやなくて、家が裕福だから座敷童がいる」


 一歩一歩、ぬかるんだ土を踏む音。キジマの若々しく少し高めの声が鼓膜を通過する。


「座敷童がいたって事は、きみの家がどんな子供でも大切に育ててたっていう証拠かもしれないんやで」


 それは、今までの絵梨花の価値観を、思想を、全てひっくり返す言葉だった。ずっと自分の家を恨んでいて、疎ましく思っていたのに、本当はそんな理由はなかったかもしれないなんて。

 瞠目して言葉を失う絵梨花に、キジマは優しく微笑んだ。


「だから、きみの家は本当は子供を傷つけてなんかあらへんよ。ありもしない罪を背負おうとすんのは、昔この家にいた座敷童にも失礼や。……だから、これ以上きみ自身も、きみの家も、悪く思うのはやめとき」


 その言葉を否定するように、首を横に振る。そんな伝承なんて数多あり、どれか一つを信じ切れるものではない。そんなこと、座敷童の正体をたった一つの情報から信じきっていた絵梨花が言えたことではないけれど。


「勿論諸説あるし、きみの言う通り子供を殺してた可能性はある。……だから、もしそうだとしたら、おれがきみを罰する。それじゃ、気は済まんか?」


 気がつけば、キジマは絵梨花の目の前に来ていた。包帯の隙間から僅かに覗いた浅緋色の瞳で絵梨花を真っ直ぐに見つめていた。それは絵梨花が常に向けられている奇異の視線とは全く違う、ひたすらに優しい目だ。

 自分の顔は雑面に隠されているというのにそれを突き抜けて自分の顔を見られているような気すらする。そして、醜い自分の顔を全く気にしないかのように、己の美醜など全く関係がなく見つめられているように思うのだ。

 かっと顔に熱が集まる感覚がした。そもそも絵梨花は、こんなにも近くに異性がいるという状況自体が初めてだ。ましてや、それが年上の男性ともなると無言のパニックに陥るのも当然である。


「おれ達はきみを助けたいし……未来、ここに来たりする人を助ける事にも繋がる。どうか、おれ達にきみを救わせてや」


 懇願されて、絵梨花は逡巡を見せる。そしてゆっくりと頷くと、キジマは弾けんばかりの笑顔を向けた。


「ありがとうなぁ。それじゃあ、荒事はおれ達の専門や。あとは任しとき」


「勝手に人を野蛮な奴みたいに言うな」


 キジマは懐からウルミを取り出す。前回と同じく、手作りで鈍の刃の。そしてオドロは濡れた髪を結んで、シャベルを強く握った。絵梨花は蔵にかかっていた錠の鍵を開いて、数歩後退する。


「開けるで」


 キジマは蔵の扉をゆっくりと押し開ける。どうやら随分と錆びてしまっているようで、ギシギシと耳障りな音が鳴った。

 暗闇の世界に、光が差した。現れたのは、整然と並んだ木製の棺桶だ。ざっと数えて十以上。それはつまり、十人以上の死者が出ている事を示唆する。

 そしてその最奥に、一際悍ましい気配があった。それはこの屋敷に満ちていた呪いの根源に他ならず、オドロもキジマも息を呑む。ぞわぞわと体の内側から全神経を掻き毟るかのような悪寒が止まず、冷や汗が雨の雫のように流れる。蔵の奥に進むことを、体が拒否していた。


「っ……」


 それでも、オドロは一歩を踏み出す。込み上げてくる吐き気を押し殺して。その姿を見てキジマも蔵に入った。

 光源一つなく、扉から差し込む薄暗い日光のみが光。奥に向かうごとに暗くなる空間だ。内部は棺桶以外にも様々なものが雑然と置かれている。例えば枠が外れかけた全身鏡。例えば錆びついたシャベル。巻物などが雑に入った箱に、古びた屏風など。いかにも昔の日本の文化的な道具や装飾品などが捨て置かれている。全てが古びていて、中には壊れているものすらある。

 キジマが懐から懐中電灯を取り出した。長時間雨に打たれていたが、ロングコートの中にあったおかげで対して濡れておらず、問題なく灯りがつく。

 棺を一つ一つ確認するように光を当てる。それ顔すら知らない死者を悼んでいるようでもあった。オドロは胸の前で十字を切る。片手にシャベルを持っているせいで手を組んで祈ることはできなかったが、それは心の中で済ませた。ふと振り返ると、キジマも同じように十字を切っていた。


「……ん?」


 キジマが一つの棺に光を当てる。今までは暗闇のせいでわからなかったが、一つだけ異常な棺桶があったのだ。そこには赤黒く掠れた手形がいくつもついていて、蓋を簡易的に打ち付けている釘は歪んでいた。蓋と桶の切れ目にも手形がついている事から、棺桶が閉じた後にこの痕跡はつけられたのだろう。


「なんだこれは……」


「なぁ、あっち見てや」


 キジマが震えた声でオドロに言った。キジマが懐中電灯で照らしている先は、蔵の最奥だ。

 そこにあったのは、木箱だった。

 ただの木箱ではない。随分と古びており、そして赤黒い痕跡が幾重にも塗りたくられて表面に厚みが出ている。そのせいで形は歪んでおり、乾いた痕跡のせいもあって汚らしい。

 蓋は細長い布で縛られて閉じられているが、布自体も古く、また目が大きくて粗悪な品のように見えるので、破る事なども容易だろうし簡単に開けはするだろう。

 そこから、色濃い呪いの気配は漏れ出ていた。あの胸に一抱えできるほどの大きさの箱が、呪いの根源。


「……キジマ、あの箱をあの鏡に運ぶ。さっきの鏡の中の人間は覚えてるな? あいつに任せる。いいな?」


「了解」


 あの箱の正体は、オドロはわからない。けれどもとてつもない力を内包した呪物だという事は確実だ。リンフォンに放り込んでもいいが、一分以上ここに滞在するのは正直嫌なのが本音だ。


「有事の際は頼む。……それと、舞草の護衛も」


「言われんでも」


 少しずつ、一歩一歩箱に近づいていく。どくどくと心臓が跳ねている。自分は生きているのだと、まだ生きていられているのだと主張をしているように。

 どくどく。どくどく。呼吸が早まる。

 どくどく。どくどく。対照的に、世界はスローモーションになる。

 どくどく。どくどく。


「——オドロッ! 上や!」


 キジマの叫び声に心臓が一際大きく跳ね、そして弾かれたように上を見た。

 そして、彼の視界が静止した。そう感じてしまうほどの、驚愕だった。

 蔵の天井の、薄汚れた梁。そこに、人型の何かがぶら下がっていた。鉄棒にぶら下がるように、梁に手をかけて腕だけで全体重を支えて。それは人の形をしているが、しかし生きている人間の形はしていない。それには、下半身が千切れ飛んだかのように存在しなかったのだ。

 全身がぐずぐずになっており、腐っているようにも生乾き状態の血を浴びているようにも見える。何にせよ、鼻が曲がりそうなほどの鉄臭い腐臭が離れていても鼻腔を突く事は確かだ。福笑いで失敗してしまったかのように位置がズレた双眸は血走っていて、虚ろだが爛々と輝く敵意を露わにしている。

 ぽた、と何か赤黒く粘性を持った液体ががオドロの頬に滴り落ちる。それは鉄臭く、血液に似ていた。下半身の断面から、雨漏りのようにぽたぽたと液体が雫となって落ちている。


「——な」


 オドロの口から、言葉の成り損ないが漏れ出た。今まで気がつかなかった。天井という死角にいた事もあるし、目の前の箱に意識を取られていたせいもある。

 しかし、どんな理由を述べてもそれが失態である事には変わらない。それも、致命的な失敗だ。

 梁にぶら下がったそれは、手を放して地面に落ちた。べちゃ、と濡れた雑巾が落ちるような音を鳴らして。オドロは固まっていた体をなんとか動かして一歩後退り、自分の頭上に落ちてくる事は回避した。

 目の前に来たその怪異に、オドロは息を呑む。腐臭が鼻を突き、肉は膿んであちこち膨れ上がっていて、グロテスクこの上ない。

 下半身のないそれは腕のみで地面を這い……そして、木箱に手を伸ばした。

 オドロは、咄嗟に反応ができなかった。だから、怪異の異様に細長い腕が木箱を掴むその瞬間まで、動くことができなくて。

 その血に汚れた手が箱の封を千切り取り、箱を倒してしまったその時まで。


「っ、逃げろ!」


 オドロは振り返り、キジマと蔵の外にいる絵梨花に叫ぶ。キジマは瞬時に踵を返して蔵を飛び出し、絵梨花を庇うように抱き寄せた。オドロは蔵の中に積み重ねられた木箱の上に乗り避難する。

 それと丁度同時ほどだろうか、横に倒された箱から、どろりと泥のようなものが溢れ出た。そして箱の容積に見合わない量のそれが津波のように押し寄せ、蔵の床を覆い尽くさんと広がる。

 泥はまるで意志を持っているかのように蠢いていた。波の形が変形し、ぶくぶくと膨れ上がった小さな腕のようになる。まるで何かを求めるように蠢き、蔵の外へと飛び出した。

 キジマは片腕で絵梨花を担ぎ上げて、蔵から全速力で走り逃げる。絵梨花は困惑の声をあげていたが、キジマの尋常ではない様子になんとなく状況を察したらしい。彼女には蔵の扉から出てきた泥を視認して、その異様な外見に息を呑む。

 人一人を抱え上げたまま屋敷まで走り、そして縁側に土足で上がる。


「舞草ちゃん! こっから高い場所あるか⁉︎」


「ま、舞草ちゃん⁉︎ えっと、天井裏とか?」


「どっから登れる⁉︎」


「あんまり登った事ないのでわからないです!」


「マジかぁ! なら走るっきゃないなぁ!」


 何とか走り続けるも、泥は二人に追いすがり徐々にその距離を詰めている。そして、泥は小さな手の形になり、とうとうキジマの脚を強く掴んだ。


「いッ……!」


 外見に見合わない強い力で足首を掴まれて、骨が軋むような心地がした。そのまま、絵梨花を庇いながら無様にも床に転がった。畳であったおかげで体はあまり痛まなかったが、足首につきりと痛みが走ってキジマは歯を噛む。

 その腕に抱えられたまま、絵梨花は泥を見た。まるで赤子のような、か細く小さな腕を形作る泥を。

 それがどんどんと人の、それこそ赤子の形を得て、何かを求めるように手を伸ばしているところを。

 その虚ろな眼、歪な肉、小さな鼻。それを見て、絵梨花は思わず呟いていた。


「桃子ちゃん……?」

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