第35話


 それと時を同じくして、オドロはシャベルに泥がついていないことを確認して、泥の波から三分の一ほどが頭を出している鏡に向けて叫んだ。


「ユカリ! いるか⁉︎」


 鏡から微かに声が聞こえる。鏡の世界で距離という概念があるのかはわからないが、ユカリは遠くから応えているらしかった。当然だ、彼はコトブキとミズエの様子を見ているはずで、こっちに顔を出す予定はなかったのだから。

 けれども、今は一秒を争う緊急事態だ。応えてもらわねば困る。


「受け止めろ!」


 そうとだけ全身鏡に叫んで、オドロは足場にしていた木箱から飛び降りた。着地地点は、棺だ。

 この泥に触れてはいけないと、本能が叫んでいた。だから壇ノ浦の八艘跳びの如く、棺を足場にして移動する。心の中で死者に詫びを入れながら。

 そして、際限なくおどろおどろしい泥を零し続けている箱に走り寄った。下半身のない怪異の姿は既になく、どこかに逃げ去ったらしい。

 怪異の根源たる木箱を、オドロはシャベルで掬い上げた。外見と違わない重みは、オドロが思っていたよりもずっと軽い。

 そしてそのまま、木箱を全身鏡へと叩きつけるように投げつけた。直接触れないまま、まるで野球でボールをバットで打ち上げるように。

 真っ直ぐに全身鏡へと飛んでいき、木箱が壊れるか鏡が割れるかあるいは両方の結末を辿るかのように思われたが、木箱が鏡に触れた瞬間、波紋が鏡面に浮かび上がる。

 そのまま、木箱は鏡に沈み込む。無音で、水に引き摺り込まれるように。


「っはぁ、間に合った……!」


 鏡の中で木箱を抱え込んでいるのは、ユカリだった。随分と焦って来たようで、簪で軽く結われた髪は解けかけている。

 ユカリの腕の中の箱は蓋が開いてはいるものの、その中身はもう溢れない。鏡の中の世界では呪いはもう蠢かないのだ。

 根源が鏡の中に封印されたから、蔵の中の泥はこれ以上増えない。勿論これ以上外にも漏れ出ない。オドロとユカリはひとまず息を吐く。しかし、それは同時に溢れ出た泥ももう箱に戻せないという事でもある。

 ユカリは鏡の外の世界の惨状に目を見開きながら、視線を巡らせた。


「キジマさんと舞草さんは、大丈夫でしょうか……」




 一方その頃、キジマは腕の中に絵梨花を庇いながら目を見開いた。泥の手が自分達に差し迫りあと数ミリで触れてしまうところで、泥の動きがピタリと止まったのだ。

 そして、手も顔もどろりと崩れて、ただのおどろおどろしい気配を纏った泥になる。水たまりとなって畳にじわりじわりと染みていくそれを見て、キジマは思わず肩から力を抜いた。


「な、何があったんや……?」


 二人とも狐につままれたような顔をして、畳に染みていくそれを凝視する。そしてもう脅威が去ったことを理解すると目を見合わせた。


「……生きてるな?」


 キジマの強張った声での問いに、絵梨花は頷く。雨に濡れてはいるが傷はない。転がった時でさえもキジマが庇ったのだから、打ち身の傷もないだろう。


「ふーっ……良かったなぁ!」


 キジマは口角を上げて大きな口を開き、笑顔を浮かべながら絵梨花の頭を撫でた。乱雑なようで、しかし実際は暖かく優しい撫で方。

 その時絵梨花は、心底から雑面をつけていて、髪を無造作に伸ばしていた良かったと思った。

 耳の先まで真っ赤になった肌を、それらのお陰で隠せたのだから。

 もう雨の音はない。雨雲は空から去りつつあり、雲の隙間から天使の階段が伸びていた。

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