第32話


 床板を踏む度に、ギシギシと軋む。白熱電球は相も変わらず頼りない光を灯しており、みているだけで不安になってしまう。

 ミズエはオドロの背中をちらりと見た。黒いカソックを纏ったその姿は暗い廊下に溶け込んでしまいそうだが、卯の花色の髪のみが浮き出ている。日本家屋で西洋の服装を着ている人間が歩いていると言うのは、中々に異様な光景だ。

 まず南側の部屋から出て廊下を進み、まず東側に進む。一番端の縁側で、干したまま取り入れるのを忘れてしまったのであろう椎茸が雨に濡れている。それを雨の当たらない場所に避難させながら、ミズエは小さく嘆息する。

 もう夕飯時なのに、この家全体に重く垂れ込めてる空気のせいだろうか、空腹感は皆無であり、何も活力が湧かない。胃がキリキリと痛むような気すらしてきた。

 何も変わった様子はないとばかりに、あるいはそれら全てを慣れたように無視しているのか、オドロの歩く速度は常に一定で様子も全く変わりない。

 歩く方角を変え、今度は南側に向かう。しかし、そちらへの一歩を踏む度に内臓が重くなるような感覚をミズエは覚えた。


「……? どうした、ミズエ」


「いえ、あの……体の内側に違和感があったりしませんか?」


「? 俺はならないが……大丈夫か? すぐに引き返そう」


「すみません……」


 オドロに肩を支えられながら北側に向かうと、段々と異物感のようなものは和らいでくる。そして絵梨花に宛てがわれた部屋の前に着く頃には、体の違和感は軽いものになっていた。

 部屋に入ると、ちゃぶ台に突っ伏していたコトブキが顔を上げて出迎える。


「あ、お帰りなさい。聞いてくださいよ、風雨のせいもあるかもですけどここ電波不安定すぎるんです。ソシャゲ一つできやしない……あれ、どうしました?」


「ちょっとな。ミズエ、平気か?」


「だいぶ良くなりました」


 オドロは座布団を畳んで枕代わりにして、ミズエの体を横たえさせた。


「どうしたんですか、ミズエさん」


「南の方向に行ったら体調が悪くなって、南から離れたら良くなった」


「それは……」


「十中八九、呪いの原因がそこにあるな」


 オドロの言葉に、空気が重くなる。

 もしミズエの言う違和感が強くなったり弱くなったりするタイミングが南に向かっている時と少しでもずれていたのなら、その疑いはまだ弱いものだっただろう。しかし南へ進む足と体の違和感が比例するなら、それは明らかに常ならぬ異変である。


「呪いの対象が女に絞られているのか、それとも怪異に絞られてるのか……? というかまず呪いをかけているのが人間なのか怪異なのかもわからん」


「それって何が違うんですか?」


「人間がかけているなら、そいつをぶちのめせば万事解決だ。この近くにいるとは限らないのがネックだな。んで、怪異の場合はそいつをリンフォンに放り込むなりユカリの所に放り込むなりして無力化すればいい」


「え、ユカリさんの所に⁉︎」


「あいつの空間は呪い無効だ。実質的な封印だな」


 もし呪術を用いているものが人ならば、実力行使に出ることになるだろう。場合によってはオドロのリンフォンを生きた人間に使う事になるかもしれない。ミズエは重々しく溜め息を吐く。


「ところでコトブキ、お前は体は大丈夫か?」


「……正直、こんな家にいる時点で体調はすこぶる悪いですよ」


 普段よりも青い顔色をしながらコトブキは吐き捨てた。彼女は生まれ育った環境を疎んでいた事もあり、日本家屋が嫌いなのだ。


「ひとまず、コトブキは今日はもう休んでおこう。……あ、そうだ。コトブキ、ネットは通じるか?」


「通じるっちゃ通じるんですけど、不安定すぎて読み込みマークがぐーるぐるですよ。おらこんな村嫌だってね」


 スマートフォンを頭上に掲げながら彼女は眉を顰める。画面を覗いてみると、確かに検索すらほとんどできていない有様だ。


「これは無理だな、まともにやってたら夜が明ける」


「僕なんか疲れちゃったんで先に寝ていいすか?」


「いいけど……夜ご飯も食べてないのに?」


「なんか食欲ないんです。多分寝たら治るのでお気になさらず」


 コトブキは押し入れから布団を引き摺り出して慣れたように手早く敷くと、寝転がってそのまま寝息を立て始めた。


「……ミズエも、もう寝ろ」


 オドロもコトブキと並べて布団を敷いて、ミズエを助け起こした。彼女に布団を被せて、電気を消した。


「おやすみ。ゆっくり休め、二人とも」


 囁くような声と同時に、ゆっくりと睡魔がやってくる。ミズエは二枚の札の下で、目を瞑った。腹の中で蟠る違和感を無視しながら。



「……どうしたんだ、ホシさん」


 ちらちらと部屋中を舞っている青い蝶に、オドロは語りかける。深く眠っているコトブキとミズエを起こさないように、小さく抑えた声で。まるで急いているかのような動きに彼は自身の指に止まらせるように促して、人差し指に青い蝶を乗せたまま部屋を出た。

 縁側の雨が当たらない範囲でオドロはあぐらをかいて、また青い蝶に話しかける。


「それで、どうした? 普段はもっと落ち着きがあるじゃないか」


 蝶は焦っているように忙しなく羽根を動かして宙を飛び回る。当然だが、蝶には口も人語を話せる声帯もない。なので意思の疎通は極めて困難だ。


「……うん、わからん」


 蝶はオドロの指に止まる。その動きがまるでがっくりと肩を落としているように見えて、オドロは思わず失笑した。


「悪いけど、この雨は暫く止みそうもない。コトブキやミズエの安全のためにも、ここには滞在しないとな」


 ここは山の中だ。ゲリラ豪雨を思わせるほどの雨が降っているのだから、土砂崩れなどの災害の可能性もある。よほどの緊急事態でない限り、この家を離れるのは得策ではないとオドロは思っている。


「もどかしいな……」


 青く、仄かに発光する鱗粉がついた手を眺めながらオドロは独りごちた。

 風雨の中、時計の針は進み続ける。夜はゆっくりと更けていった。



 ユカリは鏡の中で無意識に息を潜めていた。正確には、それは呼吸の真似事でしかなく、ユカリが生きた人間だった頃の名残と言ってもいいだろう。本来、鏡の中の世界で生命の存続に呼吸は必要ない。そもそも生きているのかすら怪しいのだから。

 彼が何故そんなにも緊張感を持っているのかと言うと、それは彼が今いる場所に関係している。

 彼が現在いる鏡は、舞草家の数少ない鏡の一つだ。以前この家に来た時と同じ鏡でもある。そして、その鏡が置かれている和室は簡易的な霊安室だった。とは言ってもそこは暑い空気が籠ってしまっていて、わずかに腐臭が漂う空間だった。かろうじてほとんど溶けかけている氷がいっぱいに入ったタライが置いてあるが、それだけではとてもではないが遺体を置いておく部屋としては足りない。

 外界と隔絶された鏡の中では異様な臭気まではわからないが、その有様から察する事はできる。ユカリは静かに合掌して目を瞑った。

 ざあざあとノイズのような雨音が響く中、ユカリは数分間そこで瞑目する。

 そんな中引き戸が唐突に開かれて、ユカリははっと息を詰めた。そして自分の気配を極力決して口を抑える。

 入ってきたのは、絵梨花だった。顔にかかっている白い布が暗闇に浮かび上がっている。彼女には悪いが、一見人間には見えなかった。ユカリは驚愕の息を押し殺しながらそんなことを思う。

 絵梨花は棺桶の前に立ち止まり、呆然と佇む。まるで立ったまま死んでしまったかのように、あるいは人形にでもなってしまったかのように、呼吸すら忘れて。

 そして彼女は、小さく呟いた。しかし、声量は小さくともそこには何か悍ましい感情が含まれている。言葉にするならば、怨嗟が近い。しかしそれにしては希薄で、何か別の何かが混ぜ物にされているかのようだった。

 恨みは恨みでも、他人の恨みであるかのような、実感が薄い憤懣だ。

 そんな声で、彼女は言うのだ。


「あなたも、自分も、死んで当然なんですよ……」


「……え?」


 ユカリは思わず声に出してしまい、すぐに絵梨花が振り返る。


「誰っ⁉︎」


 叫び声に、ユカリは鏡の奥の世界まで深く引っ込んだ。絵梨花に姿を視認されたかどうかはわからないが、警戒されたことは確かだろう。ユカリは鏡の中にいる自分の姿を晒してしまっているので、その時点で疑いを持たれているかもしれない。

 生きていないはずなのに生者の真似事のように暴れ狂う心臓を宥めながら、彼はゆるゆると息を吐いた。

 今のは、一体どういう事だろうか。死んで当然なんて、穏やかでない言葉。それに。


「あれは……涙……」


 あの時、絵梨花の雑面から僅かに落ちた透明な液体は、見間違いではなかったはずだ。

 彼は思考に耽る。そして気が付かなかった。暗い部屋のせいで視認しようもなかった。それは絵梨花も同じだ。

 いくつも並んだ木製の棺桶の中、蓋に浅く刺さった釘が歪んでいる棺桶があったことに。

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