第31話
急ぎ準備を終わらせて電車に乗り込み、目的地付近に着いたのは夕方だった。既になだらかな斜線を描く地平線に日は沈みつつあり、目的地である山道はこれでは危険だろうといった暗さになりつつある。
しかし、事態は一刻を争う。暗いから危険だからと、以前の長崎のようにのうのうと民宿に泊まっている暇はないのだ。
山の天気は変わりやすいと言う。出かけた時には晴れていたのに、山に着く頃には雷雨が降り注いでいた。夏だから夕立が降ったのかと思ったが、どうやら雨は長く続きそうだ。辟易としながらあちらこちらが隆起したアスファルトを走り抜け、ほとんど獣道と言っていいような荒れた道を登る。
全身がずぶ濡れになってしまって日も落ち切ろうとしている頃に、ようやくその屋敷にオドロ達は辿り着いた。
今は昭和か明治の時代かと錯覚してしまうほど、古びた木製の日本家屋だ。塀は漆喰で塗り固められており、扉は頑丈に閉じられている。内側から閂でもかけられているのか、押しても引いても開く様子はない。僅かに見える建物は屋根が瓦で敷き詰められていた。その他にも敷地内の北側には蔵などもあるようで、本当に一昔前の富豪の家のような印象だ。
いかにも日本の建築物である建物を見て、コトブキが僅かに息を詰めた。ごくり、と唾を飲む音は風雨に掻き消されてコトブキ自身にも聞こえない。
「ここで合ってるんだよな……?」
ミズエが持っていた手鏡から、「はい」と明瞭な返事が聞こえた。表札が強い風のせいか落ちてしまっていて、拾い上げると『舞草』と書かれている。
「おーい、誰かいないか? ここを開けて欲しいんだが!」
風雨のせいで、オドロの声は掻き消されてあまり響かない。扉を叩くも、ただ虚しく揺れるだけだ。返ってくる声は皆無である。
「聞こえてないんですかね……」
「かくなる上はこの扉をぶっ壊すか塀を乗り越えるか……」
そんな物騒な話をしている途中。がたん、と塀の内側から音がした。三人とも思わず口を噤み、扉から一歩後ずさる。オドロはシャベルを握って、臨戦体制に入った。
がた、がた、と数回音がして、その後には数瞬の静寂。そして、ゆっくりと重々しく扉は開かれた。
「……」
顔を出したのは、オドロが警戒していたような怪異ではない。人間だ。しかし、少しばかり異様な外見をしていた。
制服なのであろう、校章らしきマークが付いているカッターシャツとベストを着て、その上にパーカーを羽織っている。膝丈のプリーツスカートと小柄さから女性であることはわかった。
紺色の髪は雑然と長く伸ばされ、腰まで届いている。雨のせいで濡れていて重々しさが増していた。
そして、一番異様な点なのだが、彼女の顔は白い布で隠されている。なんの模様もない真っ白な雑面で、紐が付属しており後頭部で結ばれていた。
奇妙な外見をしている少女に見上げられ、オドロは一瞬固まる。コトブキも目を見開き、ミズエすらも似たような外見をしていると言うのに言葉を失った。
「あの……」
少女が声を出す。か細く小さな、風雨の音を差し引いても聞き取りづらい声だった。
「なにか、用でしょうか……?」
その問いに、オドロははっとしてシャベルを持つ手を緩めた。
「あ、ああ。すみません、こんな時間に」
「いえ……」
「私達はこの家で何か異常な事が起こっていると聞いて調査に参りました、怪異お悩み相談所の棘莎凪と申します」
異常、という言葉に、少女はぴくりと肩を震わせる。その反応に、彼女は何かを知っていることを察した。
「……雨も強いですし、とりあえずお入りください。お話は、その後で」
少女は淡々と告げると、踵を返す。扉を押さえて中に入るように促されて、オドロたちは敷居を跨いだ。
その瞬間、ぞわりと背筋に百足が這ったかのような悪寒が走る。オドロもミズエもコトブキも、全員がその感覚を覚えたのだ。屋敷の敷地内に入った、その瞬間である。
ぶるり、とミズエは身震いした。これは決して、雨で体温が下がった故の寒気などではない。もっと悍ましい外的要因がある。ミズエはこの感覚に覚えがあった。
クロカミサマだ。初めて、あの風が吹き荒れる屋上でクロカミサマと対峙した時と似ていた。恐ろしく、それゆえに逃げ出す事も狂う事すらできない。圧倒的な畏怖に全身が凍りついたかのような、あの感触。
玄関へと続く踏み石をなんとなしに踏みつけながら、引き戸を引いて屋敷の中に入った。
木の古めかしい匂いと雨で濃くなった緑の匂いが、そこには満ちている。家の中は暗く、少女が電気をつけると白熱電球が不安定に明滅した。床板を踏む度にギシギシと軋み、穴が空いてしまわないか不安になる。
「こちらでお待ちください」
一番南端の部屋に誘導され、襖を閉められる。まるで老舗旅館の一室のような、けれども人を迎え入れる準備はされていない八畳の部屋で、オドロは小さく息をつく。
「……人様の家にこうは言いたくないが、不気味だな」
「そうですね」
「いかにもって感じっすよね。使い古された和風ホラーみたいな。これで髪が長い日本人形とか、お札とかあれば完璧。紐で綴じられたいかにもな事が書いてある古い手記とかあったらそのものですよ」
壁にかけられた能面を見上げながらコトブキは呑気に笑っていたが、しかしその笑顔はどこか強張っている。早口に捲し立てた言葉は、まるで恐怖を誤魔化しているようにも聞こえた。
「にしても、辺鄙なところですね」
「確かに、こんな所にこんなにでかい屋敷があるのが不自然に思えるくらいだな」
ばたばたと、風に煽られて木々がさざめく音がする。周囲に人の気配は全くない。付近の村からも離れて人里から隔絶された場所にある巨大な一家というのは、中々に珍しいのではないかとミズエは思った。
「お待たせしました。お風呂も用意しますので、少々お待ちください。それとも、夜ご飯の方が先の方が良いですか?」
先ほどの白い雑面の少女が、引き戸を開いて顔を出す。三枚の畳まれたタオルをオドロ達に差し出しながら、彼女は感情のない声音で淡々と言った。
「あ、いえ、お構いなく。いきなりお邪魔してそこまでご迷惑をかける訳にはいきませんので」
「……あの、勘違いだったら申し訳ないので確認しておきたいのですが」
「なんですか?」
「天辺涼、という人をご存知でしょうか」
その名前に、オドロとミズエは首を傾げる。リョウという音は男女の判別すらつかないなと思った程度で、連想される人物は皆無だった。しかし、コトブキだけがぱっと顔を上げて思わず叫ぶ。
「涼ちゃんを知ってるの⁉︎」
その勢いに、少女身を引く。やめろ、とオドロが襟首を軽く掴んで静止させると、少女は小さく息を吐いた。
「えっと、はい。つい先ほど天辺涼と連絡を取りまして、タイミング的にもしかしたらあの子に頼まれて来たのかな、と」
「あなたは、涼ちゃんの何?」
「遠縁の親戚ですよ。歳も近いので、懇ろにさせてもらってました……あれ、自分、まだ名乗ってなかったですか?」
「名乗られてないな」
オドロが言うと、少女は恥いるように俯いて、そして深々と頭を下げた。
「それは失礼しました。自分は舞草絵梨花と言います。こんな山奥までご足労いただき、ありがとうございました」
少女、もとい絵梨花は少々過剰にも思えるくらいに畏まった態度で名乗る。コトブキが慌てて「頭上げて!」と言ったので彼女は顔を上げたが、見本のような正座の姿勢は崩さないままだ。雑面のせいで表情が全く窺えなく、何を考えているかわからない。
「それで……無礼を重ねるようで申し訳ないのですが」
「そんなに畏まらなくても良いですよ……」
「いえ、あなた達が無関係ならば尚更です」
絵梨花は僅かに顔を動かす。恐らくは視線を巡らせて、三人の顔を見ているのだろう。
「この雨が止んだら、すぐにお帰り願います」
それは、頑として固く揺るぎない意思が含まれていた。絵梨花の鋭い眼光に、布越しに睨まれたような気がする。その威圧感にも近い気迫に全員が一瞬黙り込んだ。
そして、その沈黙を破ったのはオドロでもミズエでもコトブキでも、ましてや絵梨花でもない。机の上に置いていた手鏡からだ。
「どうしてか、訊いてもよろしいでしょうか」
ここには姿が見えない者の声に、絵梨花は僅かに身動ぎした。恐らく動揺しているのだろうが、顔が見えない上にリアクションが薄いので判りづらい。
ミズエが手鏡を持ち上げると、そこには藤色の着物を着ている中性的な男性、ユカリの姿。
「鏡の中から失礼します、ユカリと申します。どうぞ以後お見知り置きを」
鏡に反射した、ユカリの背景に絵梨花が映り込んでいる事から、彼女もそれが液晶画面などではない事を察したのだろう。たっぷり十秒間固まり、そして今まで忘れていた呼吸を再開させるかのように深く息を吐いた。
「……驚きました」
「普通の方はハイテクな映像技術と信じて疑わないのですが……やはり、貴女はこの世のものならざる存在を知っているのですね」
オドロ達の三対の瞳が、一斉に絵梨花を見る。彼女は一瞬、怯えるように肩を震わせた。
「不毛な時間はお互いに過ごしたくないでしょう。なので単刀直入に言わせていただきます。私達は既に、この家で何かが起こっている事を知っています。私達は貴女を、貴女達を助けに来たのです。なので、そのために我々に協力していただきたい」
ユカリの言葉に、絵梨花は僅かに俯く。まるで拒絶のように。そして、彼女はゆっくりと顔を横に振った。
「何故でしょう……?」
「無関係の方を危険に晒す訳にはいきません。これは家の問題ですので」
「待ってください、せめて話を……」
「無理です」
「お前、それは無いだろ。こんな中途半端な所で」
「帰ってください」
「じゃあ涼ちゃんと連絡を取ってたってのは何?」
「帰って!」
絵梨花の叫びに、全員が黙り込んだ。気まずい静寂が訪れて、風雨の金切り声のような騒音のみが扉の外で響いている。
「……お願いですから、帰ってください。関係のない人達の命を危険に晒せるほど、自分は人間としての良心を失っていませんので」
「施しという形が嫌なら、依頼にするという手もあるぞ」
「そうです。依頼料は高いですが、勝手に押しかけたのはこちらなので少し安くします。……いかがでしょうか」
オドロとユカリの二人係の交渉にも、絵梨花はやはり首を横に振った。
「……そうも意固地になられると、何か他にあるんじゃないかと勘繰ってしまうんだが?」
「どうぞお好きなように邪推なされてください。……というか、実際にそうなんですから」
絵梨花は一方的にそうとだけ言うと、立ち上がって強制的に話を打ち切る。そして一礼だけして、部屋を出て行った。
「……何なんだ、一体」
オドロは忌々しげに吐き捨てる。ユカリは口元に手を当てて、「ハッタリをかけた方が良かったですかね」と呟いていた。ミズエは三枚の札の下で思案げな顔をしている。
「……あの、ところで気になったんすけど」
「何でしょう」
「みんな、この部屋に来るまでに人を見たり、人の気配を感じたりしました? 僕達以外ので」
言われて、オドロはすぐに「無い」と言い切る。ミズエも少し考えてから、「多分ない」と答えた。ユカリは実際に家の中を歩いていた訳ではないのでノーコメントだ。
「経験則なんですけど、こんなに大きい家ならそれに見合うくらいの人数がいる筈なんです。例え住んでいるのが舞草さんの親兄弟数人だけだとしても、こんなに大きな家を持ってるならハウスキーパーさんくらいいないととてもじゃないけど釣り合わない」
コトブキは声を少し小さくして、苦々しく続けた。
「……僕の家では、嫁入りした人とか未婚の娘がほとんどの家事をしてました。逆に男は何もせずに亭主関白だったけど、女性だけでもそれなりに人数はいたので賄いきれてはいました。あの家の常識をここに当てはめる気はないですけど、ここを管理するならある程度人数がいなきゃなのは確かっすね」
その話にユカリが頷いた。
「私はこの家を実際に歩いた訳ではありませんので、実際の規模はよくわかりませんが……装飾品の類、例えばあそこにかかってる掛け軸や能面などですね。あれの古さなどからこの家に相当の年季が入ってる事はわかります。少なくとも、長い時間何人も丁寧に手入れをしていないともっと古ぼけて汚い印象になってしまうかと」
「そういうものなんですね」
ミズエはあまりパッときていなかったが、オドロは教会の管理をしているので通ずるものがあるらしくなるほどと頷いていた。
「何人か死んでしまっているのは、私から見えました。けれど、あの棺桶の数がイコールでこの家に住んでいた人数かは……判別しかねますね」
「ちなみに、この家と同じくらいの大きさの二条家では、十人以上は住んでました。お盆や年明けは親戚も来るのでてんてこ舞いでしたけど……スペースで困った事は、そう言えばないなぁ」
ユカリはまた考え込む仕草をして、「後でもう一度調べてきます」と言った。
「それと、もう一つ良いですか?」
手を挙げたのは、ミズエだった。みなさんも気がついているかもしれませんけど、と前置いて、彼女は口を開く。
「この屋敷……塀に囲まれた範囲内は、悍ましいくらいの呪いに満ちているのは、お気づきですか?」
その言葉に、オドロとコトブキは緊張感のある面持ちで頷いた。敷居を跨いたその瞬間に全身に走った悪寒は決して気のせいではなく、あまりに濃い呪いの気配に体が警鐘をあげただけなのだ。
「けど、一番最初に顔を出した舞草さんには、呪いの気配が欠片たりとも見えなかった。こんな家に住んでおきながら、です。これって、普通なんでしょうか? それとも、わたしが感知できていないだけか……」
「いや、それは俺も違和感を抱いてたところだ。ミズエの言う通り、確かにこんな場所に住んでいて呪いの気配が全くしないのはハッキリ言って異常だ。けどまあ、神職……例えば巫女だとか神主だとかの家系なら呪いへの抵抗力が強いって事はあるから、そこは気にしなくてもいい」
それにしても、あいつの気配の清廉さは普通じゃないがな、とオドロは小さく呟いた。
「懸念点はそれくらいですね。それでは、私はもう一度この家中の鏡を回ってみます」
「わかった、気をつけて」
「鏡の中なので気をつけるも何もありませんよ。行ってきます」
そう言い残して、ユカリの姿が鏡から消える。
「……それにしても、この呪いは一体何なんですかね? 広い家を丸ごと囲うくらいの効力って、結構えげつないんじゃ」
「家って言うより、舞草家の血筋そのものにかけられた呪いなのかもな。だとしたら、舞草に呪いの気配がないのは変だが。……俺も少し探索してくる」
オドロは座布団から立ち上がり、シャベルを掴んで引き戸を開く。その背中にミズエが声をかけた。
「え、良いんですか?」
「何がだ?」
「いや、家主の許可もないのに家探しって……」
「家の構造くらい知っとかないと、何かあった時逃げるにも苦労するぞ。呪いの真相を探すのにも必要だ。一緒に来るか?」
確かに、ミズエもオドロも昔ながらの日本家屋の構造に不慣れではある。日本家屋はいかんせん、現代日本では数が少ない上にあっても入る機会はないのだ。実際、ミズエの祖父母は古い家を取り壊して新しい家に住んでいる。
「……わかりました。わたしも行きます。コトブキちゃん、どうする?」
「僕は結構っす。ただでさえ日本家屋で辟易としてんので」
「わかった。気をつけてね」
「こっちのセリフですよー」
ひらひらと手を振るコトブキを横目に、ミズエは引き戸を閉めて薄暗い廊下を歩き始めた。
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