第27話


「たっだいまー」


 疲労に重たい体とスーツケースを引きずって、コトブキはマンションの扉を押し開けた。廊下の向こうのリビングから、「おかえりー」とくぐもった声が聞こえる。

 なんとかリビングまで辿り着いたコトブキを、一人の男が出迎えた。三十代後半ほどの壮年期の男性だ。

 彼の名前は徳留蓮。二条家惨殺放火事件にて身寄りを失ったコトブキの元に突如現れ、彼女の保護者となっている男。つまりコトブキの養父にあたる人物だ。

 徳留はノートパソコンをタイピングする手を止めて、コトブキに軽く手を振った。


「おかえり。どうだった、今回のコスイベは」


 コトブキは僅かに体を強張らせる。

 彼女はまだ高校生になったばかりの身分だ。大人と一緒とはいえ、県外に簡単に旅行に行く事はできない。徳留は放任主義なので強く咎めてくることはないのだが、心配そうにこちらを見ることが多いのだ。そんな彼の目を無視して奔放でいることは、コトブキの良心が許さない。

 そこで、コトブキは仕事の都合による外出を「成人済みのネット上の友人とコスプレイベントに行ってくる」と言い訳する事で誤魔化しているのだ。徳留とコトブキの趣味は共通している所があり、それに理解を示す徳留がコトブキを止める事はなかった。

 その代わり、コトブキは他県への泊まりがけの外出の際は証拠となるコスプレイベントでの写真の提出を余儀なくされるのだ。強制された訳ではないが、徳留の懸念を一つでも晴らしたいと能動的にそうしている。

 コトブキはデジカメを徳留に差し出して、中に入っている写真のデータを一枚一枚見せる。徳留はうんうんと頷いて、写真を眺めていた。

 ちなみに、コトブキはいつもたった一人のキャラクターのコスプレばかりしている。とある推理ゲームに登場するキャラクターで、学者然としているがその正体はサイコキラー、という男性キャラクターだ。


「よく撮れているな、現像するか?」


「いや、いいよ。ありがとう蓮さん」


 そうか、とどこか残念そうに徳留はカメラを机に置いた。彼は基本的にデジタルを活用してアナログなものにはあまり触れない人間なのだが、そのたった一つの例外が写真だった。写真だけは必ず現像するかどうか訊いてくる。コトブキが一言拒否するとそれで引くものの、どこか残念そうに肩を落とすのだ。

 そう言えば、彼がそういった反応を示すのは僕が映った写真だけだな、とコトブキはふと思う。

 自分の部屋に入ろうとして、扉の隙間から徳留の様子を伺った。

 徳留蓮。コトブキの養父。趣味が共通している友人であり、自分を育ててくれている恩人でもある。親と呼ぶには、少し抵抗があるが。しかしそれは蓮を嫌悪しているからではなく、趣味の合う年齢が離れた友人であるような距離感であるが故だ。


 彼はコトブキの父、二条星弥の友人だと名乗っていたが、それにしては不可解な事がある。

 徳留は基本的に在宅で仕事をしており、仕事の内容はコトブキは詳しくは知らないもののIT系の仕事をしているとだけ聞いている。

 しかし、二条星弥は一言で言うのならば懐古主義的であり、日本の古の文化をいい部分も悪い部分もひっくるめて凝り固めたかのような人間だった。

 そんな二条星弥が、グローバル化デジタル化ボーダーレス化の最先端を行っている徳留のような男と積極的に関わりを持つとも思えないし、馬が合うとも思えない。徳留が二条星弥の友人であったなどとは、考えづらいのだ。高確率でそれは嘘だろうとコトブキは踏んでいる。


「ねえ蓮さん、僕のお父さんの話、聞いていい?」


「突然だな。良いけど」


 そうして、徳留はコトブキの父を慣れたように話し始める。

 曰く、二人が出会ったのは中学生の頃。京都の郊外の田舎の中学校での事だ。

 家の過剰な締め付けに辟易としていた父と、インターネットの進化に追いつこうと躍起になっていた徳留。二人は悪友として馬が合い、共にやんちゃなことをしたと徳留は懐かしそうに語る。

 二人は共に大人になり、成人した後も関係は深かった。赤子の頃のコトブキに会わせてもらったこともある。その時、赤子のコトブキを抱くコトブキの父の表情は、困っているようでありながらも愛おしげで、かつてなく穏やかだったそうだ。

 やはり、徳留の話の中に出てくる父の像は、コトブキが覚えている星弥の像と全く異なっている。コトブキは星弥に愛された覚えなんてないし、慈愛の目なんて一度たりとも向けられたことはない。ただただ、道具を見るような無感情で無機質な見下ろす瞳しか覚えてないのだ。

 コトブキが思考に耽っていると、徳留は肩を竦めて話を打ち切る。誤魔化すような苦笑を浮かべながら、彼はマグカップの中のコーヒーを啜った。


「真新しい話はないだろ。あいつはもう死んでるんだから」


 徳留が語るのは、思い出でしかない。その一ページが新たに増える事もないし、時間と共に薄れ消えていくが定めだ。何故なら、コトブキの父は既に死んでいるのだから。


「それは、そうだけど」


「まだ聴きたいならまた後でにしよう。荷解きだってあるし、疲れてるだろ?」


 その言葉にコトブキは何も言えず、静かに頷いて自分の部屋に戻っていく他なかった。

 すごすごと扉の奥に消えていく背中を見守りながら、徳留もまたノートパソコンを畳んで立ち上がった。

 徳留が住んでいるのは決して広い家ではないため、彼の自室はコトブキの隣にある。自分の部屋に入って机にパソコンを置き、ゲーミングチェアにどっかりと座り込んで彼は細く息を吐いた。そして部屋の中に視線を巡らせて、棚の端にいるもにに薄く微笑む。


「おまえもおかえり、箕星」


 棚にとまっていたのは、青い蝶。それは鱗粉をわずかに振り撒きながら、徳留の机の上に飛び乗る。


「疲れたみたいだな、お疲れ」


 青い蝶はわずかに羽を動かす。隣のコトブキの部屋がある壁を見て、「ああ、コトブキは着替えでもしてるのか」と羽を軽く指先で撫でる。


「……どうした? 様子が変だ」


 青い蝶は僅かに身動ぎする。それは特殊な条件下以外では生者と語る口を持たないため、ほんの僅かな動きでしか意思の疎通を図れない。けれど、徳留はその僅かな動きでなんとなく蝶が伝えたい事を感じ取った。


「迷ってるのか? ……当ててやろうか。おまえの往年の悩みだろ?」


 蝶がぎくりと体を揺らす。そのわかりやすい反応に、徳留は笑い声をあげた。


「わからない訳ないだろ。何十年の付き合いだと思ってるんだよ、おまえが死んでからの時間も含めて」


 徳留は青い蝶を眺めながら、穏やかに微笑んだ。心を許した、友にしか見せない笑み。


「おまえの事はお見通しだよ、俺のたった一人の親友」

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