第28話
舞草絵梨花は、静かに絶望していた。
目の前には、彼女の母が木製の簡易的な棺に収まっている。血色は悪く、口の下には血痕。血を吐いた痕跡だった。歪に組まされた腕も拭き取られた血の跡がある。
血色は悪く、まさに死人の色をしている。人間らしい赤みを失った土気色。死を受け止めきれず、現実を拒絶するように頬を撫でた。その肉は死後硬直を起こしており、かたかった。生きている人間ではあり得ない感触だ。
舞草絵梨花は、静かに涙を落とす。嗚咽すら漏らさず、否、涙を流している自覚も嗚咽をする事すらも忘れてしまっていた。
何も考えられなかった。何も考えたくなかった。ただひたすらに絶望の淵をふらふらと漂い、そして自分の命すらも危険に冒していくのだ。
ふと人間の気配を感じて首を動かしてみれば、すぐ横に全身鏡があった。大嫌いな自分の姿が、そこには映し出されている。普段ならば鏡を見る度に忌々しげに顔を歪めるが、今はそんな余裕すら無い。
彼女はほとんど無意識のうちに、緩慢な動きでスマートフォンで短い文を打ち込んで送信していた。
宛先の名前は、天辺涼。年齢が近い、遠い親戚の風変わりな少女だった。
意識が浮上して真っ先に知覚したのは、途轍もない体の重みだった。内臓に鉛が詰め込まれたかのような胴体の重さに引っ張られて、全身が不調を訴えていた。
「ゔぅ……おえ……」
胃の中身どころか内臓を全て口から吐き出してしまいたいほどの吐き気が襲ってくるが、嘔吐いても出てくるものは皆無だ。腹の底で不快感が蟠っている感覚に、キジマは眉を顰める。
「……あ。えっと、……覚醒したか、生者でありながらも死者の徒でもある木乃伊男よ!」
やたらと高慢な口調の少女の声に喋りかけられて、キジマは強く瞑っていた瞼を緩慢に上げる。どうやら自分はソファか何かに寝かせられているらしい。見上げた先にある蛍光灯の眩い光が眼球を刺すようで、頭が痛くなった。
「だ、大丈夫⁉︎」
「ほっといていいよ、アマベ。死んだなら死んだで構わないし」
「イバラ、あんたはまたそんな……! そんな簡単に死んでいい訳ないでしょうが⁉︎」
「あーはいはい。偽善者に話が通じるとは思ってないから」
金髪の少女、アマベは軽々しい口を叩く少年、イバラに対して唸るように叫ぶが、当のイバラはどこ吹く風で自分の爪を興味なさげに弄っていた。それに対してまたアマベが眉を顰めるが、いくら叱っても無駄だとわかったのだろう、苛立たしげにため息をついた。
キジマはまず視界の明瞭さに違和感を覚えて、自分の頭に触れた。そこには傷ごと顔の半分を覆い隠す包帯はなく、素顔が完全に露出している。
自分の体を軽く触って確かめてみると、服を緩めたり捲ったりして見える部分のみに処置が施されていた。痣には湿布が、擦り傷には絆創膏が貼られている。この処置をした者は手当てに慣れていないようで、貼り方などは少し汚かった。
服を捲り上げているとアマベが気まずそうに目を逸らしたので、恐らくは彼女が施したのだろう。礼を言おうにも喉が錆びついたようになっていて、うまく発音できなかった。
あとで改めて感謝の言葉は伝えようと思いながら、何度か咳き込む。そしてようやく喉が正常に働き始めて、キジマはかろうじて言葉を吐き出す。
「ここ、は……?」
肺が圧迫されているような息苦しさに再度咳き込みそうになりながらも、キジマは問うた。それに答えたのは、アマベでもイバラでもない。
「ここは国公立怪異専門探偵事務所。その名を通りに国に認可を受けている、怪異専門の依頼を請け負う専門の事務所なのです」
その声に振り返ると、一人の女が佇んでいた。色としては茜色に近い赤色の傘を、室内であるにもかかわらず差している女だ。影になって隠れているが、髪は濡羽色で長く伸ばされている。瞳は藤色で、まるで曇りガラスでできた眼球を眼窩に嵌め込んでいるかのように光を映しておらず無感情に見えた。白無垢のように真っ白な着物を着ており、数百年前からタイムスリップしてきたかのような古めかしい印象だ。
仮面を貼り付けたような笑顔のまま、彼女は続けた。
「城島祐。突然ですが、貴方にはここに就職してもらいます」
拒絶も許さない命令的で強制力を持った口調で、彼女は言った。まるで、自分の言っている事に従って当然とでも言うような、ごくごく自然に傲慢なニュアンスを含んだ言葉だ。
「……は?」
しかし、キジマは意図的にそれをスルーして、顔を顰めた。元々から単純に体の不調で険しい顔をしていたが、更に歪めて嫌悪感すら露わにする。
「聞こえなかったのですか?」
「いや、聞こえてたわ。聞こえてた上で意味がわからへんって言ってんねん」
キジマの反抗的な態度にアマベがさっと顔を青くし、イバラが楽しそうににんまりとした笑みを見せる。
未だ名乗りすらしない女は、表情ひとつ変えない。しかし、彼女の背後で確かに何か禍々しいものが渦巻いた。
「う、ぐッ……?」
それと同時に、キジマは苦しげに呻いた。腹の内側、内臓にあった違和感が膨れ上がり、のたうち回られているかのような衝撃の苦痛に変化したのだ。
その痛みは胴体全体にまで及び、突然の衝撃に心臓が悲鳴をあげてキリキリと痛み出す。肺が圧迫されて呼吸が困難になり、酸素を吸う事ができなくなった。
胸を掻き毟りながら、キジマはソファの上にのたうつ。痛みが全身にまで伝播して神経が麻痺してきた気さえして、意識が遠くなったその瞬間。
パン、と手を叩く音と同時に、痛みが霧散した。
「ッは、はぁっ」
唐突に腹の圧迫感が少なくなり、元々の違和感の不調のみに収まる。未だに手足がびりびりと痺れているが、それはあくまで一時的ですぐに消えるだろう。
吸えなかった分を取り戻すように必死に呼吸を繰り返し、アマベに背中を摩られて、そしてようやく症状が治ってくる。イバラが「面倒だから、過呼吸とかやめてよ」と心底嫌そうな顔をして言っていたが、キジマには聞こえなかった。
「わかりました? 貴方の今の立場というものが」
生理的な涙を目尻に滲ませながら、キジマは女を見上げる。首に枷が嵌っているように感じて触れてみるが、細く骨が目立つ首には何もまとわりついていない。ただ、一筋の冷や汗が流れている。
「申し遅れました。わたくしはカラカサ。この事務所の主です」
妖艶で、そのくせ凄絶で、同時に無感情。そんな歪さを内側に隠した笑みを浮かべて、カラカサは恭しく慇懃な礼をした。
それが、ごみこさんの事件の直後の話だ。
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