第8話



 登校時間、まばらに校門をくぐる同じ制服を着た学生達。門が開かれたばかりの時間帯に、教室にいる学生は数少ない。

 神流孝は早々に教室の前まで来て、まだ鍵が空いていない事を見越して職員室から持ってきた鍵で扉を開ける。

 当然ながら、誰もいない。当たり前だ。たった今鍵を開けたばかりなのだから、人がいるはずがない。

 何を落胆しているのだろうか。神流は自嘲しながら自分の席に寄り、机の上にカバンを置いた。ぐるりと視線を巡らせると、一つの机が目に留まる。とある女子生徒の席だが、この教室を使うようになって……つまり、二年生に進級してから、一回もその席の主がそこに座っている所を見たことがない。

 どこか沈痛な気分で肩を落としたその瞬間、がらりと扉が開いて誰から顔を覗かせた。


「神流くん、いる?」


 自分の苗字を呼ばれて、彼は振り返った。開け放たれた扉の縁に手をかけて、額に札のようなものを三枚貼り付けていて顔がほとんど見えなくなっている人間が立っていた。しかし、その制服と体格から、女子生徒である事はわかった。

 髪の毛が特徴的な少女だ。元々は長かったであろう後ろ髪を斜めに切り下ろしたかのような、奇妙なざんばら髪。

 こんな特徴的な少女、自分のクラスにはいなかった。いや、それどころかこの学校の中で一度も見た事がない。

 ……いや、心当たりならば、一人だけいる。


「もしかして、宇呂さん?」


「うん。……ちょっと話があるから来て欲しいんだけど、今いい?」


 躊躇いながらの神流の問いに、しかし彼女はあっけらかんと答えて見せた。

 宇呂瑞恵。

 一年生から二年生の現在まで同じクラスであり、しかし彼女は一年の途中で不登校になったため二人の接点は無いに等しい。

 しかし、彼女の不登校の一因を自分が担っている事を、神流は知っている。

 今まで行事があろうとなかろうとずっと登校なんてしていなかったのに、唐突に現れた彼女に驚きながらも頷くと、彼女は手招きをして廊下の奥に進む。特別教室が集まっている人気のない棟の廊下で止まって、二人は向き合った。


「あの……宇呂さん、おれ……おれ、ずっと謝りたかったんだ」


 項垂れて独白を始める彼を、ミズエは黙って見つめていた。張り付いているお札のせいで、その表情はよく見えない。


「誤解があったって気がついた時には、もう宇呂さんは不登校になってて。どう謝ればいいのか、時間が経つ毎にわかんなくなっていって……」


 変だな、と神流は思う。頭の中で何度も願って、シュミレートしていた光景だ。ずっとずっと望んでいた、頭を下げる機会だ。ミズエと会う事も叶わなかった一年間、ずっと思い描いてきたのに。どう謝ったらいいのか、考えてきたのに。

 言葉が詰まって、まともに喋れなくなる。それがひどくまだるっこしい。


「その、ごめん……!」


 勢い良く頭を下げる。腰を九十度に曲げて、最大級の謝意を込めて。言葉でうまく言い表せられなかったのだから、せめて態度で示そうと。

 罵られる覚悟はしている。殴られたり、償いを要求されたりする事も覚悟の上だ。彼女にはその権利があるし、神流は自分がそれほどの過ちを犯したと考えていた。

 一時、沈黙が流れた。神流が何かを言うべきか迷っていると、瑞恵が口を開く。


「謝るべきなのは、わたしも。お互い様だよ。……ごめんね」


 え、と呆けた声を出して、神流は顔を上げた。ミズエは居心地悪そうに頬を掻いている。


「わたしが学校に行きたくなかったのってね、陰口とかを言われるのが嫌だったって言うのもあるけど、何よりも君に会いたくなかったんだよ」


 神流は目を瞬かせる。

 そんなの、当たり前ではないか。恨みがある人物と顔を合わせたくないと考えるのは当然だろう。

 そう考えた神流の思考を先読みしたかのように、ミズエは続けた。


「わたしはあなたから逃げてた。だって、謝られたくなかったから。謝られて、許したくなかったから。許しちゃったら、何もかもが有耶無耶になって、誰も責められなる。わたしは被害者ではなくなる。わたしは可哀想な被害者でいたいから、謝られたくなくて逃げてたんだよ」


 瑞恵は嗤う。

 ああ、なんて醜悪。なんて悪辣。相手に謝る気はあったのに、自分勝手な理由でそれを拒絶して、彼に無駄な罪悪感を持たせてしまった。


「今再確認したよ。やっぱりきみは『善人』で、わたしは『悪人』だ」


 神流と瑞恵は、どうしようもなく決定的に異なっていたのだ。

 クロカミサマと出会って、そしてそれを我が身に取り込んで、ようやく理解した。

 この世界は数え切れないくらいの事象に溢れていて、何がどう絡み合っているかはわからない。一概にこれが悪だこれが善だと決めつけられる事なんて滅多に無い。

 人々が使っている『善悪』は、物事に間仕切りを作って分かりやすくするだけの、つまりはそれさえ果たせればいい適当なものなのだ。

 だから国が違えば善悪の基準も少しずつ変わっていって、文化、宗教、教育、そして個人の価値観でコロコロ変わる。

 なら、クロカミサマが見ている善悪は一体何なのか。

 簡単だ。

 「ごめんなさい」の一言で解決する問題なんていくらでもある。

 自分が悪いと認識した時、素直に謝れる人間が善人で、それができない人が悪人なのだ。それが人々を善悪の篩にかけるクロカミサマの目線だった。

 もちろん指標は他にもあってそれ一つだけではないのだが、それでも判断基準の一つとしてそれがある事は確かだった。

 ならば、自分の非を認めて頭を下げる彼と、家族にすら謝れなかったミズエでは、どちらが善人でどちらが悪人なのかなんて一目瞭然なのだ。

 これはあくまで、ミズエの解釈だ。つまり、ミズエ自身の考察をクロカミサマに投影しただけかもしれない。

 けれど、ミズエはそれで納得した。だから、間違っていてもいい。


「わたし、学校やめるよ。中退」


「えっ……」


「あ、神流くんのせいじゃないから。どうせ履歴書に書きやすい経歴を作るためだけに進学したんだし、学費の無駄だし、わたしに学校は合わなかったみたいだから」


 それに、こんな身体になったから。

 だからもう、普通の人のようには暮らせない。


「もう勤め先も決まってるし、精々頑張るよ」


 彼女には、学校という施設に何の思い入れも無いようだった。家の近くにあったビルが壊された。それくらいのテンションで、他人事だった。

 じゃあ、とあっさりとした別れの言葉。去ろうとするミズエを、彼は大声を出して引き留める。


「あの!」


 ずっと、言いたかった言葉だ。

 そして、言えなかった言葉だ。

 言う資格が、なかった言葉だ。

 けれど、今なら。彼女に笑って赦された今なら、言える言葉だ。


「よければ……おれと、友達になってくれませんか」


 それを聞いた瞬間、ミズエは少し驚いた顔をして、次にふっと笑った。花が咲き誇るような。開け放たれた窓から吹き込んだ風でお札がひらめいて、その口元が垣間見えた。

 くるり、とミズエは後ろを振り返る。

 彼女は晴れやかに笑った。しがらみから解放されたような、清々した、そんな表情で——


「誰がなるかよ、バァーカ!」


 吐き捨てて、中指を立てて見せたのだった。


 ただ一度きり人を呪えるなら、あなたは誰を呪いますか。


 私は何を呪ったのでしょうか。大嫌いなあの人か。何の感慨もないこの街か。

 はたまた、今までの自分か。

 キョンシーとなった『ミズエ』は、元の人間である『瑞恵』と同一人物なのでしょうか。

 ではないとしたら、わたしは自分自身を呪い殺して新生したのでしょう。


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