第7話


 深夜二時。またの名を、丑三つ時。

 街を支配する夜闇から、一体の怪異が這いずり出た。

 それは人目を避けるかのように明かりのない場所を選んで歩き、しかし迷うことはなく確固たる足取りで目的地へと向かっていく。その青白い脚で歩む一歩一歩を決意、あるいは殺意に浸し研ぎ澄ませていくように。

 それに足音はなかった。代わりに、ずるずると何かが這いずるような音が断続的に続いていた。大量の蛇が地面を這うような。真っ黒な髪が足元まで伸びていて、一つ進む度にコンクリートと擦れ合って不気味な音を鳴らす。

 人気のない閑静な住宅街を抜けて、それはひっそりと佇むビルディングに視線を向けた。もっともそれに目があるのかは定かではないし、あったとしても髪に隠れて視線の行き先は見えないので、見たらしかった、と表現するのが正しいが。

 そこにある、呪いによる繋がりの気配によってそのビルに標的がいる事を確かめて、それはビルに一歩踏み出す。扉は施錠されていたが、人の世の常識が通じない怪異にとってそれを通過する事は容易だった。

 ずるずると這いずる音を立てながら、階段を一歩一歩踏み締めるように登っていく。そこの最上階に登ると、扉の向こうに標的の気配。扉は施錠がされておらず、それが近づくと自然に開く。

 そしてそこで、標的の姿を初めて捉えた。

 ビルは低く、周囲は住宅街。そして現在時刻はほとんどの人間が寝静まっている午後二時。だから、彼女の姿を照らすものは何もない。夜闇に紛れたシルエット。ほんの微かな星と街の光に照らし出されて、かろうじてその存在が認識できる程度だ。

 高所故の風に吹かれて、少女は待ち侘びるようにそれに背を向けて立っていた。斜めに切られたざんばら髪が、髪に揺られて漆黒を泳ぐ。

 それ……俗にクロカミサマと呼ばれる怪異は、長い髪の隙間から三日月のように歪んだ目を覗かせる。

 少女の姿が、明瞭に確認できない。もっと近づいて、そして確認しなければ。あの少女の、善悪を。

 それの判断がついたなら、あとはもう乞われたままに呪いを行使するのみだ。儀式は数時間前に彼女が髪の束を投げ捨てて祈りを捧げた時から済んでいるのだから、早くしなければ。

 儀式は完全に成立している。よほどのイレギュラーが無い限り、もう誰にも止められない。

 そうしてクロカミサマは己の力を行使する。目の前の少女の善悪を、判断するために。

 目の前の少女をゆっくりとこちらを向く。その顔を見て、判別はついた。さて、呪いを行使しよう。

 少女は、気がついていないようだった。背後に、鋭く光るナイフを持った男がいる事に。そしてそのまま、目に止まらぬ速度でナイフは彼女の首に当てがわれ……。


 あるはずのない感情が、ぐらりと揺れるのがわかった。


 一瞬でそこに現れた、正確に言えば出来上がったのは、一つの死体だった。

 噴き出る鮮血は中途半端にしか届かない光のせいで色の判別がつかず、水鉄砲から発射されたただの水のように撒き散らされる。

 喉笛ごと掻き切られたのだろう。掠れた断末魔のような空気の音に喘ぎながら、少女は地面に頽れる。

 頸動脈がバッサリと斬られ、己の鮮血の海に沈む少女。屋上の強い風にザンバラ髪が吹かれて乱れる。衣服は血に塗りつぶされて、完全なシルエットと化していた。

 クロカミサマと呼ばれる怪異は、己の機構が乱れている事を理解した。

 目の前の少女は、クロカミサマに他人の不幸を願って儀式を執り行い、そしてクロカミサマをここに呼び出した張本人。

 そして、善悪を判断して呪いの矛先を決めるための、判断材料だった。

 そんな、名前も知らない少女。

 呼吸音が聞こえない。脈を刻む音も。心臓の拍動も。死んでいる。

 わからない。

 わからないわからないわからない。

 どうすれば良いのだ。死んでしまってはもう呪えない。死者を不幸にする術なんて無い。けれど儀式が行われたからには呪わなければ。

 呪う。

 誰を?

 呪いの対象がいなくなった以上、この矛先は一体何に、誰に向けるべきなのか。

 わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない——


「今です、オドロ!」


 混乱したシステムに割り込んだ声。

 緊迫した様子の、けれども混乱はしていない応答の声。クロカミサマは反応を示さない。

 目の前に誰かが割り込んで、そしてクロカミサマは後ろに突き飛ばされる。

 それが少女の首を掻き切り、彼女を殺した者なのだとクロカミサマは理解していたが、それを理解していたところで何もしなかった。

 クロカミサマは先ほど登ってきたばかりの階段に突き飛ばされて真っ逆さまに落ちていく。

 街の明かりが僅かに差し込む廊下の中で、自分の落下地点に己を見た。

 いや、正確には鏡に映る己を見たのだ。

 黒く長く伸びた黒髪に、青白い体。それはおおよそ人間とは思えないような威容。

 それを写していたのは全身鏡だった。背や枠が毒々しい紫色に塗りたくられた。逆に言えばそれ以外は何の変哲もない姿見だった。

 ぶつかる。それを理解したが、クロカミサマは受け身などとらないし、そのまま鏡にぶつかってその鏡面を割り、地面に無様に転がるものなのだと思った。

 しかし、そうとはならなかった。鏡に突っ込んだクロカミサマだが、その衝撃は鏡面に罅を入れなかった。まるで水面のように、水鏡のように波紋を呼んでさざめき、そしてクロカミサマの体を飲み込んだのだ。

 落ちた勢いのまま半身が鏡に沈んだところで、更に強く引っ張られる感触がした。

 誰かの白魚の手に強く強く掴まれて、そのまま沼の底に引き摺り込まれるような。

 視界に映ったのは、人間の腕。和服に包まれた、日光なんて浴びた事がないような白い肌の。

 とぷん、と水の中に沈むように鏡の中に引き摺り込まれて、やがて何もいなくなる。

 鏡の前にいたクロカミサマ。鏡の中にいた腕。その一切は古びたビルの内装を映す鏡の中に引き込まれていった。


「……あとは任せたぞ、ユカリ」




 オドロは、クロカミサマの動きを確実に止めるために瑞恵を殺した。

 もちろん、ただただ無為に殺したのではなく、しっかりと生き返らせる算段を立ててから殺したのだ。

 クロカミサマとは、簡単に言ってしまえば善人の願いを叶え悪人には厄を与える機構だ。善悪の判断はおそらくクロカミサマ自身が独自の価値観により判断を下しており、それに則って最終的な呪いの方向を決めている。つまりクロカミサマは、神と言うより一種のシステム、それ自身が呪いの一部と言った方が近い存在だ。

 善悪の価値観は誰にも明かされておらずわからないが、呪いの行使者が悪人だと判断されて他人にかけるはずの災厄が帰ってくる可能性は十二分にある。もちろん、瑞恵も例に漏れない。

 そこで重要なのは、『瑞恵がどちらだと判断されるか』だった。

 善人だと判断されたなら話は簡単だ。呪いが通常通りに働いて被呪者が神流孝となる。けれど、悪人だと判断された場合。

 その場合、瑞恵は呪われる。正確には、呪われなければならない。

 瑞恵が髪を空に投げた時点で儀式は成立しており、それを撤回するのは難しい。ならば、瑞恵の依頼のためには儀式を一度破壊する必要がある。そのため、そこにある穴を突かねばならないのだ。

 この作戦の賭けの要素はまさにそれだった。

 即ち、瑞恵が悪と判断される事。

 それこそが、全ての瓦解の鍵だったのだ。




 鏡の世界。

 様々な場所、様々な時間の世界が混じり合い、宙を浮かぶガラスの破片に乱反射して万華鏡のように幾何学的な光景を作り上げる。そこに光はないのに光が満ちていて、しかし同時に闇にも満ちている。相反した性質が同居する不思議な空間。水が油と混ざり合ったって何の不思議もない場所。そこがこの空間だった。

 そこで、目の前の存在に向かってユカリは艶然と微笑む。


「初めまして、クロカミサマ」


 藤色の羽織の袖をひらめかせて、舞踏のような軽やかさでユカリは立ち上がる。

 安アパートの一室のように狭いようで、無限に続いているようにも思える空間で。バベルの塔から見上げた太陽のように眩しくも、蓋が閉じられた箱の中のように暗くもある空間で。

 上下の感覚も完全に狂い、地に足をつけているようにも無限に奈落を落ち続けているようにも無重力空間にいるように浮かんでいるようにも思える。

 あらゆる物理法則から解放された空間は、人の世界に慣れた身としてはひたすらに奇妙なものだった。クロカミサマは首を傾げるような動きを見せる。

 ユカリはこの珍妙な場所に慣れきっているようで、なんてこともないように存在が定かではない地面の上でひらひらと舞い踊っていた。まるで神に捧ぐ舞踏のように、美しく。


「単刀直入に訊きます。貴方は瑞恵さんをどうするおつもりですか?」


 ユカリは首を傾げながら、穏やかに笑って見せる。怪異に向かって愛想を良くする必要はないのだが、しかし対話に笑顔は不可欠であると考えているユカリはその柔和な笑みを決して消さない。

 そんなユカリとは対照的に、クロカミサマはフリーズでもしているかのように突っ立って応答を返さなかった。


「……クロカミサマ?」


 ユカリが再度問うと、黒髪の紗に隠された口が動いた。


 ——私は、悪がいない世界を作りたいだけだ。


 その奇妙な声は、不思議と空気の震えとしてではなく脳内に直接響く声としてユカリに届いた。しかしユカリは特に動じた様子はなく、その答えを予想していたかのように一つ頷いた。


「なるほど、大変効率的ですね。自分自身を釣り餌として、真に助けを求める者を助け、神の権威や呪いを悪用しようとする者にはそれ相応の報いを与える」


 正しきを助け、悪しきを倒す。弱きを助け、強きを挫く。

 典型的な英雄的思考。あまりに安易な勧善懲悪。


「……下らない、義賊ですね」


 ひどく冷めきった声音で、ユカリは言い捨てた。その一瞬は彼のかんばせから笑顔が落剥し、全く色のない無表情を見せる。

 声はワントーン低くなって、嫌悪感こそ含まれてはいないものの、好意的な感情の一切が消え失せていた。


 ——違う。


 反射的に、クロカミサマは否定した。靄がかってノイズが走る頭でも、その否定の言葉は明瞭に出てきた。

 しかしユカリは、いいえと一言でそれを否定する。


「貴方は義賊ですよ。正義を振り翳そうと、術者との契約関係という体のいい皮を被ろうと、そこは変わりません」


 ——何故だ。呪いの使用者には、儀式を行うか行わないかの選択肢があった。私はその選択を尊重したまでだ。


「確かに、選択したのはあの子本人です。しかし、そもそも怪異がこの世に存在しなければ……クロカミサマ、貴方がこの世にいなければ、あの子が呪いに手を出す可能性はなくなっていたかもしれませんよ」


 ——自由?


 ——自由というのなら、私が人を呪うことだって自由ではないか。


 ——人は自由に私を利用し、私は人を自由に呪う。


 ——利害は一致している。


 ——それでも……お前は私が間違っていると言うのか。


「ええ、もちろん。他の権利を侵害する自由は自由ではなく他への抑圧です。そして、抑圧を、圧政を一度覚えて仕舞えば、次は縛ることに拘るようになる。縛ることに縛られるようになるのです。果たしてそれは、本当に自由ですか?」


 ユカリは表情に笑みを戻し、そしてそれを崩さないままはっきりと言い切った。

 最も簡単に自分の発言を否定されたクロカミサマは、一瞬たじろぐ。ほんの少しだけ逡巡を見せ、それでも尚諦めを見せずに反駁した。


 ——私は不自由などではない。


 ——今までの行いは全て人々の自由な意思選択によって生まれたもの。


 ——それを否定する事は、今まで私に希った者達への冒涜だ。


「……もしかして、自覚していないのですか?」


 ユカリがきょとんとした表情を浮かべた。

 その顔が、声が、唐突に凄絶に冷えて、内腑から怖気が走るような低い声へと変貌した。暑いとも寒いとも適温とも言えない空間の温度が、冷蔵庫の中のように唐突に冷え切る。

 そのような錯覚に囚われてしまうくらい、ユカリは雰囲気を一気に塗り替えたのだ。

 ユカリはクロカミサマを睥睨した。睨め付けた。侮蔑と、悪意と、隔意が隠す気もなく滲み出た目を向けた。


「ならば、今この場所で理解なさい。請われるままに何百何千もの人々を呪い不幸に陥れた貴方自身も、度し難いほどに醜悪な悪人であると!」


 ぴしり、と何かが罅割れるような音がした。


「悪人が大義名分の元に行使する善行ほど、滑稽で歪んだものはない。貴方は自覚していないのです、それは善行ではなく罪の上塗りであると」


 亀裂が広がっていって、しかしそれは蜘蛛の巣のような紋様を描かずにクロカミサマの周囲を取り巻く。

 罅が描くのは、呪符に描かれるような文字と柄。

 それが紛れもない封印の札の紋様だと気がついた頃には、時は既に遅く。


「哀れなものですね。そうやって自由を銘うつ物ほど、得体の知れないものに縛られてゆく」


 鏡の中で封じられたクロカミサマが最後に見たのは、侮蔑を含んだ冷笑を零すユカリの妖艶な唇だった。




「……オドロ、終わりましたよ」


 暗闇の中で鏡を見守っていたオドロが呼ばれて立ち上がる。


「ほら、受け取ってください」


 ユカリが鏡に触れた。手はそこで壁に行き当たったかのように止まるが、触れ合った面が波紋のようにさざめいて紋様が浮かび上がった。朧げな光が徐々に形を得て、そしてクロカミサマを封印した紋へと変化する。

 完全な変貌を遂げた札となってはらりと鏡面から落ちて、オドロはそれを危なげなく受け止めた。


「確かに。……しっかし、本当に酔狂な女だな、瑞恵は。正気を疑うぜ」


 オドロは掌でお札を弄びながら呟く。

 瑞恵からの依頼の内容は、こうだった。


『わたしに襲い来る呪いを、わたしのものにはできませんか?』


 呪術に全く関わりの無い少女に呪いを宿らせ、かつ苦痛なく、その自我を保たせるというのは決して簡単な事では無い。

 頻繁に幽霊をその身に憑依させているコトブキも、元々の家系が衰退はしているものの呪術に携わっていた家系で、かつ憑依時にデメリットを背負っているから、それとホシという幽霊の異常性によってその奇跡的なバランスで成り立っているだけだ。あれと同じ芸当を一般人が真似しようものなら、霊障で体を壊すか、最悪霊に体を乗っ取られてお陀仏だろう。

 さらに言ってしまえば、クロカミサマという存在自体の要素が不確定で未知数なのだ。それを「わたしのものに」と言われても、危険が過ぎる。

 そもそも、生と死は本来交わらないものだ。怪異という存在と頻繁に関わっているオドロ達が異常なだけなのだ。怪異であるクロカミサマと今を生きる人間である瑞恵を混ざり合わせるのは、危険が過ぎる行為だった。

 だから、瑞恵の存在を怪異と一歩でも近づける。つまり、死者にするのだ。

 彼女を死者にして、そしてキョンシーの要領でクロカミサマの力を宿らせる。魂は魂と魄に分かれ、体を動かす魄を法術により死体に宿らせるのがキョンシーなのだが、今回は少し違う。瑞恵の魂も魄も両方宿らせ、さらにはそこにクロカミサマすら宿らせる。

 これならば瑞恵の蘇生も一応できるし、クロカミサマの封印を瑞恵の体を介するためより強固なものにできる。力がうまく使いこなせれば、瑞恵もクロカミサマの能力を行使できるだろう。まさに一石二鳥だ。

 ……だからと言って、その行為にデメリットが無いとは言っていないのだが。


「じゃあ瑞恵復活させるぞ」


「見守ってます。何か失敗があれば此方に放り込んでください」


「縁起でも無い事言うなよ……。初めて人を殺して、結構ショック受けてるんだぞ。それに俺、元々キリシタンの家だから呪術と関係全く無いんだし」


「家の話は置いておいて……ショックを受けてる、ってのは嘘でしょう? 殺したのは初めてでも、死体は慣れてるのでしょう、墓守さん」


「まぁな……無駄話はそれくらいにしよう」


 二人は顔を見合わせてふっと笑うと、床に転がる瑞恵の死体に目をやった。首をバッサリと切られた死体は、血まみれであるという大き過ぎる一点を除けば、結構綺麗な死体だ。

 オドロはそれに向かって札を掲げ、そして儀式を始めた。

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