第13話


 全速力で走った事など、随分と久しぶりだった。何せ、高校一年生の頃に体力測定で走った程度だ。二年生になってからは不登校で引きこもり生活だったので、そもそもの話運動不足なのだ。

 それが例え、自分よりも大柄な男性に引っ張られていたとしても、同じ事だ。


「はーっ、はーっ、げほッ……」


「ふーっ……」


 息を切らして呼吸困難になってすらいるミズエに対して、オドロは多少は息を切らしているものの咳などはしていない。それよりも戦闘のせいで精神的な疲弊が著しいのだろう、顔色が僅かに青かった。


「だいじょーぶですか……オドロさん……」


 息も絶え絶えになりながらなんとか問うと、オドロはその月白の瞳でミズエを鋭く睨んだ。


「お前……」


「っ、なんですか?」


 その気迫に気押されそうになりながらも、ミズエは何とか平常通りに返す。それに、オドロは更に苦々しい表情で舌打ちをした。


「……」


 オドロは口を引き結びながら、ミズエの左腕を引っ張った。傷口が引き攣れて、見るからに痛そうだ。そんな他人事のような事を、ミズエは考えていた。オドロは、まるでその傷を自分が受けているかのような痛々しい表情をしている。


「……お前、なんで痛がらない?」


 オドロは一層強く腕を握ってくるが、しかし何も感じない。

 触覚はあるのだ。握られているというのも、何となくわかる。

 しかし、痛いという感覚だけがすっぽりと抜け落ちていた。それは勿論、肩の傷も同様だ。肉も血管も神経も引き裂かれて血も夥しく流れているというのに、自分でも奇妙なくらいに痛くなかった。

 傷口は僅かに熱を持っている気がするが、それで痛いわけではない。動かしづらくはあるが、腕は動く。通常ならば痛すぎて動かすどころか声もあげられなかっただろう。


「……いつからだ?」


 問題は、いつからそうなってしまっているのかだ。もしかしたら、ごみこさんやキジマの影響かもしれない。


「……正確にはわからないですけど、今日の午前中から既に……」


 事務所で、プリントで指先を切ってしまった。すぐに止血してあとは気にしていなかったが、あの時から既に痛覚はなかったのだ。その時は気のせいかと思ったのだが、今思うと奇妙この上ない。紙で切った傷口はひりつくような痛みが必ずあるというのに。


「キョンシー化か、クロカミサマの影響か……」


 キョンシーとは基本的に動く屍なので、自意識というものが存在しない。だからキョンシーが痛覚を持っているかはわからない。ミズエのような状態は先例が皆無なのだ。

 もう一つの可能性はミズエに宿ったクロカミサマの影響だが、これもやはり前例が無い事なのでわからない。

 結果、オドロにはわからない。博識なユカリならばわかったかもしれないが、少なくともオドロには手に負えなかった。

 それに、原因がわかったとしてどうなるというのだ。事件はここに起こってしまった。今更知ったところでどうにもならないし、ここでどうこうできるものでもない。


「くっそ、とりあえず手当するぞ!」


 オドロはそう言いながらカソックの上に羽織っていたカズラを脱ぎ、その裾を乱暴に引き千切る。神父服は頑丈な布地で作られているが、噛みついて糸を千切り穴を開けてそこから裂いていた。


「……手当、できるんですか?」


「悪い、俺は医療の知識は浅いんだ。精々止血程度だ」


 真っ黒な神父服の布をミズエの肩の傷に押し当てると、じわじわと鮮血の色に染まっていく。こんなにも自分の体から血が溢れていることに、ミズエはぞっとした。さらに紫色のストラを巻いて固定された傷は、やはり強く締め付けられても全く傷まない。


「……こんなに派手に斬られてるなら、多分縫った方が良いんだろうが……俺は裁縫ができない」


 オドロは針に糸を通して玉結びすることすら苦戦するほど裁縫が不得手である。傷口の縫合なんて以ての外だ。


「仕方ない……カリヤを呼ぶか」


「カリヤって、確かもう一人の……」


「そう、もう一人のメンバー」


 事務所の隣で人形店を営んでいるという、まだ見ぬもう一人。


「あいつはまあ、医療班だ。こんな傷だしごみこさんもまだ退治できてない、まだここに滞在することになる。カリヤには来てもらうしか無いだろうな」


 布を巻きつけて固定しながら、オドロは説明を続けた。


「よし、これでひとまず終わりだ。動けるか?」


「はい。大丈夫」


 手当てはしたが、鎮痛剤を使った訳ではない。本来ならば断罪的に痛みが襲ってきているのだろうが眉一つ歪めないミズエに、オドロは痛ましげに苦々しい顔をした。


「……ホテルに行くぞ。行きに何か上着を買って、その傷隠して。……安全な場所に着いたら、すぐに電話するから」


 オドロがミズエの背に手を回したのは、せめてもの慰めと気休めなのであろう。

 痛覚が一切無いからか、ミズエはずっと飄々としている。本当に、他人事のような感覚だった。オドロばかりが一方的に気にしていて、自分の方がおかしいのはわかっているのだが、大袈裟だな、と思ってしまった。純粋な善意と配慮を無碍にはしたくはなかったので、口は閉じたが。

 何も言う気になれないし何を言うべきかもわからないオドロと、何を言うつもりもないし何を言うべきかもわからないミズエ。必然的に訪れた沈黙と静寂は、下山して電波が通る場所に着くまで続いた。

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