第12話

キジマ。そう名乗ったの、奇妙な出立ちの男だった。男と言ってもそれは声の質と体格から判断しているだけで、実際は判然としない。

 顔には包帯がぐるぐると巻きつけられており、僅かに朱殷が滲んでいる。口元だけが露出しており、友好的に見える笑みを形作っているものの、どこか作ったような表情だ。

 ロングコートの裾をはためかせて、男は微笑む。その手には剣のような鞭のような道具が握られていた。

 形は剣に近いのだが、その持ち手は鞭のグリップのような形だ。すらりと金属の輝きが伸びており、しかしそれは硬度を持たずにくにゃりと途中で曲がっている。先ほどシャベルと衝突したのは、あの柔らかな金属の部分がしなってぶつかったのだろう。オドロは、その武器の名称を知っている。


「ウルミ、だったか……」


「よぉ知っとりますなぁ」


 関西の訛りで、キジマはせせら笑った。

 ウルミとは、金属を薄く延ばして剣にした、鞭のようにしなる武器だ。軽く変幻自在なそれは振り回すだけで空気の助力を受けて鎌鼬のように人を切り裂く。その分だけ扱いも難しく自傷してしまう確率も高いのだが、目の前の男はそれを恐怖している様子は全くない。それだけ武器の扱いに自信があるのか、それとも傷を受けても問題ないのか。


「んで、おれの要求、呑んでいただけまっか?」


 キジマは軽く首を傾げて問う。ウルミの刃渡を掌に乗せてペチペチと叩いているが、何とも危なっかしい仕草だ。下手したら掌の皮膚が傷だらけになってしまうと言うのに。

 オドロはミズエに「そのまま抑えてろ」と命令すると、キジマに対して挑戦的な笑みを見せつけた。


「呑むかよ、ばーか」


「……さいでっか。ほんまに残念やわぁ」


 キジマは言いながら肩を落とし、顔は見えないもののあからさまに落胆する。しかし、その掌は強く得物を握り込んでいる。それは、明らかな害意だ。


「キジマ、と言ったか」


「そやで」


「……何が目的だ?」

「お仲間さんを助けたいゆう事は、おかしい事やあらへんやろ」


 幼なげに見える仕草で、キジマは首を傾げた。しかし空気は未だ張り詰めていて、一触即発である。


「『仲間』ってのは、お前が怪異だという事か?」


「そうなんちゃう?」


 自分の事だというのに興味が欠片もなさそうに、キジマは答えた。見え透いた嘘を、とオドロは苛立ちを露わにする。


「嘘を吐け。お前からは怪異の気配はしない……お前は人間だろ」


「あぁ、そうなん? 知らんかったわ、教えてくれてありがとうなぁ」


 キジマは薄い微笑みのまま、飄々と言った。本当に、初めて知ったかのような口ぶりだった。

 目の前から放たれる気配は、確かに生きている人間のものだとオドロは断言できる。伊達に地獄の門など持っていない、その程度の見分けはつくのだ。


「ふざけてんのか」


「ちょけてへんよ? 怪異だとか人間だとか、そんなの関係あらへんもん。おれはそこのお姉さんを助けたいだけやし、そのためにはあんたさんが邪魔。それだけやん」


「お姉さん……? ミズエの事か? ごみこさんの事か?」


「あの怪異のお姉さん……いや、どっちも人間やあらへんのか? いや、片方人間っぽい……? えっとな、そこの半分腐ってもうてる方のお姉さん。おれが助けたいのはそっちやで」


 半分腐っているお姉さん、つまり、ごみこさんの事だ。ミズエは髪を使ってごみこさんを抑え込んでいる。髪の毛を手足のように操っている姿は只人には見えないだろうが、キジマは彼女を人間と判断した。その上で、ごみこさんの方に助力を申し込んでいるのだ。

 とは言っても、彼女に人語が通じるとも最初から思っていないようだ。一方的な救済を、彼は成そうとしているのだろう。


「助ける、だと……?」


「そ、助ける。何もおかしい事やあれへん。無念のままに死んでもうた魂を救済するっちゅうのは許されざる事ちゃうやろ、神父さま」


 オドロは口を噤んだ。

 魂の救済。それはつまるところ、オドロがしている事と相似している。オドロは罪ある怪異と化した魂を地獄に落とす事であるべき輪廻に戻すことで救済を行なっているのだ。ならば、キジマは何を以てして救済をしようと言うのか。

 それを問うと、キジマは滞りなく答えた。


「無念をなくしたるんや。未練なくあの世へ行かせる。この世に留まり続ける想いを尊重し、その目的を叶えさせたる。それがおれの救済や」


 オドロは首を傾げた。


「それが、今お前が俺の邪魔をする事とどう繋がるんだ」


「だって、あんたさん、あのお姉さんの想いを叶えるの邪魔する気やろ?」


 包帯の奥の瞳が、ごみこさんを見た。慈愛と同情の、怪異を見るには柔らかすぎる感情が含まれた瞳だ。


「問答無用で地獄に叩き落とす事だけが正義やとおれは思われへん。勿論無関係の人を巻き込んだのは悪い事で、罪は償うべきやと思う。けどそれは別にして、あのお姉さんをあんなんにしてしもうた人にもやっぱり罰が必要や」


 そこでようやく、キジマの目的が見えてきた。オドロは密かに唇を噛む。


「……お前は、あの怪異に復讐を遂行させる気か」


 ごみこさんは、自分がバラバラ死体にされ捨てられたその怨念から具現化し徘徊する怨霊だ。

 それはつまり、自分がされた行いを他人にも行なっているという事。対象に見境があったならば、それは復讐と言う行為に該当する。

 逆に言えば、復讐を核とする怨霊はそれが達成されたならばこの世に留まる意義をなくし、その魂はあの世へ向かうだろう。


「あのお姉さんは苦しんどる。理不尽を嘆いとる。恨み辛みを吐き出しとる。……それを解消させてやらんで、何が救済や」


 キジマはそう吐き捨てた。一瞬、確かにと納得してしまいかけた己を律して、オドロは叫ぶ。


「それはただ被害者を増やすだけの行為だ」


「言ったやろ、おれも別に無辜の人を死なせたい訳やない。ここで暴れてるあの人とりあえず止めて、それからあんなんにした人突き出せばええ」


 それは、あまりに美しすぎる理想論。

 しかし、世の中はそううまくは行かないものなのだ。


「その犯人が既に死んでいたら? 豚箱に入っていたら? そうだったらあの怪異は出来もしない復讐を追い続けるぞ。……それが苦しみを引き延ばす行為だと、理解できないのか?」


 包帯で見えないが、キジマが眉を顰める気配を感じた。追い討ちをかけるようにオドロは言う。


「さっきから想いがなんだと言ってるが、本当にあれの想いを尊重すると言うのなら地獄に落としてやって罪を償わせるべきだ。これ以上罪の上塗りを重ねる前に!」


 地獄がどんな場所か、オドロは体験した事はない。

 しかし、見た事はある。

 人々の魂が蠢き、哭き、泣き、絶叫し、救いを求めて手をひたすらに伸ばす。魂の救済を渇望して、見えもしない神の姿に追い縋る。

 そんな悍ましい場所だと、オドロは知っている。

 だから、そんな場所に留まる時間を少しでも少なくしてやる事が、オドロにとっての救いである。

 これ以上、ごみこさんに誰も殺させない。それは復讐という、誰かを殺す事を目的とするキジマとは真っ向から対立する考え方だった。

 もはや二人は相容れない。オドロはシャベルを構え、キジマは一層強くグリップを握り込む。

 先に動いたのは、オドロだった。剣を振り回すのなら間合いの内側に入り込んで仕舞えばいいと考えて、キジマの元へ真っ直ぐに全力疾走。その意図を瞬時に汲み取って、キジマは剣を手繰った。

 太く、遠心力で勢いが増した刃がオドロの眼前に迫る。ぎゃり、と金属が擦れ合う音と共に、火花が微かに散っていた。シャベルでなんとか受け止めるも、その勢いに押されてオドロは後退する。


「くっそ、なんでそんなん扱えるんだよ……!」


 そもそも、何故あんなものが現代日本に存在するのかという点からして不思議でならない。一番可能性が高そうなのは海外の武器商人から仕入れた可能性だが、ならばキジマは一体どんな立場だと言うのだろう。彼がここにいるのは独断行動だろうに、そんな武器を手に入れられる立場にいると言うのだろうか。

 考えかけている間に、今度はキジマからオドロに襲いかかる。ウルミを振り下ろし、オドロの体を切り裂こうと。

 シャベルで剣の勢いを削ぐと同時にその鋒の方向をずらし、剣はぐにゃりと曲がったまま地面に叩きつけられた。そこを好機と捉え、オドロは右足で剣背を踏みつけて押さえつける。全体重をかけているのだ、すぐには取り戻せまい。

 動けなくなったキジマの頭に、オドロは容赦なくシャベルを叩きつけようとした。殺す気はなかったので、土どめや刃先ではなく面でだが。

 確実に昏倒させるため、大きく振り上げた。しかし、その予備動作が致命的な隙となる。

 キジマは地面に伏せて、獣のように態勢を低くする。そしてオドロの体重がかかっていない方の足、剣を押さえつけていない左足に足払いをかけた。


「うおっ⁉︎」


 オドロは振り上げていたシャベルを地面に突き立てて何とかバランスを取る。しかし不安定な態勢になった事には変わりなく、それをキジマは決して見逃さない。

 キジマは素早く態勢を立て直して、そしてオドロのシャベルを斜めから踏み抜いた。

 オドロのシャベルは、空港で検査に引っ掛からないように非金属のカーボン樹脂で、さらには折り畳みの物品だ。

 つまり、その折り畳みの接合部分は、どうしても強度が弱くなる。

 己の武器を踏まれた意趣返しのように、キジマは全体重をシャベルにかけて。

 結果、オドロの武器は、実に呆気なく半分に割れた。

 オドロは絶句し、声も出せない。支えを失ったことにより、地面に手をついた。そしてその顔に、キジマはウルミを突きつけ、ようとする。

 オドロは体を横に転がし、キジマから距離を取った。ウルミの間合いから一気に離れて、頬に伝う冷や汗を乱雑に袖で拭った。

 そして、己の武器は折れてしまってもう使い物にならないと言うのに、オドロは笑った。手負いの獣のような、しかし生存競争の熱に浮かされた獅子のような、獰猛で凶暴な笑みだった。


「やっぱりな」


「何がや?」


 追い詰められている状況で浮かべた笑みに、さしものキジマも不気味に感じたのだろう。常に携えている笑みを僅かに引き攣らせながら、彼は問うた。


「お前、俺を殺す気ないだろ」


 キジマは微笑んだままだ。しかし、彼は是とも否とも言わない。沈黙は、それ即ち肯定だ。


「そのウルミ、大分雑な作りだなあ」


 キジマが手にしているウルミは、薄い金属にゴム製のグリップが取り付けられた剣だ。しかし、それがまずおかしい。刃部分に対して持ち手が安っぽいのだ。よくよく見れば、金属板にグリップを取り付けた、つまり手作り感が垣間見える。

 どうやってウルミなんて手に入れたのか、という疑問も解消された。彼は、手作りしたのだ。それゆえに多少粗末な部分もあるのだろう。材料は、今時ホームセンターでも揃うものだ。ネットショッピングも充実している現代、いくらでも手に入れられる。

 そして、もう一つの奇妙な点。刃が突きつけられた時に初めて気がついたが、キジマのウルミには刃がないのだ。

 刃物というのは基本的に研がれている。だというのに、あのウルミは研がれていない。ありのままの金属板のままだ。

 元々の薄さが薄さなので、勢いをつければ肉を斬る程度ならできるだろう。しかしそのまま肌に押し当てた程度では絶対に斬れない。どちらかといえば鈍器のような扱いに近くなるだろうが、それにしては重量がないのでまともにその働きは果たせないだろう。

 そんなもので、どうやってオドロという人間を殺そうと言うのか。

 挑発的に嗤うと、キジマは僅かに嘆息した。


「そうやなぁ。そうやで、おれ、人を殺すつもりあらへんねん。もちろんあんたさんを殺すつもりもなぁ」


 キジマは俯く。「こんなん持っといてなんなんやけどな」と呟きながら。

 不可解そうに眉を歪めているオドロを見て、キジマは飄然としながら付け加える。


「だって、おれは人の気持ちを踏み躙る奴が大嫌いで、その被害者を助けたい思うてるだけやもん。おれが加害者になってどうすんねん。そりゃ、邪魔ぁするなら多少……ちょーっとは拳で対抗するけど? けど殺したい訳じゃ絶対にあらへんよ」


 キジマは、自分なりの正義を執行しているだけで。

 そしてその倫理観が、常人に限りなく近いのだろう。人を殺すのは罪である、という意識を正しく保った上で、己の願いを叶えようとしている。


「殺す覚悟がないなら、最初っからこんな事すんなよ」


「手厳しいなぁ。けど『殺したくない』と『目的のためには手段を選ばない』は両立するんやで? おれはあんたさんがおれを殺す気でいるなら殺す。その程度の覚悟はしてきとるつもりや」


 キジマはウルミをオドロに向けた。

 殺意ではない。しかし、害意ではある。

 敵意ではない。しかし、不和はある。

 だから、キジマは武器を振る。

 オドロが思考に耽り始めたその一瞬の隙を突いて、キジマはオドロの懐に入り込む。一気に間合いの内側まで入り込まれてシャベルを振る事もできない。いくら半ばから折れて短くなっていても、距離が近すぎるのだ。

 なのでオドロは一歩後ろに下がり、キジマを間合いに入れる。その横腹にシャベルを叩き込もうとしたが、キジマも一歩下がることにより避けた。

 キジマは振り抜いた後のシャベルを蹴り付けて、オドロのバランスを崩す。それなりの勢いでシャベルを振っていたのに加えてそれをされたものだから、前につんのめった。

 そこを狙って、オドロの肩目掛けてキジマがウルミを振り上げた。しかし、その途中でウルミを回して持ち替え、刃ではなく持ち手、グリップが下にきてオドロに当たるようになる。

 やはりどこまでも、キジマはオドロを殺す気はないのだ。そのままの勢いでウルミの刃が叩きつけられたなら、いくら刃物の体を成していないとはいえ肉は切れる。場合によっては、神経にダメージがいくかもしれない。そんな可能性を憂慮しての手加減。また、頭を狙っていないのも手加減だろう。頭を殴りつけたなら、場合によっては脳震盪で死ぬから。

 がつん、と肩に衝撃が走った。どこも切れていないのに、肩が真っ二つに割れたかのような錯覚を抱く。


「いッ……!」


 悲鳴を噛み殺しながら、オドロは月白の瞳でキジマを見上げ、睨みつける。

 体勢を低くし、シャベルの面でキジマの腹部を殴りつけた。柔らかな腹に走った、内臓をシェイクされるかのような衝撃に、キジマは肺腑から息を絞り出す。


「っ、ふ……」


 苦しげな吐息を吐き出しながら、キジマは腹を抑えて後ずさった。そこに追撃を畳み掛ける。

 キジマの頭目掛けて、シャベルを振り下ろす。そこには一片の躊躇もない。ただただ、己の目的のために邪魔な障壁を突破する挑戦者の瞳だ。

 先ほどとは全く逆の体勢で、キジマはオドロを見上げる。そして、振り下ろされるシャベルを視認し、反射的に横に動いて胸を逸らした。

 胸部をシャベルの刃が掠める。勢いよく下されたそれはキジマに当たることはなく、アスファルトの地面を叩きつけて轟音をトンネルに反響させた。

 今度は、隙ができたのはオドロの方だ。シャベルを振り落とした体勢のまま、カーボンとはいえシャベルという道具を地面に叩きつけたのだから、その反動で腕が痺れる。加えて、シャベルを両手で持っていたから両手共に使えない時間が一瞬でも生まれたのだ。

 キジマはその隙を見計らい、痛む腹を一瞬無視してウルミをオドロに向けて刺すように向けた。ウルミは刃がしなるので、刺したとて本物のナイフほどの殺傷力は持たない。しかし、腹部は骨がなく柔らかい部分なので多少の傷を与える程度の事はするだろう。

 少なくとも、現在キジマが腹に負っている程度の衝撃にはなるだろう、という目論見だ。

 突き出されるそれを見て、オドロは咄嗟にシャベルから手を離し、手を突き出してキジマの右肘の内側を掴んだ。ナイフを持つ人間に対して使える護身術だ。キジマのウルミを持っていた右腕を固定し、無力化を図った。

 キジマは一瞬体を硬直させるが、すぐにまた動いた。空いている左手をオドロの首に向かって突き出し、そしてそれを掴み返されて取っ組み合いにもつれ合う。

 両者共に体躯や筋肉量ははほとんど同じだ。強いて言うなら、キジマの方が小柄だった。しかし、キジマの方が力の入れ方に無駄がない。じりじりとオドロを押していき、とうとうオドロの腕を振り払ってウルミを突きつけた。

 対するオドロはシャベルを地面に落としてしまっているため、それを防ぐ術は持たない。更にはシャベルを踏みつけられ、しゃがんで手に取るなどもできなくなった。


「チェックメイト言うんやっけ、こういうの。大人しく帰ってぇな」


 呑気な口調で、キジマは言った。その口元には、感情の読めない薄い笑みが浮かんでいる。余裕のようにも、それが彼の常であるようにも見える。

 オドロも負けじと、好戦的な、同時に余裕ありげな笑みを見せつけた。


「帰る訳ねぇだろ」


 例え、この首を掻き切られても。

 今死のうとこの先の未来で死のうと、オドロにとっては同じ事だ。


「……わからへんなぁ。もしかして神父さん、それが神のご意志だとでも言うんか?」


「俺は博愛のキリスト教徒なんでね。全ての人を愛するし、全ての人の罪が雪がれるように尽力するのさ」


 それがオドロの、棘莎凪のポリシーだ。

 愛する人類のため。愛する人間のため。そのために、彼は行動する。


「思想が相容れない以上、お前は俺の敵だ」


 目の前の男も、愛すべき人間である事には違いないけれど。

 けれど、オドロはオドロが主張するの救いのためにキジマを倒さねばならない。

 そう叫ぶ彼に、キジマは首を傾げた。ひたすらに無垢で、裏表のない率直な、子供が吐き出したかのような問い。だからこそそれは、オドロの心に突き刺さる。


「……? 全てを愛する事は、全てを愛していない事と同義やろ」


「……は」


 オドロが、凍りついた。その言葉は氷刃のようにオドロを切り裂き、地面に縫い付けている。

 愛していない。なら、自分の信仰は一体なんだと言うのだ。

 愛していたい。愛さなければならない。愛す事が、神の教え。

 この世に世を受けてからずっと、今まで行なっていたそれが偽りだと、不完全だと断ぜられて、オドロは思考がストップした。

 手の中のリンフォンが急激に収縮し、元の正二十面体に戻っていく。オドロの眼は見開かれ、瞬きすらしない。

 その隙を見て、キジマが動いた。地面を強く踏み込んで、人外じみた勢いでの突貫。手に持ったウルミを、オドロの胴体に向けて振り抜いた。ほんの少し、浅く斬るつもりで振ったものだ。

 キジマの誤算があったとすれば。

 それは、完全に戦力外であろうと思っていた女が、オドロを庇おうと目の前に躍り出る事を予想していなかった事だろう。

 振り下ろされるウルミとオドロの間に体を割り込ませたミズエは、頭をわずかに傾げて、側頭部に抉り込むかのように振られた武器を逸らし、己の肩にめり込ませる。

 ずりゅ、と異音がした。それが肉が断裂する音だと、ミズエははじめ認識できなかった。肉の繊維と神経が露出し、血管もから血が噴き出た。


「っ、ミズエ……!」


 その音に正気に戻ったオドロが、ミズエの肩を掴んで引き寄せて後退させた。引き抜かれたウルミは、ねとりと粘度を持った血肉を滴らせている。斬るというより、叩き切る、といった傷口だ。

 それに、何故かキジマが絶句していた。まるで、同じだけの衝撃を自分が受けたかのように。


「悪い、ミズエ……!」


「良いから! 逃げるよ、オドロさん!」


 つい今肩が抉れるほどの負傷をしたとは思えないほどの俊敏な動きで、今度はミズエがオドロの腕を引っ張った。腕を何とかもう片腕で支えながら、二人は山道を走り抜けた。

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