第11話


 かつーん、かつーんと靴がアスファルトを踏む音が反響した。ミズエが履いているのは革靴で、オドロが履いているのは軍靴を思わせる革のブーツ。足音が鳴るのは必然だった。トンネルという環境のせいで足音が反響して、ひどく不気味に思える。

 恐る恐る、戦々恐々といった雰囲気で歩くミズエに対して、オドロは慣れた庭を歩くかのように堂々たる出立ちだ。肩には真っ黒なシャベルを担いでいる。カーボン樹脂で作られた折り畳みのシャベルらしく、彼はいつもそれで自分の身を守ってきたらしい。

 実際、彼のもう一つの職は墓守だ。使い慣れているのだろうし、現代日本では基本的には凶器として認定されないため持ち歩いていても問題はない。

 正確には言えば明確な理由なく持ち歩けば銃刀法または軽犯罪法に抵触する恐れはあるのだが、検挙されなければ良いとオドロは構えていた。どうせ、このトンネルに警察はおろか人っこひとりいない。

 シャベルという護身の武器を持っているオドロに対して、ミズエは完全に手ぶらだった。着替えなどの荷物はスーツケースにしまい込んでホテルに置いてあるし、持っているものと言えばスマホと財布くらいのものだ。

 しかし、それでもさしたる問題はない。彼女は怪異「クロカミサマ」をその身に宿したキョンシーであり、いざとなればその能力を使えば護身程度ならばできるだろう、というのがユカリの見立てだ。実際にその力を使った事は無いのだが、このトンネルで少し練習してみれば良いとも言われた。事務所がある都心ではそうそうできないことだ。

 神父とキョンシーという異色の取り合わせ。二人は無言のままトンネルの奥へと進んでいく。内部を照らす橙色の電灯はチカチカと明滅していて頼りない。薄暗い中数分進み、そして出口の光が見えた頃、オドロが唐突に足を止めた。


「オドロさん……?」


 不審に思ったミズエがオドロの顔を覗き込むと、彼の月白の瞳は真っ直ぐに前方を見据えていた。それに促されるようにミズエも前、出口の方面を見ると、そこに誰か、否、何かが佇んでいることに気がつく。

 そのシルエットは、背の曲がった老婆のような女だった。腹や脚、腕からは肉という肉が削げ落ちて骨が浮き、生命を感じさせない有様だ。

 ぼさぼさに乱れたざんばら髪は、まるで誰かに掴まれてちぎれてしまったかのよう。肉体の状況も合わせて、あまりに痛々しい女だった。


 そう、まるで人外のように死に体の女。


「っ……!」


 瞬間、全身の神経がぞわりと逆撫でられたかのような悪寒がミズエの体を襲った。逆行で見えづらいものの、その女の双眸はミズエとオドロを写し、妖しく紅く光っている。


「……あタしを」


 女は、ゆっくりと口を開く。

 ひどく嗄れている声だった。空気を吸う音と発音のために空気を吐き出す音が奇妙に噛み合っていないように思える。まるで、一度離れた首を縫って繋げたような。

 筋肉を使わず骨だけで体重を支えているぎこちない動きで、女は一歩踏み出す。

 その姿が電灯で照らされ、明確に露わになった。

 枝のように細い肢体に、頬も痩せこけている。全身にはツギハギに縫った痕跡があった。

 その双眸はひどく虚ろ。それもその筈、彼女の眼は確かに眼窩に嵌ってはいるが、視神経がつながっておらず何も写してはいない。一度抉り出された後、眼球を眼窩に戻しただけなのだ。

 ミズエはそれを見た瞬間、耐え難い吐き気を催す。普通の人間として育った彼女の真っ当な倫理観と価値観が、その凄絶な姿を拒絶した。

 ミズエが思わず一歩後ずさると同時。


「アたしを捨テたのは、オマえかぁあああァ!」


 女が金切り声で絶叫し、四肢につなげられた糸が引かれたかのような急激な動きで走り出した。その生物離れした奇怪な動きに、ミズエは北海道行きの飛行機にいく前の事を思い出す。



「その怪異、これじゃないすか?」


 コトブキがそう言いながら差し出したノートパソコンの画面には、黒と赤おどろおどろしいホームページが映されていた。


「……『ごみこさん』?」


「はい。東北の方に出現するお化けらしいんで。なんでも、自分の体がバラバラの不法投棄された恨みから他の人を追っかけ回すとか」

 それはまた、とミズエは絶句する。バラバラにされた上に捨てられるとは、怪異になるほどに恨みを持ってもおかしくない。その痛ましさに、ミズエは思わず眉を歪めた。


「その、どうやって退治するんですか?」


「コレを使う」


 そう言って、オドロは首に下げた正二十面体を軽く掲げる。以前「ひとりかくれんぼ」によってぬいぐるみに降霊されたものを祓う際、使用された道具。

 正確には「祓う」とは少し違うのだが、ミズエにはあまり違いはわからない。


「そういえば、前も使ってましたけどそれは何なんですか?」


「超端折って言うなら、地獄への門だな」


「地獄への門?」


 その言葉を復唱しながら、ミズエは胡乱げに目を細めた。

 門と言っても、その正二十面体は門の形にはとてもではないが見えない。しかし、ミズエは以前それが変形して、オドロの背後に何かが開く所を目撃している。それを門と表現するのは、間違いではないのかもしれない。


「そいつはまぁ、地獄へ繋がる呪物だ。パズルみたいに変形して、最終形態になると地獄直通の門が開く。向こうの盲者はひどく寂しがりやでな、同族の腕を掴んで引き摺り込むのさ」


 オドロはそう言いながら、自分の腕をさすった。震えを抑えるように、強く。


「……オドロさんは、引き摺り込まれないんですか?」


 オドロの背後にその門が現れると言うのなら、その前に立つオドロは誘い込まれはしないのだろうか。

 ミズエがそれを問うと、オドロは月白の瞳を鋭く細めた。三日月のようになったその双眸が、どこか煩わしげな感情を持つ。


「勘の良いガキは嫌いだよ」


「え?」


「は?」


 まだパソコンを使って更なる情報収集をしていたコトブキの唐突な言葉に、ミズエとオドロは揃って訝しげに彼女を見た。二人の視線を一身に受けた彼女は、しかし動ずる事なく飄然としている。


「オドロさんの目がそう言ってたんですよー」


 肩を竦めてそうとだけ言うと、後は答えるつもりがないようでタイピングの音だけが鳴る。


「……まぁ、こいつを使う時間が稼げれば後はどうとでもなるって事だ。ミズエ、頼んだぞ」


 そう言って正二十面体を眺めて何か物思いに耽り出した彼の横顔は、どこか憔悴しているようにミズエには思えてならなかった。



「……リンフォン」


 オドロが小さく唱えると、掌に乗せられた正二十面体が変形を始める。


「ミズエ、一分だ。時間を稼げ」


「でも……」


「己の中に潜む怪異を捩じ伏せて使役するんだ。……土壇場じゃないとできない事だぞ」


 ミズエの中には確かに怪異であるクロカミサマが宿っている。しかし、ミズエが呼びかけてみてもそれは答えない。

 ユカリは鏡の中の世界で対話を果たしたと言っていたから、理性や知性が無い訳では無いのだろう。しかし、クロカミサマはミズエには頑として答えなかった。まるで、固い拒絶のように。

 ごみこさんはその半ば腐った肢体をくゆらせながら、こちらに走ってきている。裸足がペタペタと音を鳴らし、それが焦燥感を掻き立てる。


「っ、クロカミサマ……!」


 怪異は応えない。


「クロカミサマってば……」


 怪異は応えない。

 無感情な拒絶。ミズエは、スローモーションのようにゆっくりと流れる視界の中でとある光景をフラッシュバックさせた。

 眼下に広がる夜景と煙るような無明の夜空。下品に輝くネオンに、ちろちろと動き回る車の明かり。

 呪いに縋る己の声。

 わたしの無念をお晴らしください、と。


「……わたしの願いを叶えろ、クロカミサマ……!」


 叫び終わると同時。

 ミズエの視界が、止まった。

 モノクロの世界。橙色だったはずの電灯は色を失くし、自分が纏っていた色彩もグレーに染まっている。ごみごさんもオドロも微動だにせず、まるで時が止まったかのよう。その世界の中で、ミズエは目の前に佇む怪異と相対した。

 そこにいたのは、地面まで垂れる黒い髪で全身を覆った何かだった。人間のように見えるが、それが纏う雰囲気は決して人間のものではない。


 ——何故希う。


 夜のように闇い髪を持ったその存在は、無音のまま問う。ミズエを無感情に睨んで。果たして、それに眼があるかは定かではないが、確かに見られている事をミズエは知覚した。


 ——一度拒絶されたと言うのに。


 ——お前は悪だと言うのに。


 威圧的で、それでいて個性を剥ぎ取られたかのような口調。首を傾げる事もせず、微動だにしないままそれはひたすら疑問を口にした。


 ——だと言うのにどうして、我がお前に手を貸すと思えるのか?


 言外に、その厚かましさ図々しさを責められた。そも、クロカミサマが憑依しているのは彼——あるいは彼女——の同意あってのものではない。枷を首につけて固定して強制しているようなものだ。その状態で「力を貸してください」なんて頼みを、できるものか。

 けれど。


「クロカミサマ、あの怪異は悪ですか、それとも善ですか」


 その問いに、クロカミサマは僅かに身動いた。

 その答えを問わずとも、ミズエにはわかる。札を介した状態で共に在るからか、その判断は何故だか容易に理解できた。


「悪、ですよね」


 あのごみこさんという怪異は、つまるところ見境のない殺戮者だ。その始まりは復讐だったのかもしれないが、彼女は既にその目的を見失い、ただ殺すという過程を目的に据えてしまっている。その愚かさは、悪なのだ。

 クロカミサマも、札に封印される以前に動いていた時代は、その復讐を代行をする事がままあった。彼による呪いは、一回きり。二度目に願われた時、クロカミサマは依頼者を悪と断じる。

 つまり、復讐が正当性を失った時、それは単なる加害と化す。ごみこさんは、その典型的な例だ。


「クロカミサマ、あなたは善を勧めたい。わたしは悪を徴したい。利害は一致しているでしょう?」


 彼は黙ったまま、感情を露わにさせずにミズエを眺める。いや、最初から感情なんて無いのかもしれない。それでも構わない。単純なシステムならば、そのシステムに沿った形での提案をするのみだ。


「良いから、力、貸せよ」


 わたしの、矛になれ。その傲慢に、クロカミサマは口を開く。


 ——後悔するぞ、人の子。


 ——我という呪いをその身に宿すとは、どういう事か理解していないとは言わせない。


「知らない。わたしはわたしの好きなようにやるだけなんだから」


 毅然と言いのけると、クロカミサマは動き始めた。不思議と、敵意は感じなかった。

 ひたひたと音がしそうなのに、ひたすらに無音。髪が擦れ合う微かな音すらなくて、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。

 黒い髪に覆われたその体が、ゆっくりとミズエに重なる。質量がないそのシルエットが透過して、そしてミズエの体に吸い込まれて消えた。その瞬間、全神経が変質したかのような奇妙な感覚に襲われる。

 瞬時にして自分が全く別の生命体に変化しているような。脱皮をしようとしているかのような、むず痒く、熱く、冷たく、心地よくて気持ち悪い。そんな矛盾を幾つも孕んだ、如何とも形容し難いもの。

 モノクロ写真に撮られたかのようにストップしていた世界が、動き出す。オドロはリンフォンを起動させようとしていて、ごみこさんは奇妙なフォームで走って来ている。

 その術をミズエは使った事がないのに、何故だかそれは体に馴染んでいた。

 彼女の勿忘草のような色の髪が、急激に生え伸びた。

 肩甲骨の辺りで斜めに切られていた髪が地面につくほどの長さに爆発的に成長し、そしてその一本一本に神経が通っているかのようにうねるのだ。

 人間の髪の本数は約十万本と言われている。つまり、その十万本が全てミズエの手であり、足。

 際限なく伸びたそれがごみこさんの手足に絡みつき、その動きを封じた。ごみこさんは人外じみた膂力で抵抗し、髪を引き千切るも、十本千切れば百本が更に纏わり付く。その膨大な量に、ツギハギの喉から悲鳴らしき喘鳴を漏らしていた。


「なっ、ミズエ⁉︎」


 愕然と、オドロが声をあげる。


「お前、それ……」


「オドロさん、リンフォンは⁉︎」


「っ、あと四十秒!」


「それまで抑えてます! できるだけ早く!」


「早くできねえんだよなあ!」


 いくら爆発的に伸びて操る事ができても、所詮は人間の髪である。その強度は大したものではない。これがクロカミサマの髪だったならば話は別なのかもしれないが、ミズエの肉体に宿っている以上はミズエの髪以上のものにはなり得ない。

 ブチブチと不吉な音が断続的に鳴り響いている。勿論、ごみこさんが髪を引き千切り、噛み千切り、筋繊維を断裂させながらこちらに迫っている音だった。虚ろな瞳には、妄執としか思えない狂熱が火花をあげている。


「お、オドロさぁん!」


「あと二十秒! 耐えろミズエ!」


 ほんの数十秒が何倍にも引き延ばされているかのように長く感じる。ミズエは髪を操り続けて、ごみこさんの体を押し潰しそうなくらいに巻きつけた。


「八……七……六……五……四……離れろ、ミズ——」


 オドロが叫ぼうとした瞬間。


 彼の直感が警鐘をあげた。死ぬ、と。


 そのまま反射的に彼は動く。掌に掲げていたリンフォンを地面に落として、代わりにカーボン樹脂で出来たシャベルを握って己の側頭部に掲げた。

 そこから一秒の隙間もなく、がぎゃん、と音がした。硬いものと堅いものがぶつかり合う、鼓膜が痛くなりそうな轟音だ。


「間一髪、間に合ったやんなぁ」


 聞こえたのは、奇妙に間の抜けた口調の声だった。

 開きかけていた地獄の門は、所有者の手から零れた衝撃で元の形に戻っていく。門は閉じていく。


「っ、お前、何者だ……!」


 カーボン樹脂は、金属ではない。しかし軽い割に硬度が高い素材だ。だというのに、金属同士がぶつかり合ったかのような衝撃だった。僅かに麻痺したような手を軽く振って、オドロは振り返りながら声の発生源を睨む。

 飄々とした声。飄々とした出立ち。彼は薄く微笑む。


「キジマ言いますぅ。こっちの要求聞いてくれるなら危害を加える気はあらへんので、とりあえず従ってもらえますぅ?」

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