第19話


「……ひゃ、ははっ。あーあ、痛いなぁ」


「……恨めしくないの?」


 道の端に蹲るキジマに、声が降る。決して比喩表現ではなく、物理的に高所から声がかけられているのだ。

 声の発生源は、道の端にひっそりと生えている木だった。ガードレールに木漏れ日が重なるように生えた木は、季節も相まって青く茂っている。もっとも、今は暗闇に包まれた夜なので、月の逆光に照らし出されるそれはひどく不気味なのだが。

 よくよく見れば、木の一際太い枝に誰かが座り込んでいるのが見える。葉叢と逆光でその精細な姿までは確認できないが、兎に角子供のように小柄であることだけがわかった。

 かけられた声もひどく幼く、少年とも少女ともつかない。変声期も迎えていないのであろうし、発音もどこかおぼこい。

 声の方向に、キジマは微笑みかける。余裕がないのに、余裕ありげに。


「恨めしくなんてあらへんよ。おれにはおれの目的があって、やっこさんにも目的が合った。それで争い合って、結果おれが負けた。そこになんの禍根もあらへん。負けたおれが悪かったっちゅうだけの話や。それに、俺もあのお札の子ぉに悪い事してもうたからなぁ。罪にはそりゃ報いが来るわ」


 からからと乾いた笑いを上げながら、キジマは肩を竦めた。なんの恨みも抱いていないという言葉を、その態度は体現している。

 思い出すのは、ウルミであの札を頭につけた少女の肩を斬ってしまった時だ。

 自分の目的を果たすためなら自分だろうが他人だろうが傷ついても致し方ないと考えているキジマだが、それでもあれは不必要な攻撃だった。

 本来なら、オドロの側頭部に当たる直前に持ち替えて、グリップを側頭部に叩きつけて戦闘不能にするだけのつもりだったのだ。けれどその間にミズエが割り込んだことによりそれが叶わず、勢いが落としきれなくてそのまま斬ってしまった。

 つまりミズエは不必要な傷を負った訳だが、しかし加害者はキジマであることに変わりない。無用な傷を負わせてしまったと、キジマは負い目を感じていた。


 恨まれこそすれ、恨むことはない。それが包み隠さない、キジマの本音だ。


「……んで、まるでおれにやっこさんらを恨んでほしいみたいな事言ってるあんたさんは、一体なんやねん」


 包帯が緩み、キジマのくすんだ緋色の瞳が敵意を持って少年を睨む。その明らかな敵愾心に、しかし幼く見える少年は全く心動かされた様子はない。飄々と、感情の読めない微笑を湛えて。


「ボクはアンタの味方だよ……って言ったら、信じる?」


「……信じると、思うてか?」


 生憎と、キジマは人の善性など信じてはいないのだ。他人の心を尊重していると言ったが、だからこそ人間の醜い部分も理解しているつもりでいる。

 それに、こんな状況で「味方だ」と言われてそれを信じるのなら、それはただの考え無しだ。

 いや、もしかして。

 自分が味方だと、自分に利がある行動を彼が既にしているとしたら。


「もしかして、あんたさん、『カロン』?」


 少年は笑みを深め、口元が孤を描く。無邪気さなんて欠片もない、ただただいやらしい笑顔だ。

 そして彼は、軽やかな動きで木から飛び降りる。

 月光の下に姿を現したのは、声の印象と違わない小柄で可愛らしい印象の少年だった。無地のシンプルなシャツとハーフズボン、オーバーサイズのパーカー。神聖さを感じさせる銀の髪に、緑青の色をした大きな瞳。

 全体的に色の起伏が少ない印象だが、それを唯一裏切るのが全身の至る所につけられた真っ赤なピアスである。

 耳は左右で十個以上。眉と唇にも一つずつ。口を開いた際に見えた、舌に一つ。喉にも一つ。鎖骨には左右合わせて三つ。腕は袖で隠れて見えないが、脚にはコルセットピアスが何対も取り付けられている。どう見ても小学生ほどにしか見えない幼い少年がその数のピアスをつけているのは、中々に異様である。

 その少年が、年齢に見合わない大人の汚さを煮詰めたかのような表情をしていると、更に。


「対面では初めまして。ボク、イバラ。茨花月。どうぞ、これからもよろしく」


 イバラと名乗った少年は、そう言って笑う。裏に何かを含ませた。キジマからしたら見ているだけで背筋に悪寒が走るような笑みだ。幼い子供がしていい表情では、絶対にない。

 剣呑とした空気に呑まれてキジマが二の句を紡げないでいると、はぁ、とわざとらしい溜め息が振りかけられた。


「何、名乗られたら名乗り返すくらいの礼儀も知らないの? 全く、躾がなってないなぁ」


 躾、という言葉にキジマの背がびくりと震えた。怯えるように、傷に触れられたかのように。表情も体も強張らせて、しかし目の前の少年に対しての敵意は見失わず、揺れる浅緋の瞳で睨みつける。

 しかし、それはどう見ても弱々しいもので。

 そして、名乗られたら名乗り返さなければならないという礼儀も至極真っ当なものだ。


「……城島」


 キジマは、苗字のみを短く名乗った。イバラの片眉が吊り上がり、不機嫌そうに再度溜め息。


「チッ」


 鋭い舌打ちに、キジマの背が大きく震えた。

 特別イバラの威圧感が強い訳ではない。むしろ年齢相応の癇癪のようにすら感じないものだ。

 ただ、キジマが人の舌打ちや怒声、怒りの気配に弱いというだけだった。普段なら隠せるはずだが、今は弱ってしまっているせいで反応が顕著だ。


「……ゆう」


「あ?」


「城島、祐」


「ふーん」


 自分から訊いたというのに興味なさげに、イバラは生返事を返した。


「じゃあさ、城島祐さん。突然で申し訳ないんだけどさ」


 言葉とは裏腹に全く申し訳なさそうな口調で、イバラはしゃがんでキジマと視線を合わせる。そして、またもや年齢に見合わない醜悪な笑みを向けた。


「ボク達の駒になってよ」


 その瞬間、キジマの脳内で激しく警鐘が鳴った。しかしそれは一瞬遅く、たとえ早かったとしてもキジマの体はそれに追いつかなかっただろう。

 つまりは、避けようがなかったのだ。

 背後から、キジマの口に何かが押し当てられた。柔らかな感触と体温は人間の手に違いなかったけれど、それは無理矢理キジマの口を開けさせて、口内に何かを捻じ込んでくる。


「お、ごぇッ……!」


 喉に何かが入り込む、その異物感にキジマはえずく。しかし喉に迫る何かに堰き止められて、吐く事は叶わなかった。

 ひたすらに気持ちが悪い。生温かさを持つ何かが食道を蠢きながら通り抜け、ついに胃の中に落ちた。自分のものではない重みが体の内側にのしかかり、その奇妙な感覚に意識が朦朧とする。


「な、にを……」


 無理矢理得体の知れない、しかもそれなりに質量があるものを飲み込まされたせいで、体力がごっそりと削れて、キジマは意識が薄れていくのを自覚した。視界が白み、耳が遠くなっていく。全身に力が入らなくなって、とうとう彼の体は地面に伏せた。

 朦朧としている彼は、聞くことができなかった。目の前の人間達が交わしていた会話を。




「……本当に良いのか、カラカサ」


 鈴を振るような麗しい声が、奇妙な口調で気遣わしげに問うた。金髪を緩く纏めた、和洋折衷のセーラー風の制服を纏った少女だった。高慢な口調とは真逆のおどおどとうろつく視線が、彼女を気弱な印象にしている。実際は気弱という訳ではなく、足元で倒れている男への罪悪感に右往左往しているだけなのだが。

 問われた女は、つまらなさそうに振り向きながら問い返す。茜色の和傘を開いて肩に乗せた、白装束のような白い着物を纏う女だった。いかにも大和撫子といった印象の、洗練された怜悧な美しさ。


「何が?」


「蛇を腹の中で飼わせるなぞ、前代未聞の破天荒が過ぎる試みだ。この人間がこの先、蛇に呑まれぬ保証もなく、何よりこれから更に……」


「死んだら死んだで、その時に考えればいい。実験に失敗はつきもの、致し方ないのですよ、アマベ」


「……人命、なのに?」


 きょとりと目を瞬かせて、少女から妙な口調が剥がれ落ちる。人の命を、失われても良いなどと、本当に思っているのか。アマベと呼ばれた金髪の少女は訝しげに渋面を作った。

 くすりと蠱惑的に笑って、「そんな訳がないでしょう」と否定される事を想像、否、妄想した。しかし現実はアマベが思うようにはならない。やけに妖艶に笑われた所までは同じだったが、発言は全く異なっていた。


「人の命だろうが獣の命だろうが、須く同価値でなのですよ。同等に、紙屑みたいな価値。あの人以外はね」


 まるで、自分の言っている事が世界の真理だとでも言うような、傲慢な言い方だった。アマベが眉を僅かに顰めていると、横から少年、イバラが口を出す。


「ああうん、そうだね。その通りだ。ボクにとってにぃさん以外がどうでも良いように、カラカサにもそういう人がいるんでしょ。アマベもそのうちわかるよ、自分の価値観をぜーんぶひっくり返してくれるような、そんな運命の人が」


 他なんてどうでもいいと思えるくらいに、鮮烈な光が。

 それは依存しているだけなのではないかとアマベは思うけれど、その感想も「運命」とやらを知らないからかもしれない。一つ確かなのは、「運命」とやらはアマベの身にはまだ訪れていないという事だけだ。


「んじゃ、戻ろう。……そいつどうする?」


 イバラが指差した先には、アスファルトに気絶して倒れ伏している男、キジマ。彼は日本人としては平均的な身長とそれに釣り合った体重ではあるが、女二人と年端もいかない少年一人では、文字通り荷が重い。


「ボク、こんなでかいの持ち上げられないよ」


「……肉体労働など、下賤の者がするものだ! そも、少女の肉体は脆弱である故、浮世に紛れていても我は真の力は出せぬのだ。……具体的には、学年で一、二を争うくらいに非力である!」


 二人の視線がカラカサに向くが、彼女は肩を竦めた。「運ぶ訳ない」という、無言の返答だ。「運べない」ではなく「運ばない」だから本当は運べるのだろうが、彼女の性格からしてそんな事はしないだろう。そもそも彼女は能動的に男に触れようとしない。


 アマベとイバラが二人で睨み合った結果、大人しくタクシーを呼んで四人は下山した。



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