第20話



 その殺戮の夢は、あたたかい。


 畳の匂いを掻き消す濃密な血の匂い。目の前には自分を折檻していた、血縁関係上は父親にあたる男が死体となって倒れているはずだが、しかし寿光にそれは見えなかった。

 何故なら、ぬるりと血と脂の感触が微かにするあたたかい手に目が覆い隠されているから。

 父は確かに死んだ。しかしそれは悲しくはない。あの男は本当に、ただ血縁関係があるだけだった。それ以上でも以下でもない。寿光は、本当に家族という関係性に対して希薄な感慨しか持っていなかった。

 正確に言えば、それは少し違う。記憶の中にいる誰かが彼女にとっての家族であり、それ以外の誰も、彼女は家族だと思っていない。ただそれだけだ。


 あの男を父と呼ぶのは、世間体を気にする彼はそうしないと烈火の如く怒り狂って折檻を施してくるからで。

 自分を産んだだけのあの女を母と呼ぶのは、そうしないと被害者面をしてきて、それを憐れんだ他人を利用してこちらを攻撃してくるからで。

 望んでもいない芸事を習わされているのは、『由緒ある二条家』の看板を必死に綺麗に取り繕おうとしている大人たちの苦肉の策で。

 過去に栄華を誇った二条家は、時代を遡る事にその過去の栄光の記録が垣間見える。しかしそれも一瞬の話で、時代は徐々に変わっていき、家のみを遵守する日本はとっくに終わっていた。


 しかし、二条家の屋敷があったのは辺境の田舎。閉鎖されたその場所では新たな考えは入ってこず、凝り固まった日本帝国主義が薄くとも残っていて。

 琴に琵琶、花道に茶道。その他諸々。唯一現在でも好んでいるのは弓道くらいのもの。

 二条家次期当主候補の筆頭の一人娘として、寿光は厳格に育てられた。本人も望まない形に、すくすくと。

 その日々は、とある年の正月に終わりを迎えた。二条家のほぼ全員が一堂に会す場所で、大人のほとんどが酒を飲んで狂ったように騒いでいる夜に、寿光は酒の席での紹介で望まれない振る舞いをしたばかりに父から折檻を受けていた。

 未熟な子供に力で屈服させようなんて大人気ないし滑稽だなぁ、と子供にしては醒めた思考で思う。自分自身を鳥瞰しているかのような感覚で、ひたすらに冷徹に。


 それは案外すぐに、そして唐突に終わった。突然寿光と父の間に割り込んだ「誰か」が、父を殺したのだから。


 殺人のその瞬間は、殺人鬼の背中に隠された。死体は目を塞がれた事で見えなかった。

 殺人鬼は寿光の目に目隠しを巻き、頭をぐりぐりと撫でてどこかに行った。そこから数分間、屋敷は悲鳴と喘鳴に溢れた。それが静かになると同時に、殺人鬼は戻ってきた。


「さつじんきさん」


「……ふは、なんだその呼び方。……いや、それでいい。少し揺れるぞ、舌噛むなよ」


 存外柔らかな、男性の声だった。まるで、愛しいものを前にしているかのような、懐かしさを含んだような。

 殺人鬼は何故だか慣れたような手つきで、彼女をおぶって歩き始めた。殺人鬼の背中は広く、体温の残っていない血に塗れていたが、あたたかった。ぎし、ぎしと木造の家の床が軋む。その足音からして殺人鬼は素足に靴下を履いて移動しているようで、殺戮に入ったにしては丁寧な人なんだな、と思った。

 あちらこちらから濃密な血の匂いがしたから、きっと誰一人生き残ってはいないのだろう。だというのに、自分でも驚いてしまうほどに何も感じなかった。例えなんの興味のない人だろうと死んでいたら多少は取り乱すだろうし、恨みがある人間だったらざまを見ろと吐き捨てるのだろうに。

 その場での普通の反応は理解していても、それを実際に行動にすることはできなかった。しなかった。それが寿光という人間が抱えた欠落なのだろう。

 ひんやりとした床に下ろされた。目隠しが外されて、目に飛び込んできた月光の眩しさに眉を顰める。敷地の隅にある孤立した蔵の中に、寿光は座らされている。目の前には殺人鬼の姿があるが、出入り口を背にしているせいで逆光が差し込んで、その顔はよく見えなかった。体格とシルエットから、大柄な男ということだけがわかる。

 殺人鬼さん、と言い縋ろうとしてその袖を掴もうとして、やんわりと振り払われた。


「いいか、寿。ここから出てはだめだぞ。どんなことがあっても、どんな音が聞こえても。絶対に」


 優しい声音でそう告げられて、頭をぐしゃりと撫でられた。

 この人は何故、寿と呼ぶのだろう。彼女の名前は寿光と書いてスピカだ。なのに、どうして寿と呼ぶのか。

 けれど不思議と嫌悪感などはない。胸中に懐かしさが込み上げてくる。


「じゃあな、寿」


 そう告げて、殺人鬼は背中を向ける。広くて、何故だか見覚えがあるかのような。


「待って……」



「待って、殺人鬼さん」


 伸ばした手は、前方の座席にぶつかった。

 一瞬呆気に取られて、コトブキはすぐに思い出す。オドロ達が北海道から帰ってきて一週間ほど経過して、週末になったので、新しく舞い込んだ仕事のために新幹線に乗っていたのだ。

 ミズエは怪我を負っていて癒えていないので休んでいてもいいと言われていたが、痛覚がないから大丈夫などと言っていた。一度死んでいる身で大丈夫も何もないだろうと思うが、ミズエ本人が休暇を固辞するので他全員が折れた形だ。

 向かっている先は長崎の田舎。道中までは新幹線で向かい、それからは電車やバスを乗り継いで向かう予定だ。縦長な日本列島の北端での北海道から、沖縄を除けば南端に近い長崎とは、随分と移動距離が長い。

 コトブキは住んでいる地域からあまり出た事がなかった。元々インドア派で積極的に旅行なんて行かないし、保護者もそういったことは大して好まない。何かきっかけがないと、外にすら出ないのだ。

 しかし、コトブキは県外に出ることが嫌いな訳ではない。在住の街、京都の風景が好きではないだけで、県外に出られるならそれは大歓迎だ。だから、仕事の際は県から出ることが多いこの事務所の仕事を、コトブキは気に入っている。

 学業との兼ね合いがあるので、実際はそこまで頻繁に出られる訳ではないが、それはそれで良い。ほとんど事務所で留守番をしているだけなのだから。

 つまり何が言いたいかと言うと、コトブキは長崎に行く事に非積極的であった訳ではない。むしろ行きたいと思っていたくらいだ。


「……」


 そう、行ってみたかったのだ。けれども気分は全く弾んでいない。かといってロウテンションなのではない。心の中が安寧の霧で包まれて、落ち着いているのだ。それは間違いなく、夢の中で出てきた「殺人鬼さん」のおかげだ。

 ふと周囲を見てみると、殺人鬼なんて物騒な単語を起き抜けに口にした少女を訝しげに眺めて、そしてすぐに逸らされた。

 そりゃそうだ、と嘆息しながら背もたれに大きくもたれかかる。同乗しているオドロ、ミズエは疲労が溜まっていたのか、それとも窓から差し込む日の光と陽気による眠気に耐え切れなかったのか、すっかり眠りこけていた。

 流れていく景色。のどかな光景。コトブキは大きく伸びをして、窓の外に執心することに努めた。


 コトブキ、本名は二条寿光。


 由緒ある……由緒あった二条家の一員であり、六年前起こった二条家惨殺放火事件の数少ない生き残りの一人である。

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