第18話
一方、断絶された場所にいるミズエはごみこさんに応戦していた。ごみこさんの体に髪を巻き付けようとして、ごみこさんがそれを力づくで振り払う。その繰り返し。
しかし、目には見えずとも勝利の天秤は確かにミズエ達に傾いている。
明らかに動き回るには向いていない服装をしているカリヤだが、それとは裏腹に非常に機敏な動きでごみこさんの周囲を動き回っている。決してその足元が見えないようにしていると言うのに、まるで蜘蛛のように滑らかに移動しているのだ。脚が複数本あるかのようにすら思える挙動だ。
ごみこさんの背後に回って、その針を通す。ごみこさんが振り返ってカリヤに爪を立てようとするが彼女は後退してそれを避け、更に回り込んでごみこさんの体に針を通す。その繰り返しだ。まさにヒットアンドアウェイである。
「ミズエ、もっと拘束気張りなさい!」
「こっちはトンネルの分断で手一杯なんですよっ!」
ミズエは髪の半分だけしかごみこさんの拘束に回せていない。他は全て、キジマとオドロがこちら側に来れないようにしている。ミズエは髪を自由に伸ばせるが本数自体は変えられないので、限りがあるのだ。
人間に生えている髪は平均して十万本。小数点の下にゼロが一つつく程度の太さの糸がたったの五万本。まとめても腕の太さにも満たない程度の髪を操れたとて、決して超常的に強くなれる訳ではないのだ。
「カリヤさんっ、後どれくらい⁉︎」
「待ちなさい、せっかち! 後数本……!」
香染色の目を眇めて、カリヤは叫んだ。
橙色の電灯が明滅する。それに照らされて、白銀の糸が僅かに光を反射した。
「三……二……一っ!」
カリヤが叫ぶと同時、ごみこさんの体が唐突に静止した。あちらこちらでキリキリと弦が引き絞られるかのような音が反響し、耳を聾している。
皮膚が糸に縫い付けられて、背後からカリヤに引っ張られている。そのせいで完全に動けなくなっているのだ。全身の至る所が縫われている上に、糸は電灯や表示板に引っ掛けられて複雑に絡み合っているため千切っても身動きは取れない。
「縫合完了。ミズエ、良いわよ」
「了解」
ミズエはトンネル内を分断していた髪を収縮させ、壁を取り払う。その先ではオドロと鍔迫り合っていたキジマが愕然とした表情でごみこさんを凝視しており、オドロは唇の形だけで「よくやった」と伝えた。
「隙だらけだッ!」
「! しまっ……」
オドロはシャベルの面の部分でキジマの手を殴りつけた。一片の容赦もない打撃に、その勢いと痛みのせいでキジマはウルミを手放して地面に落としてしまう。
彼の意識が床に転がったウルミに向いたその瞬間、オドロは更に追撃を加える。キジマの背中に、シャベルの面を思い切り叩きつけたのだ。
「ぎゃうッ……!」
背中は肉が少ない場所だ。背骨に直接的に衝撃が響いたのだろう、痛々しい悲鳴をあげてキジマが頽れる。
「うゥッ……いった……」
床に一度は膝をついたが、この程度で倒れるほどの生半可な覚悟ではない。キジマは呻きながらも、ウルミを手に持って立ち上がる。
しかし。
「ミズエ、交代だ」
「……了解」
オドロはごみこさんの方へ。そしてミズエは、キジマの元へ。その役割を交代し、それぞれが相対すべき敵の方へ。
「リンフォン」
オドロが短く唱えると同時に、リンフォンが変形を始める。
「っ、やめろ……!」
キジマが小さく叫んだ。
オドロを止めようと痛む体を引きずって走り出そうとするキジマに、ミズエが相対した。この先は通らせないと、邪魔立てはさせないとばかりに。
リンフォンは熊の形に変形した。防御壁を築き上げるように、ミズエの髪が広範囲に広がる。それは、先ほどキジマ達とミズエ達を隔てた隔壁と似ていた。
それと同時に、キジマを捕縛する為の髪が伸びる。キジマはそれをウルミで切り裂いた。振り抜かれた勢いと刃としての鋭さのお陰で、髪は容易に切れる。
しかし、切れたとて後から後から髪は無尽蔵に伸びるのだ。切っても切っても、追い打ちをかけるように。
リンフォンが鷹に変形する。キジマはそれがどんな形になると最終形態なのか、変形しきったらどうなるのか知らない。しかし、直感的に理解していた。あれを使わせてはならない、と。
焦って手を伸ばした先で、勿忘草色が絡みつく。ミズエの髪が、キジマの右腕を拘束した。
彼はウルミを左手に持ち替えて、腕に絡みついたそれを切ろうとするが、その数秒にも満たない動きの隙をミズエは見逃さない、左手を拘束し、それに凝然としている間に胴と両足を拘束した。
キジマの表情が、懇願するような、憐憫を抱いてしまうほどに悲痛なものに変わる。
しかし、そこにいる誰にも慈悲もなく、容赦もなく、甘さもなく。
リンフォンが魚の形に変形する。
間もなく、オドロの背後に地獄の門が開いた。
そこから渇望するかのような、招き入れるかのような、歓待するかのような手が伸びて、カリヤの糸によって身動きが取れないごみこさんに触れる。
それと同時に糸が唐突に切れた。ごみこさんは抵抗を見せるが、万力の如き握力で掴まれて動けないようだった。抵抗のあまりに腕が千切れるが、その腕を持っていた門からの手は断面を掴み直してまた引きずる。最早逃げられまい、とその場の誰もが悟った。
「あれは……そんな……」
キジマただ一人が、呆然と絶望的な表情で呟く。その一時は、ミズエの髪から抵抗する事すら忘れていた。
ごみこさんを引き摺り込もうとする手が、一層力を強くする、みしみしと異音がして、それはごみこさんの骨が軋む音だった。煩わしげに手がもう一本伸びて、それは彼女の首を掴む。
それは決して常ならぬ膂力で首の太い骨を軋ませ。
そして、次の瞬間には、ぼきゅりと音がして。
首に瓢箪のようなくびれを作ったごみこさんは、そこから息絶えたように動かなくなった。
人間は、首の骨が折れたら動けない。それは人間の肉体を持っているごみこさんとて同じことで。
時間をかければ再生するのだろうが、彼女にはその時間がなかった。地獄からの手は動かなくなったごみこさんの体を優しく包み込み、そして彼女を地獄の門のその先へと歓待した。
文字通り地獄の底なしの深淵に引き摺り込んで、そしてその門は閉じる。役目を終えたとばかりに。
リンフォンは元の正二十面体の形に組み上がり、それきり沈黙した。オドロの掌に収まったそれを、キジマは愕然と眺めている。
「オドロさん、この人は……」
「追い討ちは……良いだろ。もう、戦意喪失したみたいだ」
ミズエが髪を解いて元の長さに戻す。それと同時に、キジマは地面に膝をついた。背中を叩かれた事のほかに、胴を締め付けられた事もダメージになっているのだろう。腹部を押さえつけて、彼は唇を噛みながら呻いていた。
ミズエはまだクロカミサマの能力の扱いに慣れ切っておらず、力加減は未熟だ。だから、締め付け過ぎてしまったのだろう。実際、服の袖から覗いた彼の手首には、鬱血の痕が残っていた。
「……」
キジマは、奇妙なほどに静かに黙り込んでいる。床にへたり込んで、俯いて。それが、なぜだか瞳いっぱいに涙を溜め込んでいる子供に見えた。包帯のせいで、顔なんて見えるはずもないのに。
オドロが、そんな彼に言葉をかけようとした。自分でも何を言おうかは決めていなかったが、多分口を開いていたら「今なら見逃してやる」だとか言っていただろう。
オドロとキジマは、全く同時に口を開いた。発声がキジマの方が早かったのは、何を喋るのかを決めていたか否かなのだろう。彼は胸の前で手を組み、十字を切って静かに告げた。
「天に召されたあなたさまの平安をお祈りします」
それは、キリスト教の故人に向ける追悼の言葉だ。
キリスト教では基本的に、死を悲しい事とは思わない。死とは天にいる神の元に向かう事で、別れではあるものの、決して悲しい事ではない。それは新たな生の始まりでもあるのだから。
だから、キジマは日本でよく使われる仏教の言葉を使っていない。更にはキリスト教徒しかしない十字を切る仕草をした。つまり、キジマはオドロと同じキリスト教の人間だ。教徒と言わずとも、キリスト教に通じている事は確かである。
祈りを終えたキジマは、ふらりと立ち上がって覚束ない足取りで歩き始める。ミズエの横を通り過ぎ、カリヤとすれ違う。そして、オドロと視線が交錯した。
「……謝らないぞ」
「……謝らせへん。これは、おまえが自分の意思を貫徹した結果やろ。おれも、おれのやりたい事をやっただけや。遺恨は、残さへんで」
キジマはそうとだけ言い残すと、黙って歩き続けて、そしてトンネルの闇の中にその身を沈めていった。
そのどこか小さく見える背中を見送りながら、オドロは小さく零す。
「……疲れた」
それに対してミズエとカリヤは無言の同意を示すと、踵を返してキジマと反対方向に向かっていった。
元の長さに戻ったざんばら髪を手櫛で梳きながら、ミズエは小さく溜め息をつく。全てが終わった、その安堵と虚脱感から来るものだ。
「もうこれで大丈夫なんですよね」
「ごみこさんに関してはもう大丈夫だ。しっかり地獄に落ちたから、自分がやった事の報いは今頃受けてるさ。……同情できない訳ではないけど、それでも罪は罪、やらかした事はやらかした事だからな」
「地獄には、情状酌量って無いんですか?」
ミズエの問いに、オドロは軽く肩を竦めた。
「そこらへんは宗派や聖書の解釈にもよる。まぁ、俺らが信じたい神の裁きを信じるので良いだろ」
オドロは両手でシャベルを弄びながら言った。聖処は当然日本語で書かれていないので、翻訳の際に少し意味合いが違ったりする。またそうでなくとも、言語とは意味が多重に含まれるものだ。それのどこまでが神の本意で、どこまでが人間の勝手な想像なのかはわからないのだ。
結局、生者であるオドロたちには怪異があの世でどうなっているかなんてわからないのだから。
「信じたいものを信じる。愛したいものを愛する。守りたいものを守る。……そんな身勝手なのが、人間の性だよ」
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