第4話


 おおよそ十五分、オドロの車は一般道を走った。流れていく夜の街並みの中、たどり着いたのは新築といった趣の新築の一軒家だった。正直あまり大きな家ではないが、一家数人が住むなら不自由はしないだろう。

 コトブキが車から降りて荷物を背負い直す。竹刀袋を背負う時、金属が擦れあうような音がした。そのまま三人で扉の前に立って瑞恵は固唾を飲んだ。


「オドロさん、鍵は?」


「あると思うか?」


「デスヨネー。中の人も、開けれる状況かわかんないし」


 しっかりと鍵がかかっている扉をガチャガチャと鳴らしながら、コトブキはため息をついた。


「それじゃ、後はホシさんに。頼みましたよ」


 コトブキは弓と矢筒を床に置いて、そして竹刀袋を手にして目を瞑った。先ほどから時折ホシという人物の名前が出ているが、それらしき人間は見当たらない。

 瞑目していた目を開いて、コトブキは何かを唱えた。無感情で、しかしどこか懐かしさを含んだような。


「……『おかえりなさい』」


 告げられた言葉に、周囲の気温が一、二度下がったような心地がした。濡羽色の長い髪が、風もないのにふわりと揺れる。背筋が凍るような悪寒がして、瑞恵は我が身を抱きながら一歩後退りした。

 コトブキは……否、コトブキだった誰かは振り返る事なく扉に向かって一歩を踏み出し。そして、その一歩を強く踏み締めて、扉を思いっきり蹴りつけた。

 スリットから露出した、ストッキングに包まれた脚。それがなんの躊躇もなく、扉に向かって凶器として振り抜かれたのだ。

 その細く柔い脚はその外見以上の膂力で扉を破砕し、大きなへこみと傷をつけながら蝶番から外れさせた。未だ枠に嵌っているそれに追い討ちをかけるように、さらに一発、二発。

 容赦のない追撃に、扉はたまらず後ろに傾いて玄関に倒れる。その騒音は耳をつんざき、そして近隣の住民をざわつかせたようだった。耳を塞いでいた手を外しながら、瑞恵は恐る恐るその人物を伺う。


「……」


 コトブキだった人物はその完全に扉の枠から外れた扉を見て一仕事終えたとばかりに息をつき、そして振り返った。

 そのかんばせは、コトブキのものに全く違いない。緩く編んだ髪も、細い面と白皙の容貌も、何もかもコトブキのものに違いない。その鈍色の瞳とそこに浮かぶ感情だけが、コトブキと違う。

 何が違うと問われたら明瞭には言えないし、何もかもを見透かすような空おそろしさは同じなのだが、今の瞳の方が老成した雰囲気を感じさせる。コトブキがあのまま十年、二十年ほど歳を取ったらこのようになるのだろうか、と思わせる目だ。

 逆に言ってしまえば、彼女の瞳は一瞬で急激に何十年もの時を経たかのように変化した。

 その瞳に一瞥されて、瑞恵はすくみ上がる。元々コトブキは身長百七十センチ以上を誇る長身だ。背の高さだけでも威圧感があるというのに、向けられた瞳の冷たさは敵意でこそないものの、仲間の親しみ深さもありはしない。

 ずい、と顔を近づけられて、瑞恵は息を飲んだ。冷や汗が一筋頬を伝う感覚を自覚する。たっぷり十秒見つめあって、そして口火を切ったのはコトブキだった人物だった。


「……悪ィな。怯えさせちまったか」


 その口調は、やはりコトブキとは全く違う。オドロとはまた少し違う荒々しさに、どこか囁くような喋り方。心なしか、彼女の声自体もどこかハスキーに聞こえる。


「オレはホシと呼ばれてるモンだ。コトブキに憑いてる、いわゆる幽霊だよ。まァ、悪霊じゃないから安心しろ」


 コトブキだった人物は気だるげに頭を掻きながら名乗る。会話に度々出ていた『ホシ』という人物は、どうやら彼だったらしい。その一人称や口調から元々の幽霊は男性なのだろうという印象を抱いたから「彼」と呼ぶが、体はコトブキのものなので女性だ。


「ホシ、無駄話はそこらへんで、中に依頼者がいるはずだから。それから、降霊術に使われた触媒があったらすぐに確保。霊が憑いてるようだったら直ちにいつも通りに、だ」


「了解した」


 オドロとホシは短く会話を交わすと、今さっき扉を破壊した玄関を睨む。


「……」


「邪魔するぞ」


「あ、お邪魔しまーす……」


 三者三様の挨拶をしながら家に入る。帰ってくる返事は、なかった。

 リビングには電気がついており、食卓の上には冷め切った料理がいくつか。テレビは砂嵐の映像が流れており、時が止まったかのようなリビングでそれだけが異彩を放っている。雑に放られたテレビのリモコンが生活感を醸し出していた。


「おいオドロ、依頼者の年齢は?」


「高二だって聞いてる」


「若いな。悪ふざけで儀式に手を出したってとこか、嘆かわしい」


 ホシがため息をついて竹刀袋を地面につけた。存外重い音が反響した。

 飾ってあった写真立てを見て、二人とも苦々しい表情を浮かべる。


「三人家族だな。依頼者は息子として……両親はどこだァ」


 ホシが唸りながら竹刀袋を肩に乗せた。

 瑞恵は視線を巡らせるが、人影は見当たらない。物音も自分たちが立てるもの以外は全く聞こえなかった。けれども、暑い真夏の外の空気よりもこの家は寒いような気がする。冷房はついていないというのに。しかも「涼しい」ではない。「寒い」のだ。服の厚みを全く無視して冷気が肌を刺しているようだ。

 似たような違和感を二人も感じているのだろうか。ほんの一回、肌をさするような仕草が見えた。

 オドロは砂嵐を確認して、コトブキが用意していた書類を確認している。あの砂嵐も儀式の重要なファクターなのだろう。切っていいものか確認しているらしい。ホシも同様に、荒らされた米袋を確認して僅かに眉を顰めていた。


「……」


 ついてきたはいいものの、呪術に関する知識も能力も何もない瑞恵は、特にする事はない。あまり見ず知らずの他人の家でうろつくのも悪いとは思ったが、興味本位で和室につながっているらしきふすまを開いた。

 そして、空気が凍りつくような心地がした。

 その部屋に電気はついていない。しかし、何かが蠢くような気配を、確かに感じる。ペレットが擦れ合うような音は、コトブキが口にしていた情報と照らし合わせるとすぐに正体がわかる。

 米だ。コトブキは、ひとりかくれんぼの際はぬいぐるみの中綿の代わりに米を詰めるのだと言っていた。ならば、この音の正体は米が擦れ合う音だ。

 なぜ、米の音がするのだ? 発生源が動いているからに他ならない。この場合の発生源とは、つまり事件の元凶のぬいぐるみという事になって。

 それはつまり、この畳の間でぬいぐるみが動いているという事で。

 どん、どん、と音がする。それと同時に、ざらざらと米の音も。まるで米袋で何かを叩きつけているかのような。

 視界が僅かに歪む。真っ暗闇の中、ふすまから差し込むリビングの光だけが唯一の光源だ。それに照らされて、そのぬいぐるみ動き続けていた。

 うぅ、というかすかなうめき声。それでようやく、ぬいぐるみがその四肢を振り乱して殴りつけているのが生きた人間である事がわかった。

 エプロンを纏った、四十代ほどの女性。家族関係で照らし合わせるのなら、母親だろうか。それがぐったりと畳の上に体を投げ出し、横たわっていた。胴体からは滲むような出血をしており、その傷の中心である左胸は形が少し歪んでいる。

 その左胸が出血している理由は、ぬいぐるみに害されているからに他ならない。とは言っても、ナイフが刺さっていたり銃で撃たれたり、そういった傷はない。あるのはただの、殴打痕。

 米が詰まったぬいぐるみはその関節のない四肢を必死にくゆらせ、そして狂ったように左胸のただ一点を殴り続けていたのだ。まるで、その心臓を寄越せとでも言っているように、その肉を抉って抉りださんとしているように、執拗に。

 執拗に執拗に執拗に執拗に、左胸のちょうど心臓があるあたりを柔い体で殴りつけて殴りつけて。

 いくら柔いぬいぐるみの体といえど、米がいっぱいに詰まった体だ。殴りつけられ続けて損傷したのだろう、肉が潰れるように、そこに傷がついて。まだ息はあるが、あのまま殴られ続けたらそのうち拳が心臓まで届いて……。


「ヒッ……!」


 嫌な想像をしてしまい、瑞恵は思わず引き攣ったような悲鳴をあげた。それによって、瑞恵の存在を察知したのだろうぬいぐるみが、人間ならばあり得ない挙動で首を回して彼女を睨んだ。

 黒いボタンの瞳。その感情の無さが、無機質な殺人マシーンのようで恐ろしい。あの無感情な瞳で、自分も心臓を潰されてしまうのだろうか。そう考えるだけで頭が僅かに痛んだ気がした。

 可愛らしいクマのぬいぐるみ。それがぎょろりと瑞恵を睨み……そして、予備動作も何もない、しかし異常に俊敏な動きで彼女の眼前へと詰め寄った。


「っえ……」


 その速度に、瑞恵は一瞬反応できなくて呆けた声を出す。迫る拳を回避できたのは、ひとえにホシが彼女の首根っこを掴んで後ろに引き倒してくれたおかげだ。


「憑いてんじゃねェか……」


 襟を掴んで数歩後退しながら、ホシは和室に横たわる人間を見て眉を眇める。生きてはいるが、確実に負傷している、殴り続けられていたのだから、肋も無事とは言いきれまい。そう考えて、ホシは瑞恵を雑に後ろに放り投げた。


「オドロ」


「もう始めてる」


「一分だな」


「頼んだぞ」


 首に下げていた正二十面体を掌の上に乗せたオドロと数言短く会話を交わし、そして心得たとばかりにホシは頷いた。今まで何度も共にこうして仕事をしてきたのだろう。それ故の信頼感というものが、確かに垣間見えていた。


「ほら、人形畜生。オレが相手だ」


 効果があるかわからない挑発の言葉を吐きながら、ホシはニヒルに笑った。目をゆっくりと細めて、まるで蛇のような笑みを。

 芸もなく突進とするぬいぐるみを、ホシは体を捻って回し蹴りをその胴にめり込ませる。感触が軽いからか彼は両足をついてたたらを踏んだが、その分効果は絶大でぬいぐるみは廊下の壁に叩きつけられた。

 体が人間の肉体ではないからか、ぬいぐるみはまた予備動作なしに跳ね起きた。それを見て、ホシは更に獰猛に笑みを深めた。


「あと四十秒……」


「お、オドロさん……?」


 彼の名を呼んで、そして彼を見上げて気がつく。オドロの手にある正二十面体が、少しずつ変形をしていた。

 ただの二十面体が、まるで生きているかのように生々しい熊の形に変形する。それが完成したかと思えば即座に次の変形が始まった。

 オドロの掌に乗っているだけだというのに、絶え間なく、一人でに変形を続けているのだ。


「……!」


 それは、何故だか見ているだけでぞわぞわと総毛立つ悍ましさがあった。いいようもない、内腑から湧き立つような恐怖に瑞恵は竦み上がる。


「あと、三十秒……」


 オドロが掠れる声で呟いた。熊は、鷹の形に変化していた。

 それと同時、激しく金属が擦れ合う不協和音に瑞恵は思わずそちらを見やる。

 ホシが、竹刀袋の中身をその手に取っていた。彼が握っていたのは、槍だ。石突から鎖が伸びており、金属の光沢を放つ営利な槍。

 それを持って、ホシがぬいぐるみを突き刺した。ぬいぐるみごと壁に突き刺さったそれは、バラバラと米を大量に床に散らばらせる。それはまるで血潮のようで、赤い花の代わりに白い雨を降らせた。


「あと二十秒……」


 脂汗を額に浮かべながら、オドロが呻く。不断の苦痛を味わっているかのように、彼の顔は刻一刻と血の気を失っていた。


「おっ、オドロさん⁉︎」


「うっせえ、お前は黙って尻餅ついてろ」


 相も変わらずの口調で瑞恵の心配げな声を一刀両断し、オドロはひたすらにぬいぐるみを睨み続けていた。鷹は、すでに他の形に変化を始めている。

 また、ぬいぐるみは痛覚がないのだろう。ぶちぶちとちぎれた右半身を置いて、なおも追い縋るようにホシに襲いかかっていた。渇望するように、その手が彼の心臓へと伸びる。


「あと、十秒……」


 また新たな形が完成した。それは魚の形をした。見ているだけでてらてらとした鱗を想起させる、妙に生々しい魚。

 それと同時に、ホシは石突から伸びた鎖をぬいぐるみの首に巻きつけて拘束をしていた。

 そして中綿代わりの米の大部分が失われた事によりすっかり萎んだ体を暴れさせているぬいぐるみを、オドロの方向に突きつける。


「九……八……七……六……」


 カウントダウンは終わろうとしている。

 魚の形のそれがまたもや変形し始めている。しかしそれは、次は何の形にもならないようだった。変形している、ではなく、開いている、と形容した方が正しい。


「五……四……」


 数字が少なるごとに、背筋を冷たい汗が滲んでは玉となって流れていく。嫌な予感、というものが瑞恵を苛んでいる。

 瑞恵の隣のオドロ。その更に背後に、何か良くないものが開きつつあるような。


「三……二……一……」


 ここまでカウントダウンが進むと、魚は変形しきって原型がなく開ききっていた。元々の正二十面体をそのまま展開したような形に。

 同時に、どうっと額と頬を脂汗が大量に流れ落ちていく心地がした。その限りない悪寒に、自分が何か重大な病気を負ったのではないかと錯覚してしまうほどだ。


「……ゼロ。喰らい尽くせ、リンフォン」


 オドロが叫ぶと同時。彼の背後にある何かの気配が最高潮に達する。何も聞こえないはずなのに、鼓膜に無数の叫喚が飛び込んでくるような。頭がぐらぐらとして、意識が一瞬遠くなる。

 瑞恵が認識したのは、地獄の一端だった。

 意識が朦朧とする中、ぬいぐるみから何かが引き剥がされ、そしてそれが、オドロがリンフォンと呼んだ何かの中に吸い込まれる光景が見えた。呼び込まれるように、引きずられるように、あるべき場所に戻るように。それが完全に吸い取られると同時。開いていたそれがパタリと閉じて元の正二十面体の形に戻り、それと同時に瑞恵を襲っていた嫌な予感も途絶えて、意識がはっきりとする。

 オドロがため息を吐き、そして正二十面体……リンフォンを首に下げた。彼の顔は未だに少し青く、疲弊の色を残している。


「……終わったな?」


「ああ。お疲れ、ホシ」


「こっちのセリフだ。お疲れ、オドロ」


 ホシは言いながら少しふらつく足取りでオドロの元まで近寄り、そして彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。元々コトブキが男性と同じくらいに高身長なので、二人の身長差は小さい。まるで母に褒められる子のような光景だと思った。


「さて、オレは疲れた。コトブキに戻るぞ」


「ああ。後の始末は三人でやっておくから」


「悪ィな。それじゃ……『つかれてない』」


 ホシが唱えるように呟くと同時。彼の毛先に向かって鈍色になっていた髪が、色彩を失っていた瞳が、元の柘榴色に戻っていく。あれは、コトブキの色彩だ。


「……あっ、終わった?」


「ああ。あとは後始末だけだ」


「おk」


 どうやら、完全にコトブキに戻ったらしい。彼女は手に持った槍を見て、次に周囲に残った色濃い戦闘の痕跡に眉を顰めた。鎖を柄に巻きつけて竹刀袋を拾い上げながら、呆れたようにそれらを確認していた。

 彼女は床に散らばった米を見て「勿体ない……」と漏らしていたが、内腑がこぼれ落ちるようにぬいぐるみの腹部から米が落ちる場面を見ていた瑞恵はそのような感想は抱けない。


「依頼者さんは?」


「知らん。俺は被害者の救護に向かうから、探しにいけ」


「人使いが粗いっすねー。ま、いいけど。瑞恵さん、一緒に二階に探しいきましょ」


 コトブキは瑞恵の手を引いて階段を駆け上がる。二階にあるのは、この家に住む三人のそれぞれの私室のようだった。依頼人は確か十七歳だったなと思いながら、その中の一つの扉を適当に開ける。部屋はひどく雑然としていて、いかにも男子高校生といった趣の部屋だ。

 壁にかけられた制服は、瑞恵と同じ高校の男子用の制服だ。世間は狭いな、と思わず嘆息する。


「あ、待ってください瑞恵さん……クローゼットに誰かいますね」


 瑞恵は察知できなかったが、気配か物音かに気がついたのだろう。コトブキはクローゼットを開け放った。

 ぐちゃぐちゃに乱れた衣服の中、誰かが蹲って震えていた。清潔感があるように切り揃えられた黒髪は掻き毟ったかのように乱れている。目の下には、確かに涙の痕跡が残っていた。


「依頼者の方ですか? こちら、怪異お悩み相談所のコトブキです」


「……ぁ、助け……?」


 三角座りをして膝の間に顔を埋めていた依頼者が、ゆるく顔を上げた。その顔を見て、瑞恵は思わず後退り、そして踵を返して部屋を飛び出た。


「あ、瑞恵さん? 瑞恵さーん⁉︎」


 コトブキが慌てたように呼び止めてくるが、それに構わず瑞恵は乱暴に扉を閉める。固い拒絶のように。



「……一体何なのさ」


 瑞恵が全速力で走り去ったその後ろ姿を見届けながら、コトブキは思わずひとりごちた。依頼者の顔を見た瞬間、血相を変えて。

 しかし、今の仕事は依頼者の安全の確認だ。そう思って、コトブキはクローゼットの中から依頼者を引っ張り出す。


「依頼者の方で合っていますね?」


「……あ、合ってます。依頼者の、神流孝です」


「カミナガコウ、さんですね。怪異は僕達が除去したのでご安心ください」


「あの……おれの親は」


「それも現在、職員が確認中です。けれども死んではないと思いますよ」


「そっか……良かった……」


 依頼者、もとい神流は安堵の息をついた。自分の行為で家族を危険に晒してしまったのだから、気が気でなかったのだろう。

 同時に、両親の事を聞き終わった途端、彼は落ち着きなく視線を周囲に巡らせ始める。そして自分とコトブキ以外の人間がこの場所にいない事に気がつくなり、肩をガックリと落とした。


「あの……さっき『ミズエ』って名前、出してませんでしたか」


「えっ、出したけど……」


「もしかして、宇呂瑞恵、ですか?」


 突然瑞恵の本名を苗字まで含めて言い当てた神流に、コトブキは密かに警戒に目を鋭くした。


「さあ。あの人のフルネーム、僕知らないんですよ」


 嘘だった。いきなり人の本名を特定した得体の知れない人間に与える情報などない。それに、瑞恵は現段階ではただ事件についてきた一般人。コトブキの中での扱いは、ただ少し相手の情報を知っている程度の野次馬だ。

 そんな限りなく他人に近い人の情報を、簡単に開け渡すわけにはいかない。他人の口に戸口は建てられないが、自分の口になら戸口は建てられるのだ。もちろん親しければ情報を漏らすという事ではないが、とにかくコトブキは簡単に人の個人情報を簡単に話すほど口が軽い女であるつもりはなかった。


「そう、ですか……もし宇呂さんなら、ようやく謝る機会ができたのに……」


「謝る?」


 わかりやすく落ち込んだ神流に、コトブキは首を傾げた。そう言えば、壁にかかっているブレザーも今彼が着ているシャツも、瑞恵が着ている制服と同じデザインだ。十七歳という年齢も一致するし、もしかしてクラスメイトか何かなのだろうか、とコトブキは思う。


「あ、はい。おれちょっと、前に宇呂さんにひどい事しちゃって。謝る機会も中々なくって……」


 情けないですよね、と神流は眉を下げる。


「……ひどい事、ね」


 コトブキは小さく呟いて、そして扉の方を見た。瑞恵が出ていく時に乱暴に閉めていった扉。

 あの時、確かに瑞恵はばたばたと部屋を飛び出ていったけれど。

 けれど、その足音は扉が閉じた後は続かなかった。聞こえなかったのではなくて、なかったのだ。

 それはつまり、あの扉を閉めてから瑞恵は移動をしていないという事で。


「……」


 聞いているんだろうな、とコトブキは柘榴色の瞳を細める。気配を感じる、みたいな芸当はできないが、音からの推測でそこに瑞恵がいる事を確信していた。


「はあもう、面倒くっせェー……」


「え?」


「あ、神流さんに言ったんじゃないですよ。お気になさらずー」


 適当に誤魔化しながら、けれどもコトブキは重々しいため息を吐いた。

 オドロが呼び出したのであろう救急車のサイレンの音が、ひとりかくれんぼの終結を知らす鐘を鳴らし続けていた。

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