第5話




「えー、報告する。今回の事件『ひとりかくれんぼ』は東川高校の二年生、神流孝が興味本位で行った降霊術によりぬいぐるみに幽霊が取り憑いた。俺がリンフォンを起動して解決。ちゃんちゃん」


「オドロさん雑いよー」


「コトブキさん、いいですよ。オドロさんの報告が雑なのはいつもの事ですし」


「ユカリさんはそんな諦めの境地にいていいの……?」


 コトブキに指摘された通り、最低限の情報しかない報告を聞いてユカリは苦笑した。


「……さて、お次は瑞恵さんなんですが……依頼をするかしないか、決めました?」


「……」


 瑞恵は口を噤む。オドロの車にのせられて帰っている時もずっとそうだった。もっと正確にいうのなら、あの時、神流の言葉を聞いた時から。

 その様子を見て、ユカリは何かを察したのだろう、「決めたら教えてくださいね。依頼をしないなら黙って帰っていただいても結構なので」と言っていた。

 ふと、瑞恵は窓の外に目を遣る。塗りつぶしたかのような黒の中にぼんやりとした光がいくつも浮かんで、色とりどりのそれが影のように建物のシルエットを浮かび上がらせている。

 夜闇の空と同化してしまったビルがひっそりと佇んでいて、どこか悲壮的だった。


「……知ってますか? 透明に見えるガラスは、実は不純物が大量に混ざってるらしいですよ」


 へぇ、とユカリは興味深そうに相槌を打つ。鏡の中から身を乗り出すような仕草をしながら、まじまじと窓ガラスを見つめて、これが? とでも言いたげに首を傾げていた。


「ガラスが不透明になるのは、不純物が混ざっているかららしいです。わたしも理由はわかんないんですけど、不思議ですよね。汚いものが混ざっているのに、外見だけは綺麗に取り繕われるなんて。いや、中身が汚いから外見だけでも綺麗になるのかな」


 逆にガラスは不純物が混ざっていないと白濁して汚く見えてしまうらしい。

 ちらりとネットで見ただけの情報なので真偽は定かではないが、何かしらの化学反応がどうだとか書いてあった事を辛うじて覚えている。詳細は忘れてしまったし、興味もないし、そもそも書かれていたのかすら怪しい。


「外見がいくら良くても、内面はそうとは限らない。必ずしもそうだとは言いませんけど、美人は中身が醜いって事の示唆ですかね」


 瑞恵は自嘲した。誤魔化すようにガラスに触れて、指紋でわずかに曇ったそこを見てわずかに苦々しげに表情を歪める。

 人間、みんながみんな清純な人ばかりとも限らない。悪人のような見た目の善人、外面がいい悪人。善悪の判別がつかないような人も沢山いる。

 それはひどくまだるっこしくて、面倒だ。

 悪は嫌いだ。善は好きだ。それが簡単に露見すれば、簡単に善悪が決まる世界なら、わたしはもう少しいきやすいだろうに。


「……何が、あったんです?」


 瑞恵の言葉に、何かを察したのだろう。全員が片眉をぴりりと上げて、それを代表するようにユカリが問うた。物怖じなんてなく、単なる愚痴を聞くような気軽さと夕飯時の雑談のような何気なさで。

 言ってしまおうか、瑞恵は躊躇う。何度か口を開け閉めして、そして最終的に口を噤んだ。

 口に出してしまえば、今自分が抱いている懊悩がありふれているくだらないものだと、自分が理解してしまう。それに、今まで自分の内面を吐露した事なんてないから彼らがどんな反応をするかなんてわからなかった。それもまた、瑞恵の恐怖を助長させる。

 けれども、鏡の中で正座して手を膝の上で組み、瑞恵の話しだしを待っているユカリは、自分の話をきっと真摯に聞いてくれる。なぜだか、根拠もなくそう思った。

 促されるように桔梗色の瞳で一瞥されて、気がつけば瑞恵は口を開いている。


「高校での、話でした」



 高校に入学して間もない頃だった。

 割り当てられたクラスでは、一人の男子がいた。陽気で、声が大きくて、ムードメーカーの一人では確かにあったけれどもクラスの中心ではない。そんな男子。おちゃらけていて英語が得意で、人の顔を覚えるのが苦手な人だった。名前は、神流孝。

 そして、瑞恵のクラスか、はたまた隣のクラスかは興味がなくてわからないけれど、変わり者の女子がいた。

 自分から不名誉な呼び名を使うだとか、海外の侮辱の意を含むスラングを己に使う、など。周囲に興味がない瑞恵が噂として小耳に挟んだものだけでそれなのだから、他にもあるにはあるのだろう。

 いくら変人といえど彼女の噂はまことしやかで、教室でひとり本を読んでいるだけだった瑞恵はその変人が誰なのか知らなかったし、興味もなかった。瑞恵にとっては、その程度の話だった。

 しかし、それは例の神流の耳に入り、あろうことか、それは瑞恵の事だと誤解されて吹聴された。瑞恵は知らないが、その変人と瑞恵の外見的特徴が似ていたらしい。髪の長さや、体格なんかが。腰ほどまで髪を長く伸ばしている女生徒は、瑞恵とその変人くらいしかいなかったのだろう。

 神流はおしゃべりが大好きなようだったから、時間はかかったがその変人の女性と瑞恵がイコールで結びつけられる事になった。もちろん、その噂を小耳に挟んだ程度の、瑞恵の事も変人の女生徒の事もよく知らない人間の間で、だが。

 しかし、確かにその変人のレッテルが瑞恵には刷り込まれたのだ。

 瑞恵に良くないイメージが付き纏い始め、事態に気がついた頃には既に手遅れだった。

 瑞恵にも、悪いところはあったのだろう。人付き合いが苦手で、やろうともせずに過度に人との接触を避けている節があったから。誰にも理解してもらえる人間がいなかった事、これといった交友関係がなかった事が、勘違いに拍車をかけたのだ。

 彼女はそんな人間ではないと、そう言ってくれる友人が彼女の周囲に一人でもいたら、瑞恵は更なる孤立を、埋めようのない隔たりを知覚する事はなかっただろうに。

 現状をひょんな事から知った瑞恵は、どうにもやるせない気分になった。

 苛立ちのような激情がどっと押し寄せて、けれどその当てどころがわからなくて、結局どこにも発散できずに心の中で蟠ってつっかえて吐き出す事すらできなくなって。

 気がついた時には学校に行く事が苦痛になって、逃げていた。

 家族には頼れなかった。受験勉強中に苛立ってひどいことを言ってしまったから。心にもない事を喚いて罵って、それ以降家族との関係はギクシャクしている。

 瑞恵が家族に言うべき事は学校での悩みの吐露ではなくて、謝罪の言葉。けれども瑞恵は、何かとタイミングが悪い、方法がわからないなどと自分自身に言い訳をし続けてい今もなお逃げていて、未だ謝れていない。

 八方塞がりだった。苦痛でしかない学校に行かなくなって、不登校になって、今は二年生になって夏休みに入る前の夏だけれど、このペースで学校に行かないのなら確実に出席日数が足りずに留年する。そんな迷惑を、親にはかけたくなかった。けれどもやはり、学校に行く勇気はない。自分は学生なのだと言い聞かせるために着ている制服も、すっかり部屋の埃に薄く汚れていた。


「……わかっているんです。わたしが臆病なだけだって。何が悪いだとか何が善いだとかの価値観に縋って、責任のありかをどこかになすりつけたいだけだって。誰が明確に悪いとか、そんなのはなくて、みんなが少しずつ悪いかもしれないけど、悪くない。歪みの始点がどこかなんて、誰にもわからないんです」


 神流は、ただ勘違いをしてしまっただけだった。顔も名前も知らない変人の女子生徒はただ変人であるというだけで誰かに迷惑をかけているわけではないし、家族だってただ家族としてそこに在るだけ。誰かを責める事なんて、できない。

 正確に言うなら、確かに神流のしたことは罪ではないと言い切れないかもしれない。仮に瑞恵が本当にふしだらな女だったとして、それを周囲に触れ回るのは良い行動ではないのかもしれない。しかし、神流が悪意ありきでそれを行ったのか、どういった文脈でそうしたのかはわからない以上は責めきれないのだ。

 諦めたように瑞恵は独白する。いざ口に出してしまえばくだらなくて、自分の矮小さを自覚させられる。あまりにありふれた、女子高生らしい悩みだ。

 ちっぽけな自尊心が傷つけられて、子供のように意地を張った。ただ一言、神流に言えばよかった。「あなたの言う女子生徒はわたしじゃないから、撤回してほしい」と、頼めばよかった。彼は悪意を持ってその情報を流布した訳ではないのだから、それで済んだ話なのだろう。

 けれども、瑞恵はそれをしなかった。自分の態度と臆病の蓑に隠れて、ひたすらに周囲と壁を作った。

 世界のスケールから見ると胡麻粒にも満たないような、小さな悩み。解決方法が明確にあるのに、それを取らなかった。その小さな悩みも手が触れる馬で近付くと、目前のそれが押しつぶされそうなほど膨大に見えていた。詰まるところ、瑞恵は胡麻粒よりもずっと小さくて脆弱な人間だったのだ。

 だから呪った。

 呪うしかなかった。

 どうしようもある行き違いの解決を、人外の手に委ねた。

 適当にスマートフォンで調べた都市伝説の呪術の中で、簡単にできそうなものを実際にやってみたのだ。

 ほんの気休めの、願掛け程度の気持ちだった。自殺の前の、ほんの八つ当たり。それが終わったら、精々あの世で同級生達と家族が来るのを待っていよう。それくらいの気持ちだった。


「わたしが呪ったのは、神流孝。軽率でうるさくて、大嫌いだったあいつです」


 瑞恵は、わらう。

 しかし、それは決して笑顔ではない。

 その歪んだ唇から、釣り上がった眉から、燃えるような青藍の瞳からこぼれ落ちるのは、明らかな怒り。

 ぐつぐつと火山の中で何十年も煮えたぎり、そして満を持してたった今噴火した溶岩のような。

 燃え尽きる直前の蝋燭のような、刹那の業火。

 危うくも美しいその光に、オドロは知らず凄絶な笑みを浮かべていた。

 この瑞恵という少女は一見、ただの平凡なその他大勢のひとりに見えた。今のネット社会、面白半分で呪術の世界に足を突っ込む一般人なんて溢れるほどいる。実際、神流孝もそうしてひとりかくれんぼに手を出したのだろうから。

 しかし、この少女は。

 自分自身を呪いと同等に、あるいはもっと厄介なものに変貌させかねないほどの激情家だ。ただ一時の判断に、感情に身を委ねて、後から後悔する典型的なタイプの人間だ。

 彼女が何らかの呪術に手を出したのは確実だ。呪われている、と最初に言ったが、それは少し違うのだろう。

 今回は都市伝説程度の呪術に手を出したのだからこうして五体満足で立ち歩いているが、もしもっと深い恨みを抱いてもっと本格的な呪術に手を出したら。

 そうなったら、俺の出番になるな、とオドロは考える。

 自分の未来の仕事を減らすために、宇呂瑞恵には目をつけておいた方がよさそうだ。……いや、今は単純に、興味がある。無力で臆病でどうしようもない人間の癖に呪いに手を出して、案の定自分の身に呪いが降りかかっているこの少女の末路を。


「……して、依頼内容は?」


 オドロは机の上に先ほどまでの報告書などを放り、無記名の契約書や説明書を瑞恵の目の前に突きつける。正式な依頼のための書類だった。


「……呪いの正体って、イコールわたしに干渉しようとしているもの、という解釈で合っていますか?」


「ああ。その解釈で相違ないな。今お前に巻きついているそれは、絶対にお前を離してくれそうにないぞ」


 その月白の瞳をギラつかせながら、オドロは言った。

 ならば、と瑞恵は息を吸う。

 自分の中で固めた決意を、言葉として吐き出すために。


「わたしの呪いを……」

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