第24話
コトブキのそばには、常に蝶がいた。
青くて、美しくて、鱗粉を振り撒きながらコトブキを見守るように、しかし視界に入らないように飛ぶ蝶。
プロジェクションマッピングで空中に映し出したかのように実態はなく、また存在感を極力消していて意識しなければそこにいるともわからない存在だ。
他人には見えない不可思議なそれが、しかし不穏なものではないとコトブキは直感的に理解していた。
それが見え始めたのは、殺人鬼さんによる二条家惨殺放火事件の直後からだ。
幼いながらに自分が殺人鬼に生かされた事を理解し、まるで一般的に親が子に向けるような情愛を僅かに感じ取って少なからず混乱していた頃。常に寄り添うようにその蝶はコトブキのそばに居たのだ。
蝶は、コトブキを決して一人にしなかった。家族愛に飢え、血縁者を悉く失った少女にとって、それは救いだった。
後にオドロと出会い、彼の見ている世界と自分が見ている世界を照らし合わせた時、その蝶はホシと名乗る男だと分かった。
二条家惨殺放火事件の被害者は、全員が二条家の縁者だった。つまり、外部からの侵入者である殺人鬼さんはそこに居ない。犯人が捕まったという知らせは届いていないから、殺人鬼さんは生きている可能性が高い。
オドロに会う少し前、その殺人鬼さんに会いたくて、自分の父親である二条星弥を降霊して話を聞こうと思った。その結果に体に降りてきたのは、コトブキの父ではない男であるホシだ。
ホシは全く関係のない霊であるにも関わらず、ずっとコトブキに寄り添っていた。言葉などなく、身振りもなく手振りもなく、ただ共に在っただけの存在だ。
それでも、コトブキにとって青い蝶は、ホシは、コトブキの家族なのだ。
ぱちりと目を覚ます。未だ己にかかっている微睡みの紗幕のせいで、瞼が重かった。コトブキは緩慢な瞬きを繰り返して、そしてようやく意識が覚醒させていく。
徐に体を起こすと、そこは深い霧に包まれた森の中だった。数メートル先から煙りだしていて、視界が不明瞭だ。空も梢と霧で見えなくて、今が何時なのかもわからない。暗くはないから夜ではないのだろうが、朝なのか昼なのかは見えなかった。
コトブキの記憶は、夜にオドロたちと話し合いをしていて、その一環でホシを憑依させたところで途切れている。コトブキはホシと違って霊体ではないから、体の主導権がホシにある時は意識を失っているのだ。
恐らくは、ホシが憑依している時に何かがあったのだろう。それが不慮のものなのか、それともホシが己で行動したのか。推し量ることはできないが、ホシがコトブキをこんな場所に一人にする訳がない。何か不慮の事態が起こった事は確かだった。
「おーい……誰かいないー……?」
声は霧に吸い込まれて、あまり響かなかった。声を出してから、危険な野生動物を引き寄せてしまう可能性があると思って口を噤む。
さく、さく、と足音が鳴る。コトブキ自身のものだ。短く茂る草を踏みつける音だ。
体感時間で数分歩いていると、霧にのわぁんとくぐもっている笑い声が聞こえた。甲高い、心底楽しそうな、子供の笑いだ。
「誰……?」
こんな人の気配を感じない山奥に子供が少人数でいるとは思えない。ならば、声の方向にあるのは人里だろう。そう予測を立てて、コトブキは歩いた。
徐々に声は近くなる。笑いさざめく子供達の声が、明瞭になる。同時に、鼓膜を貫き脳内に響く耳鳴りが始まっていた。
それでも、進む事をやめるわけにはいかない。コトブキは歩き続けて、そしてようやく、木がない拓けた場所にたどり着いた。広場のようになっている真ん中で、数人の子供達が走り回って戯れている。
そして、そこに見慣れた青い光が見えた時、コトブキは目を見開いて走り出した。
「ホシさん⁉︎」
ちらちらと宙を舞っていた光は動きを止める。発生源は、青い蝶。つまり、普段はずっとコトブキの側にいるホシの魂だった。
『来るな、コトブキ』
今まで一度も意思の疎通ができなかった青い蝶が、奇妙に響く声でそう言った。どこか懐かしい気がする嗄れた男性の声だ。
「、ホシさん……?」
『悪い、コトブキ。オレが生きていた頃の、一番幸せだった時の記憶を捨てきれなかったせいで、こんなことになった』
青い蝶の周囲には子供達の影。たった一人に減ったり、無数とも思えるほどに増殖したりを繰り返していて、人数は定かではない。
「ホシさん、ここはどこ? どうして僕は、僕達はこんな所に……」
問いは黙殺された。いや、ただ単に聞こえていなかっただけかもしれない。コトブキの声はあまりにか弱く、か細く、頼りなかったから。
『コトブキ、オマエは帰れ。引き返せ。この子達に正体を問うてしまったのは、オレであってオマエじゃない。……この子供達と永遠に遊び続けるのは、オレだけでいい』
一瞬、コトブキは言われている事の意味が理解できなかった。しかし、否が応にも理解してしまう。
ホシは、コトブキから離れようとしているのだと。
「っ、なんで、待って……!」
『大丈夫だ、子供の扱いには慣れてる。親離れしようとしない、甘えん坊なガキの相手なら尚更な』
そんな事を心配しているのではない。そう叫ぼうとして、しかし喉が引き攣ったかのようにうまく声が出せなかった。青い蝶の方向に走り出すが、しかし一向に子供達や青い蝶には近づけない。むしろどんどんと遠のいていっている気がする。
「やめて、ホシさん……!」
青色の蝶が、蔵から出ていく殺人鬼さんの後ろ姿と重なった。いくら手を伸ばしても届かなかった、そして何処かに消えてしまったあの人に。
『今度こそ、永遠の別れだ。元気でな、コトブキ』
蝶が告げると同時、視界が濃い霧に完全に覆われる。自分が体すらぼんやりと不明瞭で、上下左右もわからないほどの霧に覆われて、やがて思考すらも霞がかる。
「いか、ないで……」
懇願すると同時に、コトブキの意識は完全に霧に覆われた。
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