第2話
無音。
無明。
無風。
ああ。ここが地獄か。
瞼を開ければ、目の前に広がる世界はきっと悍ましいものなのだろう。血の池地獄だとか、蟻地獄だとか、阿鼻地獄だとか。泣き叫ぶ人がいて、許しを乞う人がいて、叫喚をあげる人がいて、従容と罰を受け入れる人がいて、そしてそんな 人々に鞭を打つ鬼がいて。
怖くはない。地獄程度を怖がるなら飛び降り自殺なんかしていない。
胸を占めるのは、奇妙なまでの安堵。まるで母の腹の中に還ったかのような、守られていると錯覚してしまうほどの安心感。
大丈夫。地獄はただ痛いだけだ。生き地獄と比べたらマシだ。
緩慢に瞼を開ければ、一番に瞳孔に飛び込んでくるのは光。眩しさに視界が眩んで、思わず目を閉じた。しかし、どこかで人の気配がして、それは少女が起きたことに気がついたようだった。
「あ、起きた。ユカリ、起きたぞ」
男性の声だ。年若い青年の、低い声。いや、人ではなくて鬼だろうか。それとも閻魔様か。
「本当だ。ありがとうございます、オドロ」
「コトブキは呼ぶか?」
「今はいいですよ、試験勉強中でしょう? 些事で呼びつけるのも、申し訳ないですから」
青年の声は少女に対して興味が希薄であるように、どこか無関心だ。しかし、想像していた鬼の声とは随分と違う。イメージの中の鬼は、地獄の底のように低いバリトンボイスをしていて、唸るように威圧的に話すものだった。本当に地獄かと疑ってしまうくらい、暗い地中とは不釣り合いに思える。
「おはようございます。聞こえてますか」
なぜだか奇妙にくぐもった中性的な声が聞こえた。先ほどの青年の声とは別物だ。布ごしに話しかけられているかのようだった。
「狸寝入りは効かないぞ。起きろ、ガキ」
耳を思いっきり引っ張られる。痛い。
……想像していたより、痛くない?
鬼やら盲者やらがいるのなら、もっと身が引きちぎれるかのような痛みを想像していたが。
いや、そもそもここは、本当に地獄なのか?
「……!」
「あ、起きた」
「起きましたね」
がばり、と効果音がつきそうなくらい勢いよく体を起こす。どうやらソファに横たわっているらしい体を見下ろし精査した。眠っていたことで服装は若干乱れているが、怪我もないし血痕もない。試しに自分の手首に触れてみるが、とくとくと一定のリズムで脈を刻んでいる。
生きている。
そこにあった感情は、落胆だった。なんだ、死んでないのか、と。
その少女の反応を単なる驚愕ととったのか、青年の声が宥めるように上から響く。
「ま、慌てんなよ。こっちはお前を害するつもりなんて無えから」
「そうですよ。なんでビルから落ちてきたかとか色々訊きたいので、とりあえず落ち着いてください。ほうら、深呼吸しましょう。吸ってー、吐いてー、そう上手」
知らない声に誘導されるままに、少女は大きく深呼吸をする。肺に入り込む空気は、夏の蒸された不快な空気ではなくエアコンによる無機質な冷気だった。
「落ち着いたか」
そう言って少女の顔を覗き込んだのは、二十代前半ほどの男性だった。教会でもないのに黒い修道服を緩く着崩し、セミロングの卯の花色の髪を一つに結って背に流している。首にかかっているのは、ロザリオではなく古ぼけた正二十面体の物体だ。まるで数字の書いていないダイスのように見える。
眦は鋭い形で、それをなぞるように朱が引かれている。和の赤で彩られた瞳は、月白の色だった。
「あの、ここは……」
「ああ、悪かったな、ここは俺達が営利してる事務所だ」
青年はやはりどこか興味がないような態度をしながら答える。
体を起こして周囲を見回すと、そこは確かに地獄と呼ぶにはあまりに現実的すぎる場所だった。
少女は来客用らしき革張りのソファに身を横たわらせていて、丁寧に毛布までかけてもらっていたと知れる。窓はブラインドが閉じていて外の様子はわからないが、光が全く差し込んでいない事からまだ夜である事は察しがつく。周囲を見回して壁掛け時計を見てみると、その針が指すのは九時だった。
病室のように無機質な、リノリウムの床と真っ白な塗り壁。壁際に整然と並べられたいくつもの本棚には、ファイリングされた書類や会談が特集されている雑誌などがきちきちに詰め込まれている。
何かが足りないような気がして首を傾げた。何が足りないのかと考えてみたら、机が無いのだと気がつく。こういったオフィスに書類仕事用の仕事はつきものかと思うのだが、それのための机は見られなかった。従業員が一人しかいないこじんまりとしたオフィス、と言ったような印象だ。
机が無い代わりだろうか、今横たわっているソファが部屋の真ん中に二脚設置され、それに挟まれるようにガラスのローテーブルが設置されている。応接室の中身をそのまま移設したかのようだ。
「ここは……? というか、わたし、死んだはずじゃ……」
「死んでねえよ、さっき脈測ってただろ」
男がわずかに眉を顰める。
「ま、死んでねえのは……たまたま俺らが近くに居合わせてたのが運の尽きだったな。俺一人だったら助けなかったんだが、よりにもよってコトブキが一緒の時にな」
悪かったな、死なせてやれなくて、と男は少し眉を下げる。
「どうやって自由落下する人を助けるんですか……」
「あー、まあ普通に受け止めたら首やらの骨がイカレるがな。よかったな、俺がそこらへん弁えてるやつで。いや、それは不運だったか? まあ良いや」
密かに戦慄する少女に、青年はあっけらかんと答える。カラカラと笑って答えるその様子に、ひどく乾いた印象を抱いた。
「さて、あなたに訊きたい事があるのですが、宜しいですか?」
日常会話の延長のような気軽さで、出所のわからない声が問う。いやだと拒絶すればすぐに引き返してくれそうな、優しい問い。
少女は周囲を見回してみるが、やはりこの部屋にいる人間は自分と目の前の青年以外に見当たらない。しかし、自然と少女は頷いていた。
その瞬間、目の前の青年が空気をしんと冷えさせる。異様な緊迫感が流れて、有無を言わさない強制力のような、返答を誤ればすぐに殺されてしまいそうな、そんな現代ではおおよそ感じることが無いような異様な気配。
生存本能、とでも言うのだろうか。少女の内側の、生物として根本的な何かが激しく警鐘を鳴らす。
「……あなたは」
あなたは人を、呪いましたか。
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