第38話・百済の役(えき)

 翌年、百済が新羅によって攻められ、百済王義慈王とその太子は殺された。百済政府が日本に遣いを送ってよこし、軍事協力を要請してきた。

「百済の遣いが、王子豊璋を百済に帰国させ王位を継がせたい、そして新羅と戦いたいと言ってきた。それで我が国に援助してほしい、我が国の軍と協力して新羅を攻めたいと言うのだ。我はそれに答えたい。どう思う、鎌足」

 葛城皇子は僕に言った。

「天皇はどうお考えです」

「知らん。我に任せると」

「そうですか。私は、豊璋王子の帰国に関しては何の異論もございません。ですが、」

「我が国の軍隊を百済に派遣する、というのは反対にございます」

「なぜだ。このまま百済が新羅に征服されてもよいと申すのか。新羅が半島を占領すれば、次に我が国に攻め込んでくるは必定。今、叩かねばならぬと思わぬか」

 すっかり忘れてた。「白村江の戦い」があった。日本軍を派遣して大負けする「白村江の戦い」がここで来るのか。ああ、言いたい、これは負け戦になる、行ってはダメだと。

「新羅を侮ってはなりません。今はまだ国内を固める時期。新羅だってそうそう海を渡って攻めては来ないでしょう。百済のことは百済に任せ、大陸に兵を出すのはもっと国力がついてからになさいませ」

「ああ、国内の律令とか税制とか、もううんざりだ。我は退屈なのだ。我は豪華な宮に住み、遊んで暮らすために生きているわけではない。許されるなら自ら海を渡り新羅と戦いたいくらいだ」

「それはおやめください」

「わかっておる。だから半島に一番近くから指揮を取れる筑紫に本陣を置こうと思う。それなら問題はなかろう」

「いいえ、出兵はおやめください。この戦さ、勝ち目はありませぬ」

「勝ち目はないだと。新羅と戦って負けたことなど今まで一度もないぞ。なぜそのように考える」

「え、あの……私には、未来が見えるのでございます」

「フッ、何を言い出すかと思えば。上宮太子のようにか? 」

「はい、ですから」

「笑止千万。そなたが未来が見えると言うのなら、叔父上ももっとうまくいっただろうし、有馬皇子の謀反も未然に防げたであろう」

「そ、それは……」

 僕が日本史をちゃんと勉強していなかったからで。

「何を言っても無駄ぞ。豊璋王子は我に言っていた。もし豊璋王子が百済の王位につくことができたなら、任那加羅を日本の領土としようと。どうだ、鎌足。何百年もの間、過去の天皇が誰も叶えなかったことを、我が叶えるのだぞ。我の名は天長地久語り継がれる」

 豊璋王子、余計なことを言う。

「今は我が国のことを一番にお考えくださいませ。大陸の戦いに首を突っ込むのはおやめください」

 必死に止める僕に、皇子は冷ややかに言った。

「我は血が見たいのだ。兵たちが命をかけて刃をふるい合う。戦場をこの目で見たいのだ」

「そのような恐ろしいことをおっしゃるとは」

「我がこのようになったのはそなたのせいぞ、鎌足」

 葛城皇子は薄寒い微笑みを口元に浮かべ言った。

「あの日、鞍作臣の血飛沫が飛び散り我の白い衣を染めた。その時初めて我は、この身体が血沸き肉躍り、生きていると感じたのだ。今思い出してもうっとりする。あの高揚感、忘れられぬ。兵を集めただけで戦さにならなかったのが口惜しい。あの時叶わなかった戦さを、今するのだ」

「なんということ」

 僕は若き日の葛城皇子の面影を見た。

「今さら何を驚いているのだ。我をこのように育てたのは鎌足、そなたではないか」

「そなたがこれまで教えたことは全て我の糧となり、身体の隅々まで行き渡り、今日の我を作ったのだ。真に感謝している」

「ああ……」

 僕は崩れ落ちた。全て僕のせいだったのか。現在ある葛城皇子は、僕が作り上げたものだったのか。

「怖気付いたか。ならばそなたは京に残るが良い。そのような臆病者に戦えはしまい。どうせ誰か留守居が必要だと思っていたところだ。大友皇子と共に飛鳥京の留守居を命ず」

「皇子、しかし」

「案ずるな。我は必ずや勝利し、すぐに帰ってくる」

「もし我が戻らなかったら」

 葛城皇子は僕を見据えていった。

「この国はそなたにくれてやる。好きにするが良い」

「え」

 僕の顔面から血の気が引いたのを見て、葛城皇子は満足そうに言った。

「ふっ、戯言よ。真に受けたか」

 葛城皇子は煌びやかな装飾が施された短刀を手渡した。

「我が留守の間、大友皇子を守り、そなたがこの京を統べよ」

「皇子……」

 もしかしたら葛城皇子は、僕が謀反を起こすのを本気で期待しているのだろうか。


 翌日、群卿会議が開かれ、葛城皇子は言った。

「百済から遣いが参られた。我が国に住んでいる百済の王子豊璋に王位を継がせたい、そして新羅と戦いたい、と、我が国との協力を仰いできた。百済と我が国とは唇歯補車。我は、豊璋王子を百済に帰国させ、また、援軍を送りたいと願う」

「誰か、異議のあるものはいるか」

 葛城皇子の中ではもう決まっていることだ。いったい誰が葛城皇子に反対意見を言えよう。以前反対した高向玄理は今はいない。

「ないようだな。では決定だ、百済へ援軍を送る」

 葛城皇子は王子豊璋を百済へ送り出し、百済救済のための出兵を決定した。



 そうして翌一月、葛城皇子は難波の港から西へと旅立っていった。天皇をはじめ、大海人皇子、間人皇女や皇子の妃たちも一緒に船に乗った。軍隊は半島に近い筑紫に駐屯し、筑紫の宮に大本営を置き葛城皇子が軍の指揮を取るのだと言う。

 僕は飛鳥に残り、右大臣蘇我連子と共に、執務と官人たちの管理業務を任された。

 大友皇子を飛鳥に残すのは、葛城皇子なりの危機管理だろう。有間皇子の件では、皆が飛鳥を留守にしているその間に京を占拠するという計画が立てられた。今回、近衛兵の半分を天皇や皇子たちの警護として筑紫に連れて行き、半分を京に残した。佐伯子麻呂も京に残った。

 留守居の僕は、近衛兵を任されている。もし飛鳥で不穏な動きが見られたら、僕と子麻呂の裁量で兵を動かし対処せよと、葛城皇子から言われていた。



 それから間もなくのこと、国子叔父が僕を訪ねてきた。

 僕の父の殿様が死んでから、僕はずっと国子叔父の家に毎年末に挨拶の品を届けていた。それはお中元お歳暮のような儀礼的なもので、親しく親戚付き合いをしていたのではない。僕が神祇伯を断って軽皇子の参謀になってからは仕事で会うことはほとんどなく、プライベートでも、冠婚葬祭以外では会うこともなかった。最後に会ったのは、三年前、国子叔父の息子国足とその妻が相次いで流行病で死んだ時だ。

 僕は、年下の従兄弟の国足と親戚の中で一番親しかった。腹違いの弟よりも弟のような存在だった。国足は、叔父に似ず気のいいヤツで好きだったが、早くに死んでしまい残念だ。

「どうしたんですか、改まって」

「今日は、鎌足殿に頼みがあってきた」

 国子叔父は、息子が死んでから一気に老け込んだように見えた。

「俺も歳をとって、いつ兄貴んとこに行ってもおかしくない歳になった。ただ心配なのは、国足の子、意美麻呂おみまろだけが」

 他にも国足の子はいたのだが、幼くして死に、成人できたのは意美麻呂ひとりだ。その意美麻呂も成人したばかりで、まだ一人前とは言えない。

「俺がいなくなった後、意美麻呂は、この家はどうなるのかと思うと、心配で夜も眠れない」

 国子叔父らしくない情けない声を出した。

「それで鎌足殿に、意美麻呂のことを頼みたいと、今日参った」

「そうですか……」

 今まで、僕が内臣になろうとどうしようと、決して頼み事をしてこなかった叔父だ。よほど切羽詰まって考えたのだろう。

「国足の子なら、僕もかわいく思います。同じ中臣の出身。意美麻呂の後見を私が務めさせていただくというのはどうでしょうか」

「おお、鎌足殿……。この御恩は忘れない」

 国子叔父は、涙を拭いながら頭を下げた。叔父のこんなに気弱な姿を初めて見た。


「親戚だし、いいかな」

 国子叔父が帰った後、鏡王女におずおずと打ち明けた。

「殿がそうお決めになったのなら、よろしいと思います」

 鏡王女はあっさり了承した。

「ふう」

「でしたら、例えばですが、トメの婿とするのはどうでしょう」

「トメの婿? 」

 自分の中では、トメを有間皇子、ミミモを大友皇子の妻に、と思っていたのだが、有間皇子が死んでそれがなくなった。

「単なる後見だと、この先結婚相手を考えたりしなければならないでしょう。トメさえよければ、の話ですけれど。トメの嫁ぎ先も、これから考えねばならなかったところですし、どうかしら」

「ふ……む」

 早速、トヨを呼んだ。

「殿様と奥方様がお考えになったこと、それでよかろうと思います。トメも素直に受け入れると思います」

「おお、そう言ってもらえるとありがたい。では、トヨからトメに話して……」

「殿からお話しすべきです」

 鏡王女がピシャリと言った。

「このような大事な話は、殿が直接お話しすべきです」

「はい」

 シュン。


 トメを呼びに行かせ、僕は、トメと向かい合って二人きりで話した。

「実はな、トメ」

 衝立の向こうに鏡王女とトヨが聞き耳を立てているのはわかっている。僕がとんでもないことを言い出したら口を出してくるつもりだ。

「中臣の国子叔父の家の意美麻呂を知っているね」

 親戚の集まりで何度か顔を合わせたことはあったはず。

「はい」

「意美麻呂の妻になる気はないか」

「というと、私が意美麻呂様と結婚」

「あ、いや、トメが嫌だと言うのなら無理にとは言わない。断ってもよいのだ」

「私は……有間皇子様があのようなことになった時に、人生というものは思い通りに行くものではないと知りました」

「嫌、か」

「かか様からずっと言われていました。いつか望まない結婚を強いられるかもしれない。でももし嫌だったら嫌だと言いなさい。とと様はきっと無理強いはしない。とと様は、トメが不幸になる結婚を望んではいないから、と」

 僕は胸に、ズン、ときた。

 子供の頃はマヒトと結婚させようと思っていたし、それともなければ有間皇子の妻にと思っていた。それが今は、マヒトは出家し、有間皇子は死んで、トメの心は傷ついていたのだ。

「申し訳なかった」

「何を謝るのです。私は大丈夫です。とと様がおっしゃるのでしたら、私は意美麻呂様と結婚いたします」

「お」

 鏡王女とトヨがなだれ込んできた。

「良いのですか、本当に」

「嫌なら断ってもいいのですよ」

「他に思い人がいるのでしたら」

「今ならまだ、間に合います」

 何なの、この人たち。自分たちが勧めたくせに。

「大丈夫です。嫌ではありません。ご心配は入りません、キミ様、かか様」

 そう微笑むトメは、僕が思っているよりずっと大人の顔をしていた。

 僕は泣きそうになる。


 僕は国子叔父の屋敷に行ってその話をすると、国子叔父は大喜びした。

「それはいい! よし、そうと決まったら結婚式だ。いつにするか、良き日を占おう」

「叔父上、意美麻呂の気持ちも聞かないと」

「何を聞くことがあろうか。嫁に来てくれるというのを嫌がる男がどこにいる」

「では、意美麻呂が二十一歳になったら」

「何、悠長なことを言ってるのだ。今すぐだ。俺が死んだら喪に服して先伸ばししてる内にそなたの気が変わっては困る」

「えええ」

 この間はあんなに弱気な顔見せてたのに。やっぱ本質は変わってないわ、この人。


 僕は国子叔父に急かされ、叔父の屋敷の隣にトメのための別宅を作り、そうして春、トメと意美麻呂の結婚を行った。

 髪を綺麗に結い上げ紅を差したトメを、意美麻呂が迎えに来た。僕に挨拶をして、意美麻呂の妻となるトメはこの屋敷を出ていく。

 横で鏡王女が脇をつつく。

「涙が出ていますわよ、殿」

「なんだか、せっかくの皇子の妃になる教育が無駄になってしまったな」

「そんなことありませんわ。意美麻呂様も将来は宮殿にも出入りするようになりますし、貴族社会でのお付き合いもありましょう? 教養があるのは、中臣の正妻として素晴らしいことですわ」

「そうか、そうだな」

 よくわからないが、娘を褒められるのは純粋に嬉しいから、いいか。

「直に殿にも孫ができますね」

「……え? 孫? 」

 がああああん。この若さで僕が「じいじ」だとお? いやいや「じいじ」はない。「とと様」は嬉しいけど「じいじ」は僕の美意識が許さない。「じっちゃん」……の名にかけて。違〜う。「おじいちゃま」「じじさま」……ああ、ここで「孫になんて呼ばせるか問題」が発生。

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