第11話・南淵請安塾
「天皇は近頃また体調がすぐれないらしいぜ」
子麻呂が案じ顔で言った。
いつものようにスナックがわりにされた僕の部屋に、いつものメンバーが集まっている。
「今年も有馬へ行かれるかも。大丈夫なのかな」
勝麻呂も言う。
「しょっちゅう療養だと言って、最近では年の半分近く、京を留守にされておられるからなあ」と網田。
「だから大臣に好き勝手にやられてしまうんだよ。どっちが天皇かわからないよ」
「このまま、天皇の体調が良くならなかったら、どうなってしまうのだろうねえ。太子も決めていないのに」
「それだよ。重要なのは」
「山背大兄がいるではないか。それでよかろう」
「今さら山背大兄はないんじゃないの。もう過去の人だろ」
「年齢だって天皇とそう変わらないし。すぐにまた交代するようになっちゃうんじゃないかなあ」
「第一、大臣がだまっておるまい。古人大兄を推したいのだろ」
「古人大兄はまだ若すぎるよ。皇后が納得すると思う? 当然、ご自分の子、葛城皇子を位につけたいに決まってるよ」
「しかしなあ、長男の古人大兄を先に天皇にしなければ、大臣が納得しまい。鎌足、そなたは誰だと思う?」
「軽皇子だな」
「軽皇子というと、皇后の弟の」
「まあ、鎌足は軽皇子と親しいし、軽皇子贔屓だからなあ、気持ちはわかるけどお」
「皇后はきっと、葛城皇子のために、古人大兄も山背大兄も位につけたくはないはず。そうしたら必然的に軽皇子しかおられない。葛城皇子が相応の年齢になるまでの時間稼ぎさ。阿倍臣もそう読んで娘を軽皇子に嫁がせたんじゃないのかな」
「ううむ。しかも阿倍臣の娘は男子を生んでるからね、阿倍臣は推すかもしれないね」
「俺は、我が一族が繁栄すれば、誰が天皇となっても誰でも構わないぜ」
「もし古人大兄が天皇になれば、さらに大臣の力は強くなるんだろうなあ」
「まあ、そうだろうね」
「だからさ、軽皇子が天皇になったら変わるかもしれないよ。いずれきっと子麻呂のような能力がある人物が正当に評価される日が来るとかさ」
こうして人々に軽皇子が天皇になるイメージを少しずつ植え付ける作戦。以前、子麻呂が言ってたことと同じで、日々のこういった地道な努力が大切なのだ。
十月になった。旻法師の学堂に行くと、遣唐使の帰国の話で持ちきりだった。
「先日帰国した南淵請安(みなぶちのしょうあん)様と高向漢人玄理(たかむこのあやひとくろまろ)様、旻法師と一緒に唐へ渡った留学生だったらしいぜ」
旻法師の同期か。
「旻法師とはまた違う学問をそれぞれ学んでて、すごい方たちだって旻法師がおっしゃってたよ」
「一度、講義を聞きたいものだなあ」
僕はその日の講義の後、旻法師に呼び止められた。
「既に耳にしていると思うが、拙僧と交友のある南淵請安様と高向玄理様が唐から帰国しました」
「はい」
「高向様は天皇にお仕えする国博士となるけれど、南淵様は、長年の異国の生活と長旅で健康状態が良くないらしく、自宅で静養しながら人に学問を教えようと考えておられる。南淵様は優れたお方です。塾が開いたら、鎌足連も一度足を運んでみるとよいですよ」
高向玄理の名は微かに聞き覚えがあるが、南淵請安は知らない。誰だっけな。もっと真面目に日本史勉強しとけばよかった。
年が明けると僕は、殿様がやっていた中臣家の正月を継承して弟たちを呼んだが、殿様の妾さんは来なかった。弟たちも成人しているし、会食だけで宿泊せずに帰って行った。静かに過ごせてよかったのだけれど、何だか寂しい正月だった。
その後、旻法師から、南淵請安が京の奥に庵を構え、塾を開いたと聞いた。縁者だという男が住み込みで身の回りの世話をしていて、数人の弟子が毎日のように集まっては勉強会を開いているらしい。
教えられた通り、京の中心から離れた山の麓、稲淵の棚田に囲まれた道を登っていくと、古い家屋があった。庭で農作業をしている若い男がいる。
「南淵請安先生とお会いしたいのですが」
男が手を止めた。
「どなた様で」
「中臣連鎌足と申します。旻法師の紹介で来ました」
「……お待ちを」
男は奥に消え、少しすると出てきて入り口を指した。
「どうぞ」
愛想のない男だ。
入るとそこは広い土間になっていて、木の箱椅子や床几がいくつか置いてある。土間の横の座敷で、たくさんの本と紙に埋もれて請安先生は膝を崩して座っていた。
「貴公が中臣連鎌足か」
病人にありがちな神経質そうな顔つきで、気怠そうに僕を見た。
「旻法師の学堂に通っているそうだな。面白いか」
「はい。とても興味深く、勉強させて貰っています」
僕は土間に立ったまま答えた。
「貴公はどうして勉強するのだ? 」
「ただ知らないものを知りたいと思うだけです。私は、知識や学問は人生をより豊かにするものだと思っています」
「そうか。……ところで貴公はこの国に満足しているか」
僕は咄嗟にどう答えていいかわからなかった。僕の答えを待たずに請安先生は言った。
「俺は大陸の隋という国に留学した。大陸には学ぶことがたくさんあって、俺は、それまでなんという狭い国で生きていたのかと痛感した。必死で勉強し、そろそろ帰国を願い出ようかと考えていた十年目、あれほど強大だった隋が滅び、新しい国、唐が成立した。わかるか。国が滅びるのだ。隋の皇帝や高官は殺され、国内はずいぶん混乱した。幸い、新しい国でも日本からの留学生を援助する姿勢は変わらず、俺はそのまま唐の官人として勤めることができたが」
たいへんな人生だな。人のことは言えないけど。
「どんなに栄えた国でも、やがて滅び、新しい国が興る。自分の目で見て自分の身で感じたそれらのこと、書物より何より勉強になった。では、この国は、このまま行くとどうなると思う」
「えっと……、どうもならない、と思います。このまま何の変化もなく」
「そう。俺もそう思う。海の向こうの国々がどんどん変わっていくのに、この国だけはいつまでも変わらず、世界から取り残されていく。こんな国の有様を見るために、俺はこの国へ帰ってきたのか」
「俺が留学生となって海を渡った若い頃、上宮様の下でこの国は大きく変わろうとしていた。上宮様は国というものを造ろうとしていた。それが今はどうだ。あれから三十年も経つのに、この国は俺が国を出た時と何ら変わっておらぬ。上宮様がいなくなって時が止まってしまったようだ。天皇も大臣も、地方の豪族の顔色を窺ってばかりで改革を進めようとしない。誰も何もやらぬ。少しずつ変えようなんて生ぬるいことを言っていてはだめだ。制度改革をするには一気呵成にやらねばならぬのだ。文句を言う者たちもいずれは慣れる。しかし今の天皇にも大臣にもそのような力がない。これが大陸の国ならば、誰かが事を起こすかもしれないのに、この国は呑気だ」
「呑気……」
僕の生活そのものだ。
「そうだ。皆、今の生活がいかに効率が悪かろうと、それまでのやり方を変えようとしない。改革には労力がいる。その労力を惜しんで、衰退する道を歩んでいることに気づかないのだ。大陸の国だったら、とっくに滅ぼされている」
「俺はこの国を変えるために帰ってきたのだ。そのためにはこの命を捧げるつもりでいる。貴公にはその覚悟はあるか」
僕は軽皇子を天皇にしようと思っていても、特に世の中を良くしようという心意気があるわけじゃない。石川麻呂や佐伯子麻呂たちがもっといい暮らしをできるように、とは思うけれど、国の改革なんて考えていなかった。
「……」
「ふっ、覚悟など持ってなくとも構わぬわ。これからここに通って来るがよい」
請安先生は、柔らかい口調で言った。
僕は入塾試験に合格したらしい。
その日から僕は、稲渕の請安先生の塾に時間が許す限り通った。
先生の塾は、六日に一度、先生が講義を行い、その後、有志の弟子たちで討論会をする。先生は議論の様子を見ながら、時折意見を言う。先生の講義は誰でも聴講できるが、討論に参加できるのは、僕のように先生に入塾を許された人間だ。
旻法師の塾に通うのは皇族や貴族の子弟ばかりだが、ここは中級、いや、下級豪族がメインのようだ。
請安先生は、どこか人を惹きつけるカリスマ性を持っていた。まるで吉田松陰のようだ。僕は幕末の歴史にあまり詳しくないが、吉田松陰くらいは知ってる。幕末の藩士たちが松下村塾に集まり世の中を変えようとした。彼らも、こんな気持ちだったのかもしれない。
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