第41話・藤の花
百済の役の戦後処理もまだ終わっていないその年の秋に、右大臣蘇我連子が病死した。左大臣は巨勢臣が死んでからずっと空席だ。これで左右大臣がいなくなった。
「後任をどうしましょうか。大臣にするには皆、経験不足な人間ばかりですが」
今、大臣にふさわしい人材がいない。前政権の大臣の弟や子供ら、阿倍臣の息子、大伴叔父の息子、巨勢臣の息子もまだ若すぎるのだ。石川麻呂の長男が生きていればちょうどよかったのだが、あの時一緒に殺されてしまった。今さら言ったところでどうにもならないが。
「そなたを大臣にしようか」
「お断りします」
「即答か」
「私は貴方様の影として、これまで数々の策謀に関わってきました。表舞台に出てはならない人間です」
連の人間を大臣など前例がない、と、どうせまた皇族やらに反対される。
「影、か」
「しかし、有力な豪族はちょうど代替わりで、若い人ばかりですからね。かといって、群卿以外の人間をいきなり大臣にはできませんし」
世が変わった今でも、群卿と呼ばれる古くからの豪族が政治の中心となっている。大臣は群卿から選ばれるのが通例だ。群卿以外の人間を左右大臣にするなんて、国会議員でない人間を総理大臣にするくらい非常識なことだ。
氏族に捕われず有能な人間を取り上げようとしても、頭が古いままの人間がまだ多くいる。大化の改新で身分制度はずいぶん変わったはずなのだが、群卿に新しい氏族を入れようとしない。案外反対するのが皇族だ。僕が若い頃、佐伯子麻呂を出世させようと思っていたら、ある皇族が「佐伯氏を群卿に? 冗談でしょう」と鼻で笑った。
「まあ、そなたがいれば、大臣など必要ないのだがな」
「皇太子、お話中恐れ入ります」
舎人が部屋の外から声をかけた。
「なんだ」
「嶋の宮からお遣いが」
「ああ? 」
葛城皇子は部屋を出ていった。
嶋の宮というと、嶋皇祖母の宮のことだ。また何か問題が起きたのだろうか。
皇子はすぐに戻ってきた。
「嶋皇祖母が薨去なされた」
「え……」
僕にとっては好都合だが、人の死を喜んではいけない。
「それは、大変ご愁傷様でございます」
「あの歳まで生きたらもう十分だろう。天寿を全うしたのだ」
これで葛城皇子の即位に反対する皇族の声も小さくなるかもしれない。
「では、大臣の件は保留ということにして、当面は群卿の合議制にし、まとめ役を私が担当しましょう。皇子が即位なさる時に左右大臣を決めましょうか。皇子が即位なされば多少若い大臣でもどうにでもなりましょう」
「じゃあ、もう少し時が必要だな」
しまった。即位を伸ばす口実を与えてしまった。
相変わらず葛城皇子は追われているかのように、大陸の脅威に対抗する防衛施設の造営に力を注いだ。
そんな中、間人皇女が病気となり、薨去した。
葛城皇子は嘆き悲しみ、丸一日、遺体のそばから離れなかった。放っとけばずっと食事も取らずにいただろう。
葛城皇子は、母親の宝皇女が死んだ時と同じように数日間、白装束を着て政治を行なった。本来なら実妹とはいっても他人の妻なのだからそこまでの服忌は必要ないと思われるのだが、もう彼に何か言う人間は誰もいない。
間人皇女が薨去してひと月ほど経って、葛城皇子は僕を宮庭の散歩に誘った。誰にも聞かれたくない話があるのだ。
整えられた庭の池のほとりに藤の花が咲き始めている。
葛城皇子はは立ち止まって藤の花に目をやった。
「ああ、花が美しいな。悲しくても、花は毎年咲くのだなあ」
「前にもそんなことがありましたね。私も、どんなにつらく悲しいことがあっても、花を見て美しいと思える心がまだあると、私はまだ生きている、と感じるのです」
「……鎌足は藤の花は好きか? 」
「そうですね。薄紫の、最上級の紫でない花の奥ゆかしさが好きでございます」
「面白いことを言う」
葛城皇子はいつもと違う感じがした。
「……そなただから正直に言うが、ほっとした気持ちもあるのだ」
葛城皇子は藤の花を見つめたまま、言った。
「母上が薨去されてから、妹は我につらく当たるようになった」
僕は何も返さずただ聞いていた。
「自分の人生はめちゃくちゃにされた、子を産み、穏やかな人生を送りたかった、我が自分をおもちゃにした、と」
「驚いた。妹がそのようなことを言うとは思わなかったのだ。ずっと我のことを好きで側にいてくれると思っていたのに」
「生まれた時からずっと、読み書きを教え、草花の名を教え、共に遊び、大切に育ててきた。他の男に渡すなど、考えられなかった。それなのに」
「恨みがましいことを言う妹を、遠ざけたいと思うようになった。死んだ時にはもちろん悲しかった。でも、どこかでほっとしたのだ」
「我を非道い人間だと思うか」
「……ええ」
「そうか。そうだろうな。そなたも妹と同じように、我を恨むか? 」
「それは……違いますが」
「まあ、どうでもよい。もう終わったことだ。鎌足、我は天皇になるぞ」
「はい」
「そなた、礼儀を撰述し、律令を刊定せよ」
「わかりました」
「それから、新しい京を置くに良い地を選べ」
「ちょ、ちょっと待ってください。礼儀と律令は解ります。新しい京ってなんです。散々この飛鳥に宮を作って石垣を作ったじゃないですか。どうするんです、この飛鳥京」
「飛鳥は飛鳥。だが、我は飛鳥ではない新しい京で即位する。その地を我が息子、大友皇子の京にしたい」
「先の天皇の時を覚えておられますでしょう。人民は難波への遷都をよく思っていなかった、だから皇子が飛鳥に戻ると言われた時に皆が従ったのですよ。また同じことを」
「だから、大友皇子のための京だと言っておるだろう。我の時代に京を整備して、大友皇子が立派な京で即位できるようにしてやりたいのだ」
親バカ……。
「多くの屋敷を作るのは大変な労力が必要なのですよ。難波でも、どんなに大変だったことか。今は要塞や堤防だけでも手が足りないくらいですのに」
「だから、まずは宮殿だけでよい。百寮は飛鳥で仕事をし、大友皇子が即位するまでの間に京を整える。それでよかろう。京が完成したら、そこで皇子の太政大臣任命式の式典を大々的に行ってもよい」
この人は、軽皇子が行なった「白雉の儀」にずーーーっとライバル意識を持ってるよね、絶対。
「しかし、遷都はいかがなものかと」
「そなたも覚えているだろう。上宮大兄が滅びた時のことを」
「ええ? 」
「あの時、もし上宮家の所領が飛鳥の付近にあって、即刻、部民を招集して戦ったなら滅びずに済んだかもしれないと言われていた。だから我は、大友皇子の味方で囲まれた地を京にしたいのだ。わかるだろう。そういった地を考えよ」
「ええ、わかります。ですが、あの時と違って、大友皇子には敵がありませんでしょう。何を恐れているのです」
「……革命だ」
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