第40話・二年後

 僕の予感は当たらなかった。

 それから二年後、葛城皇子は帰京した。傷ついた姿で。


 天皇の急死後も、葛城皇子は思い止まることなく、皇太子の名で新羅への行軍を進めた。しかし僕が知っている歴史通り、日本軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍の前に大敗を期した。白村江の水面は血で赤く染まり、多くの日本人が死に、また捕虜になったという。そうして百済の都城は陥落し戦いは終わり、日本軍も引き揚げてきた。


 多くの兵を失い、しょげかえって飛鳥京に戻った葛城皇子は、僕の姿を見ると項垂れた。

「そなたの言うことを聞いていればよかった。我はもう終わりだ」

 彼にとって初めての敗北であった。

「そんなことはありませぬ。皇子はまだこれからです。この鎌足がついておりまする。天皇となり、二度と他国に負けぬ国を作ればいいのです。約束したではありませんか。私が皇子のお側でお支えいたします」

 僕は、皇子の肩を抱いた。

「鎌足……」

 葛城皇子は僕の前でむせび泣いた。

 ああ、結局僕は、この皇子と離れられない。



 その後、葛城皇子は即位の礼を挙げないまま政を執った。間人皇女の問題もあったが、百済の役での敗戦が葛城皇子の求心力を弱めたこともある。多くの死傷者を出し苦労した戦いであったのに、敗戦だったため、報償を出せなかった。豪族たちに不満が高まり、葛城皇子がすんなり即位できる空気ではなくなったのだ。

「このような状態では、他国に付け込まれます」

「わかっておる。だが今は、百済の役の対処が先決だ。急ぎ防衛施設を作る」

 仕方ない。僕は、葛城皇子の即位の障壁をひとつひとつ取り除いていくことにしよう。

 まず、豪族たちに百済の役の報償を出せなかったことへの対処だ。

「彼らの不満の声を抑えるために、冠位を増やして与えましょう」

「冠位を? 」

「ええ、与える物がないなら、地位か名誉を与えればよいのです。名誉など、いくら与えても懐は痛みません」

 それでも葛城皇子は、異常なくらい頑固に即位を拒んだ。



「まだ、嶋皇祖母(しまのすめみおや)が反対しておられるのかしら」

 鏡王女が言った。

「え? 嶋皇祖母? 」

 嶋皇祖母というのは、亡き舒明天皇の母親、糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)のことだ。葛城皇子にとって父方の祖母である。

「嶋皇祖母は皇太子を認めておられないと有名ですから」

「全く知らなかった。なぜ」

 僕ら一般人はなかなか皇族内の事情を知り得ない。その点、鏡王女には皇族ネットワークがある。

「元々、嶋皇祖母は同じ嫁でも古人大兄のお母上をかわいがっていらして、宝皇女には厳しかったのですけれど、古人大兄の事があってからはさらに厳しくなって……。ご自分の目の黒いうちは葛城皇子の即位を認めません、と皇族の皆の前で言っておられるほど」

 こんな昔から嫁姑問題はあったのだ。

「そうか、古人大兄も嶋皇祖母の孫だったな。しかも初孫か。その古人大兄の命を奪ったも同然の葛城皇子を許せないと」

「あと、妹君との関係も。真偽はわからないとしながらも、そのような噂があるだけで他の皇女との結婚が難しくなります。年配の皇族はしきたりを重んじますからね」

「ああ」

 やはり皇族にも知られていたんだ。

「さすがの皇太子も嶋皇祖母には頭が上がらないのですわ。単にお祖母様というだけでなく、皇族の最長老で、皇祖母であられますもの」

 皇族のドンみたいな感じか。

「もしそれでも皇太子が押し切って即位したらどうなる? 」

「まあ、色々ありましょう。皇族が政に協力しないとか、大友皇子を後継にしようとしても皇族全員が反対するとか。今も、皇太子が后を立てようにも誰も皇女を嫁がせませんし。皇族の結婚って、普通は天皇の許可が必要なのですけれど、宝皇女が天皇になってからは嶋皇祖母が仕切っておられますからね」


 この時代、天皇が死んだ後、推古天皇や宝皇女のように皇后が中継ぎとして即位することもあった。そうなると、皇后は皇族でないといけない。皇族の協力を得られず、皇后を立てることができないとなると、豪族たちから天皇として認めてもらえない。


「はあ、なるほど。でも、貴女や妹君はどうして」

「あら? 皇太子から聞いてらっしゃらないのかしら」

「いや、ただ、自分の妻だった女性を僕の正妻にちょうど良いから譲る、と言われただけで」

「クスクス、まったくあの方は」

「私の母は顔見知りだった宝皇女から頼まれましたの。私を皇太子の妃に、妹を大海人皇子の妃にと。私たち姉妹は父を亡くし、あのような状態でしたので、母は深い考えもなく受けたのですけれど、それが後から嶋皇祖母に話を通していなかったと、大騒ぎになりまして、嶋皇祖母は宝皇女を宮へ呼んで説教したとか」

「天皇を呼びつけて説教? 」

「いえ、あの時は軽皇子が位におられました。それで、大海人皇子は皇太子と違って評判は悪くなかったし、間もなく子ができましたので妹はそのまま妃に。ですけれど、問題は皇太子ですわ」

「恐ろしくて聞きたくないけど聞きたい」

「騒動の最中に采女に子ができましてね、まあ、皇太子らしいと言えばらしいのですけれど」

「ああ、わかる気がする」

 空気を読まないからな、葛城皇子。

「それでまた顰蹙を買い。とはいえ、結婚してしまったので、嶋皇祖母も譲歩して条件を出しまして、私との間に男子が生まれたら皇后にして即位してもよい、男子が生まれなければ葛城皇子でない他の皇子を立てよ、と」

「あ! わかった! だから、軽皇子が譲位したいと言ったら嫌がってたんだ」

「まあ、そうかしらね」

「それで軽皇子が身罷られた時、他の皇子を立てるよう言われ、苦肉の策でお母君が重祚なさって。嶋皇祖母はご高齢、そのうちになんとかなると思っていたのではないかしら。他の皇族はどうにでもなりましょうし」

「はあ。でも、そうしたら、貴女はそのまま妃でいたら皇后になれたのではないか? 」

「いえ……、皇太子が大友皇子を後継にしたいのはご存じですわね」

「うむ。あ、貴女が男子を産んだらそれはそれで困るという」

「ええ、皇太子と私は性格が合わなかったこともありますし、足が遠のいたのですけれど、それを私の母が、不誠実だと責めたところ、もうゴタゴタが面倒臭くなったのでしょう、自分より良い男性がいるから私を譲ると言って」

「それが僕か」

「ええ」

「……」

「これも、縁ですわ」

「そうだな、僕としては、これでよかった」

「ええ、私も」

 ほんわか。

「殿が皇太子とこれほど親しくなければ、きっと今頃、他の皇子を立てたいから協力するようにと、嶋皇祖母から話が来ていたかもしれませんわね」

「なるほどね。まあ、長生きなのはよいことだけど……」

 若い日の僕なら、なんらかの手を打ったかもしれないが、今の状況で何かしても、下手すると皇族全員を葛城皇子の敵に回すことになり、他の皇子を立てる動きに繋がりかねない。ただでさえ人気がない葛城皇子、それを機に豪族たちも動くかもしれないし、国が荒れる。

「待つしかないか」

 しかし、もっと早くに鏡王女と出会っていれば、軽皇子の苦境を救えたのだろうか、とちょっと残念に思った。



 さて、即位問題の一方で、僕は、大陸の国々との戦後処理の駆け引きをしなければならない。

 大参謀モード、再起動。ウィィィン。


 飛鳥京に将軍たちが帰ってくると、僕は葛城皇子に群卿会議を開くよう要請した。

 その会議の事前準備として、将軍、副将軍など、それぞれ個別に話を聞いた。

「城を取り戻し途中までは優勢だったのです。ですが豊璋王子が」

 ひとりの将軍がこっそり言った。

「我が国に豊璋王子のご帰国と援軍要請の遣いを送ってきた将軍鬼室福信、彼が百済軍の中心となって軍をまとめていたのですが、その様子を見ていた豊璋王子が、福信を脅威に感じたらしいのです。自分と福信とどちらが王だと言い出しまして」

 誰かと似てる気がする……。

「福信に謀反の容疑をかけ殺害してしまったのです。そこから百済兵士の心が離れ、士気が下がり、白村江の敗戦につながったのではないかと」

「なんと。士気が下がっている時なら誰かを裏切り者にして心をまとめるという方法もあるが。彼は戦さをしたことがないから、わからなかったのでしょう。で、豊璋王子は今いずこに」

「城が落ちる直前、城を出て舟で高句麗に向かったという話ですが、それきり何も……。でも、皇太子は豊璋王子と懇意になさっていたので、このような話は御耳に入れられないかと」

「そうですね。今さら豊璋王子の責任をどうこう言っても仕方ありませんし、我々の心の中だけに留めておきましょう」

 やってくれたな、豊璋。


 そうした話を踏まえ、僕は群卿会議で言った。

「敗戦は済んだこと、仕方がありません。この後、唐や新羅との関係をどう築くかが重要です。新羅も百済も我が国に朝貢していました。我が国は、少なからず百済、また任那に関する権利を有しておるのです。黙っていたら、百済や任那に関する権利を全部、唐に持っていかれます。唐とも新羅とも敵対するつもりはないことを示しつつも、我が国が侮られるような交渉は致しません」

 久しぶりに大参謀の血が騒ぐ。

「将軍たちの話を聞いたところによると、途中までは優勢だったとのこと。新羅もおそらく我が軍の強さを脅威に感じていることでしょう」

「ええ、我が軍が優位に進めていました。もうひと押しだったのです」

「唐は、百済を外藩とし支配下に置くそうで、わが国とも和親条約を取り決めたいと言ってきています。ということは、唐はわが国とこれ以上争いたくはないと思っているのです」

「そうでしょうか」

「ええ、生き残った百済の王族たちは我が国や高句麗に避難しています。唐は百済の民が再び彼らを立てて決起するのを警戒しているようです。我が国としては、できるだけ有利な形でなければ条約を受け入れない、と、場合によっては百済をまた取り戻すぞというくらいの態度でいいと思います」

「そのような強気なことを言って大丈夫なのですか。我が国が新羅や唐に攻められることには」

「今、唐は高句麗との戦いで精一杯です。これから新羅は唐に従って高句麗攻めをしましょう。高句麗は我が国に協力を求めてきています。我が国の軍は負けたとはいえ、善戦しました。我が国の怖さを新羅は十分知っています。高句麗との戦いに戦力が向かっている間に後ろから我が国に攻められるのを恐れています。唐にとっても同じことです。わが国と高句麗が手を組むのが怖いのです。唐と高句麗との戦いが続いているうちに、我が国は有利な条件で和親条約を結ぶのです。我が国は、高句麗が健在でいる限り、強気でいっていいと考えます」

「でも、高句麗が落とされたら」

「ですから、早急にかつ大胆に、です」


 会議の後、葛城皇子は自室に僕を呼んで嬉しそうに言った。

「久しぶりに楽しかったぞ、鎌足」

「そなたの軍師ぶり、あのような姿を見るとゾクゾクする。稲淵に通っていた頃を思い出した」

「お褒めの言葉、ありがとうございます」

「やはり、そなたは国士無双の大軍師だ。何も変わっていない」

 ウットリした目で見るのはやめろ。いや、褒められるのは嬉しいが、国の危機的状況の時に、そんなことを言っている場合ではないんだから。

「それよりも、即位の件ですが」

 皇子は難しい顔をした。

「こうなったらお心を決めないと」

「その前に、皇太子だ」

「順序が逆です」

「大友皇子じゃどうしてもだめなのか」

「ええ、半島の戦さで多くの兵が死に、豪族の中にも不満が溜まっています。そのような時期に、無理に大友皇子を皇太子に立てても良いことはないかと」

「何か良い手はないか」

「ございますよ。聞きたいですか」

「もちろん」

「まずは弟君の大海人皇子を皇太子となされまし。それから、頃合いを見て内大臣のような役職を作り左右大臣の上に置くのです。その大臣は皇太子に準ずる地位とし、大友皇子を任命なさるのです。そうして大友皇子を皇太子にすることなく、皆の反発も抑えながらも政治の中枢にいて重要な人物となる」

「そなたが内臣となった時のようだな」

「ええ、私と交代という形でも構いません。それで大友皇子の政治手腕を周知させるのです。その後に大海人皇子から皇太子の座を大友皇子に譲ってもらうのです」

「うむ、悪くない」

「その間、政治に関わる大友皇子のお姿を人々に印象つければ、皇太子に任命してもさほどの異論が出ないでしょう」

 僕だって、自分の娘を嫁がせるのだ。歴史を変えてでも大友皇子を天皇にしたい気持ちはある。



 その後、我が国に百済や高句麗から大勢の難民が続々と海を渡ってきた。王族や貴族も多く亡命してきた。彼らの中には、高度な教育を受けた人間や、専門技術を持った人間も少なからずいる。

 僕はそうした人たちと積極的に交際し、学んだ。久々にチート能力をフルに使い、彼らが持ち込んだ書物を片っ端から読みまくった。律令作成やこれからの政治に役に立つ。

 葛城皇子も大友皇子のために、亡命貴族の沙宅紹明(さたくじょうみょう)を教師に雇っている。沙宅紹明とは僕も時々話すが、博識で話していて楽しい人物だ。白村江の戦いは負けたけれど、こういったことは怪我の功名といったところか。


 しかし、一部の皇族や貴族の中には、急激に入り込んだ大陸文化を危惧する声も聞かれた。

「最近の大陸文化をどう思われます」

 正月の祝賀行事を見ていると、たまたま一緒になった皇族の栗隈(くるくま)王が僕に話しかけてきた。栗隈王は有力皇族のひとりで、鏡王女と結婚してからはこうした皇族の人が話しかけてくるようになった。以前は挨拶しても無視する人もいたのに。

「最近は皆の間に漢詩を作るのが流行っていますが、私はどうもいただけません。内臣も和歌のほうが美しいと思いませんか」

 やめろ。僕は歌を作るのが苦手なんだ。「やったー、天皇から采女をもらった、わーいわーい(意訳)」と詠んだ歌を、僕の代表作として晒され続けてるんだ。マジで消したい黒歴史。

「ええ、まあ、今は一時的に流行っていますが、そのうちに皆さんも落ち着くのではないでしょうか」

「そうでしょうかね。皇太子は、大陸に傾倒しすぎではないかと思っているのですよ。律法も何もかも、大陸風に作り替えたいと思っておられるようで。このままでは我が国本来の文化が衰退するのではないかと、私は心配で」

「私も」

 僕は答えた。

「中臣という、古来神祇祭祀を司る氏の出身ですから、この国の文化を敬う気持ちは人一倍強いと自負しております。どんなに大陸の文化や風習が入ってきても、この国の民はこの国の神々を敬い、この国の文化を大切にしていくことには変わりないと思っておりますよ」

「そうですね、内臣や大海人皇子のような方がおられる限り、安心ですね」

「大海人皇子が? 」

「我が国の神々を疎かにしてはいけないと言っておられました。私も、先の天皇も皇太子も神々を蔑ろにしているのではないかと危ぶんでおりましたから、ほら、朝倉の祟りの話もありましたでしょう。その点、大海人皇子、なかなか頼もしいですな」

「ほお」

 栗隈王だけでなく、この国の文化の大陸化を危ぶむ人たちが、大海人皇子に心を寄せつつある気配を感じる。こうして徐々に壬申の乱へ向かうのだろうか。

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