飛鳥時代に転生した僕は 愛する皇子に命を捧げる

桃園沙里

第1話・転生

 僕はマサト。二十一歳大学生だ。都内でひとり暮らしをしていて、大学に通う傍らゲイバーでバイトをしている。

 中学生の頃、僕は自分がゲイであることに気付いた。女装するタイプではない。二十歳になり、思い切って今勤めているゲイバーの求人に応募した。この店ではクリエイターや会社役員、さまざまなお客さんと知り合えて、とても社会勉強になる。そんな環境に影響されて、僕も徐々に何かをしてみたい気になった。

 最近、高校時代の先輩が僕に「近い将来会社を立ち上げようと思っている、一緒にやらないか」と誘ってくれている。今、僕たちは資金を貯めている最中だ。


 そんな僕がピンチに陥った。僕がほとんど大学に行っていないことが両親にバレてしまったのだ。

 実家は東京近郊の都市で、父親は市役所職員、パート勤めをしている母親と、県庁職員の兄貴、高校生の妹がいる。地方公務員一家だ。

 父曰く「このご時世、公務員が一番だぞ。潰れないし、リストラもないし、地方勤務もない」と僕にも公務員を勧める。兄も、父に影響されて、安定した県庁を選んだ。僕から見たらふたりとも上昇志向がない、無難な人生を好む人種だ。


 仕方がないから、僕は実家に帰って両親と話した。

「大学に行けないほどのバイトとは、何をやってるんだ」

「……実は」

 これを機に思い切ってカミングアウトした。

「ゲイバーでバイトしてて、今まで黙っていてゴメン、僕は女性に興味がないし、将来結婚する気はない」

「……」

 両親は呆然としていた。

「僕、起業するつもりなんだ。それで資金を貯めるために、このままゲイバーで働きたいし、いっそ大学を辞めたいと思っている」

 すぐに気を取り直した父は、僕の気持ちを逆撫でしないようにか、理解ある父親を演じようと努力しているように見えた。

「いや、お前が男色だろうとそういうお店でバイトしようと、それはお前の自由だ。今から、将来のための資金を貯めようと言うのはわかる。だが、本気で起業しようと考えるんなら、大学をきちんと卒業し一般企業に就職して社会常識を身につけ、人脈を広げ、そこからだと父さんは思うよ」

 母は父と違って、半ばヒステリックになって言う。

「騙されてるのよ。それにね、今は若いからみんなチヤホヤしてくれるけど、あと十年、いえ、五年もすればおじさんになって通用しなくなるのよ。馬鹿なこと言ってないで、普通に就職するのが一番」

「僕だっていつまでも続けられると思ってない。それくらいはわかっている。だから若い今のうちにできるだけ多くのお金を貯めようと思ってるんだから」

「そんな考えは青いわよ」

「とにかく、大学を中退すると言うのは反対だ。父さんのお金で学費を払ってるんだ。大学だけは卒業しなさい」

 結局、大学を辞めることに関しては、保留ということになってしまった。

 

 実家に住んでいる兄貴が、車で僕を駅まで送ってくれた。

「起業したいんだって? 」

「うん」

「ふうん。でも、俺が思うに、マサトは社長向きじゃないと思うよ。どっちかっていうと参謀」

「……」

「お前、学生の頃から部活の副部長とかやってたじゃない。部長には他のヤツを据えて、陰の実力者的に部長を動かすタイプ」

「ぎくり」

 自分でもそんな気はする。まあ、兄貴は僕をよく見ている。

「ま、何にしても、もっと経営についてとか、いろいろ学んだほうがいい。大学は行っとけよ。今辞めても中途半端になる」


 バイト先のオーナーは、僕の気持ちをわかってくれ、大学を中退しても卒業しても資金が貯まるまでこのまま店で働けばいい、と言ってくれている。

 でも僕は、このまま惰性で大学に通っても意味はないと思う。今すぐにでも大学を辞め、起業の準備をしたい。

「勉強は、できるうちにしたほうがいいよ」

 そう言うのは常連客の窪田先生だ。何をしている人か知らないけど、和服をダンディに着こなし、先生と呼ばれてる。日本の歴史にめちゃくちゃ詳しくて、時々歴史の面白い裏話をしてくれる。窪田先生のおかげで僕は、趣味で歴史本を読んだりするようになった。

「よくさ、歳を取っても勉強はできるって言うじゃない。それは方便。俺はやっぱり若いうちにしたほうがいいと思うんだよね。ひとつには、歳をとると理解力、記憶力、頭の柔軟さが衰える。もうひとつは人生の楽しみだ。若い時から多くの知識を手に入れておくとその後の人生をより楽しめる。八十歳で手に入れた知識は数年程度しか楽しめないけど、二十歳で勉強しとけばその後何十年も楽しめるってわけ。大学は行っておいたほうがいいよ」

「ええ、そうなんでしょうね、でも」

「マサトくんが起業資金が足らないってんだったら、俺が出してあげるよ。もちろん無利子で」

「またまた先生、気を引こうとして。ただほど怖いものはないわよお、マサトくん」

 マスターがチャチャを入れる。

 確かに窪田先生が言うように、知識は多いほうがいい気はするけど。でも僕は……。


 その日の夜十一時頃、僕は店の買い物を頼まれて、夜の街を歩いていた。

「ええと、果物屋さんに行って……」

 ふと若い女の子がひとりで歩いているのを、目付きが怪しい男がしつこく声をかけている。妹のヒカルと同じくらいの年齢だろうか、こんな時間に若い女の子が危なっかしいなと思ってると、男が彼女の腕を掴もうとしている。彼女は払い除ける。

「ちょっと手助けするか」

 僕はわざとふたりの間に身体を入れて通り抜けた。とその時、僕の脇腹に痛みが走った。

「いってえ」

 男の手に大きなナイフが握られていた。

「きゃあああ」

 周りの人たちが騒いでいる。僕は立っていられなくなって、崩れ落ちた。

「誰か、救急車」

 ものすごく体が痛い。このまま、僕は死んじゃうのだろうか。両親にとってはこんな息子はいっそいなくなったほうがいいかもな。家は兄貴がいるから大丈夫。兄貴、頭良いくせにバカだから心配だ。ヒカル、変な男に引っ掛かるなよ。僕の代わりにたくさん親孝行してな。こんな僕でも最後は人の役に立ったから、それだけは誇りに思ってくれ。でもどうせだったら愛する人のために命を捧げたかった。ああ、そうだ、窪田先生と歴史ツアーに行く約束が……。

 周りの声が遠ざかっていく。

 僕は気が遠くなった。



 かすかに遠くから読経のような声が耳に響いてきて、うっすら意識が戻った。

 ああ、そうだ、僕は刺されたんだっけ。ここは、病院?

 それにしてもなんだかお線香臭い。

 読経の声がだんだん大きくなる。

 お葬式? まさかこのまま火葬されるんじゃないだろうな。いや、やめてくれ。

「いや! 」

 思わず叫んで目を開けた。

 読経の声がぴたりと止んだ。

「仲郎様」

 若い女性の声がした。

「おお、若様」

 男性の声も聞こえる。

「若様が目を覚ました」

 僕は上半身を起こそうとした。

 いくつかの手が僕の体にかかり、押さえつけられた。

「仲郎様、まだ起きてはいけません」

「今、薬師(くすし)様を呼びますから、無理はいけません」

 僕は黙って寝たまま、天井を見た。太い木の梁と藁の天井が見えた。

 しばらくするとドタドタと、足音が聞こえた。

「仲郎が治ったと」

 不思議な髪型の年配の男性が僕の顔を覗き込んで言う。まるで、教科書に載っていた「伝、聖徳太子像」の絵のような服を着ている。

「わしの顔がわかるか? 仲郎」

 僕は、客商売に従事する中で学んだことがある。わからないことがあったら、ただニコニコ笑って座っていろ。下手に喋ると失敗する。

 僕はただ微笑んで、男の顔を眺めた。

「わからないのか、仲郎」

「仕方ありません。若様はまさに死の淵を彷徨っておられたんです。まだ熱に浮かされているのでしょう」

「場合によっては」

 白い着物を着た男が言った。

「何もわからなくなっているのかもしれません」

「それは」

「治るかもしれませんが、治らないかもしれません」

「ああ、仲郎様」

「しばらくは薬湯を摂って様子を見ましょう」

 何の話? ここは何処? ってか、ナカロウって誰? もしかして、僕は……。

 転生した!



 その日は、僕はほとんどの時間を眠ったふりをして、皆が話しているのを聞いていた。

 部屋は狭めの日本家屋だ。板張りの床に、布の敷物とかが敷いてあって、衝立で仕切られた場所に僕は寝ている。布団は、畳とと布の敷物のようなものだから、寝心地は良くない。

 どうやら僕は、その家の嫡男で、目が覚めた時に現れた「殿様」と呼ばれている人が僕の父親らしい。母親は既に死んでいるようだ。僕は、皆が呼んでいる「ナカロウ」という名前なのだろう。長兄が若くして死んだので、僕が家を継ぐことになっていて、弟がふたりいるがまだ未成年、らしい。病気か何かで死ぬはずだった「ナカロウ」の身体に、僕の魂が入ってしまったみたいな感じだろうか? 

 しかし、ここがどこなのか、今がどんな時代なのか、全くわからなかった。家の感じは過去の日本っぽいが、皆、天皇の名前は言わないし、権力者のことも「大臣」という風に役職名でしか呼ばないから、誰の時代なのかとんとわからない。ただ「将軍」という言葉は聞かなかったから、将軍が治めている時代ではないのだろう。それだけでは大雑把すぎる。

 もし僕が本当に転生したのなら、チート能力があるはずじゃないか? 皆が話している言葉はわかるが、日本語だし、これがチートなのかどうかもわからない。もっとチートで色々な情報がわかるものじゃないのか? それとも、チートは限られた人間だけのものなのか? 


 二日目の午後、白湯を持ってきた少女に、僕は思い切って声をかけた。

「ここは……どこ? 」

「仲郎様、お話ししても大丈夫なのですか」

「少しなら」

「ここは、仲郎様のお屋敷ですわ」

 いや、そうじゃなくて。

 少女が急に不安な顔になった。

「私のことがお分かりになりますか? 」

 僕は何も言わなかった。

「私はこのお屋敷で仲郎様のお世話をしてるトヨです。まだお気持ちがしっかり戻られないのですね。長い間寝込んでおられたから……」

 トヨと名乗る少女は目に涙を浮かべた。

「僕は……、どのくらい眠っていたんだ」

「ひと月です。薬師様からはもうこのまま目を覚まさないかもしれないと、殿様は覚悟をなされておられました。本当に、よかったです」

「ひと月……」

「大丈夫ですよ、まだ目を覚まされたばかりですから、これからゆっくり元の暮らしに戻ればきっとお分かりになりますよ。あっ、でも、すっかり治るまでは、人には気付かれないようになされたほうがいいかもしれませんね。ええ、私ができる限りお力になりますから」

 どうやらトヨは気が利く娘のようだ。僕が頼まなくても、先回りして手配してくれる。こんな娘が傍にいてくれるのは大変心強い。

「僕はこれから、何をすればいいのだろう」

「無理をなさってはいけません。もう少し休まれてから徐々に体を動かしていくといいですよ」

 リハビリってやつか。

「それから、そうですね、お元気になられたら、いずれいろいろな方へのご挨拶を、軽皇子(かるのみこ)様からもお見舞いが届きましたので、他のどなたよりも先にご挨拶に行かれたほうがよろしいかと。珍しい水菓子をくださいましたよ」

 軽皇子様。誰だろう? 

「うむ、わかった。その時はまた頼む」

 僕はトヨに頼んだ。

「僕が眠っていた間の出来事、また話しておくれ」

 そう言って再び眠るふりをした。



 状況が全くわからないまま、僕は床払いをし、ゆるゆると普段の生活に戻るようにした。

 朝は夜が明けたら起床する。トヨが水を入れた手桶を持ってきて、それで顔を洗い、体を拭いてもらう。その後、朝食の重湯が運ばれてくる。お粥と野菜の煮物とかと漬物の簡単な食事。病人食のようだ。病人だけど。

 トヨは、僕の身の回りの世話をする小間使いらしい。まだ十代半ば、二十一世紀で言えば中学生か高校生、僕の妹のヒカルよりちょっと下くらいか。

「殿様が、しばらくはお仕事もお休みされるようにと。ですから無理をなさらず、ゆっくりと精をつけていきましょうね」

 その後、身体を拭いてもらった。

「お髭はどうなさいますか」

 元々の僕は色白でお肌すべすべ髭も薄いタイプなんだけど、顎を触ると無精髭っぽいのが生えてる。

「さっぱり剃りたい」

「全部剃ってよろしいのですか」

 あ、昔の人って、髭を生やすものだっけ? まあ、いいか。

「うむ、一旦、全部剃ってさっぱりしたい」

 すると、トヨは他の下男を呼んだ。下男は手に小刀を持っている。

 ヒッ。まさか、それで剃るって? 

 下男は、僕の顔に何やらわからない液体を塗ると、小刀を滑らせた。思ったよりちゃんと剃れる。イメージとしては、床屋さんの髭剃り、の雑な感じ。

 髭を剃った後は、トヨが髪の毛を櫛でとかしてくれた。

「こうして髭を剃って垂らし髪にしていると、まるでお姫様のようですね」

 トヨが手鏡を出して、僕の顔を見せてくれた。

 そういえば、転生してから初めて自分の顔を見ることになる。それまで脳内では元の自分の顔で再生されていたから、今の自分がどんな顔か気にしていなかった。というか、他に気にすることが多すぎてそこまで気が回らなかった。

 この時代の鏡は、銅板をピカピカに磨いたような代物だから、繊細な色合いや細部はよくわからない。でも、目鼻立ちはわかる。

 ドキドキ。

 鏡に映る僕の顔は、元の顔そのままだった。不細工な顔に生まれ変わったんじゃなくて僕は安心した。


 さっぱりしたところで、午前中は、庭や屋敷中を散歩した。歩く訓練をしているように見せかけて、敷地内を見て回っていた。板塀で囲われた土地の中に、母家らしき建物と離れがいくつか、馬小屋と、庭というか家庭菜園があり、そして僕の部屋である離れの建物がある。わりと裕福な家庭のようだ。

 家は木でできていて、板張りの床に布や藁か何かの敷物、部屋を遮る壁はほとんどなく、木の戸を開け閉めして、或いは屏風のようなもので仕切る。部屋の外側には廊下が続いていて他の部屋に繋がっている。離れの僕の部屋は狭く、木製のシンプルな机と椅子と書棚が置いてある。庭から見える山や木々の雰囲気と気温からして、今の季節は秋か春だろうか、薄い肌着一枚でも寒くはないし、動けば汗ばむ陽気だ。

 散歩したりしている間に昼食の時間になって、膳が運ばれてくる。

 昼食も質素だ。まず濁り酒と、酒の肴というか、おかずは小さな焼き魚と青菜のおひたしのようなもの。蕪とか大根とかの漬物、麦ご飯っぽい茶色いご飯に、焼き味噌のようなものを乗せて食べる。それから 菜葉の汁。全体的にしょっぱくて、味噌と漬物の塩分でご飯を食べる。これ、健康に悪いでしょ。それにしても肉がない。焼肉。唐揚げ。ハンバーグ。肉が食べたい。病み上がりだし、もっと栄養つけたいのだが。

 僕が、モリモリと勢いよく食べ始めるとトヨに注意された。

「仲郎様、そのような食べ方は卑しい者のすること。もっとゆっくり丁寧になされませ」

 丁寧に、と言われても、どうやって? 

 仕方ないから、ちょびちょびとよく噛んで食べてみる。

「申し訳ありません、私がお話のお相手をできないからですね」

 いやいや、そんな意味じゃない。

「いや、ちょっと、腹が減っていて、うっかりしていた」

 この時代の作法が全くわからない。


 昼食の後は、まったりした後、部屋でスクワットや筋トレを少しした。ずっと寝ていたから体力が落ちているのを実感する。また庭を散歩しているうちに、日が暮れ、昼食と同じような夕食の準備がされた。下男やトヨからその日の報告を聞いたり話をしながらゆっくり食事をし、終わると寝る。

 就寝時間はめちゃくちゃ早い。朝が早いから当然と言えば当然なのだが。夜更かししてもすることがないから、とっとと寝るしかないような暮らしだ。正直言って退屈だ。

 ここに住んでいるのは僕と、父親である「殿様」と使用人だ。弟ふたりは別邸に住んでいる。使用人は「爺」と呼ばれる執事のような人、その息子らしき御庭番ぽい人、殿様付きの年配の小間使い、僕の担当小間使いのトヨ、他にも下女と下男、馬番、料理人など数人だ。

 しかし相変わらず、僕は自分が誰なのか、ここはどこで、いつ頃の時代なのかわからなかった。

 何か手がかりになるものはないか。僕は部屋の書棚にある本を開いてみた。

「漢字ばかりでしかも達筆すぎて何も読めない」

 ……と思った瞬間、頭の中にサアーッと風が吹いたように、本の内容が脳内に再生された。これは儒教の教えの本だ。まるで「五分でわかるビジネス本」のように内容が頭に入ってくる。もしかして、これがチート能力なのだろうか? 

 結局、僕が誰なのか、手がかりは見つからなかったけど、この能力は今後多少は役に立つかもしれない。



 翌日も庭を散歩していると御庭番のような男性が言う。

「剣と弓矢の練習はもう少し体力が戻ってから始めましょう」

 小間使いのトヨは、その御庭番の娘らしかった。

「叔父上の国子様が心配しておられました」

 トヨは人物や関係をさりげなく説明してくれたりする。国子とは僕の叔父なのだな。

「国子様は、もし仲郎様に何かあったら、ご自分が中臣氏の跡取りとなられるおつもりだったのでしょう」

 そう、中臣氏の跡取り。え? 

「中臣氏の? 」

 中臣って、僕は中臣仲郎という名前なのか? 中臣氏って聞いたことあるけど、中臣仲郎は聞いたことない。僕が知っているのは中臣鎌足だけだ。たしか、中臣鎌足は中大兄皇子と共に乙巳の変を起こして、大化の改新を行って、死ぬ時に「藤原」姓をもらった藤原氏の祖だ。ということは、僕は中臣鎌足の親戚な感じ? こんな時、窪田先生がいてくれたら……。

「ええ、国子様はきっと神祇伯になりたいのです」

「あの、殿様の名前って……? 」

 トヨの顔が一瞬曇った。やっぱ、これは訊いちゃまずかったか。

「……殿様は、中臣宗家の主人、中臣御食子(なかとみのみけこ)様です。亡きお母上は大伴智仙娘(おおとものちせんのいらつめ)様。中臣氏は代々神祇の祭祀を司る家系で、御食子様は神祇伯(かむつかさのかみ)という、神祇職の最高位に就いています。仲郎様は現在、お父上の下で神祇祭祀の勉強をなさっている身ですが、いずれは中臣本家を継がれます」

 うわあ、親切にどうもありがとう。父親が中臣御食子、その弟が国子、僕が仲郎。いいとこのボンボンか。じゃ生活に困らないんだ、ラッキー。じゃなかった、それで叔父の国子がその地位を狙ってるってことか。

「変なことを訊くけど、今の天皇って誰」

 トヨは困った顔をした。

「天皇は天皇でございます」

 ああそうか、天皇は名前で呼ばれないんだっけ。二十一世紀でも「今上天皇」って呼ぶのが正式だもんな。僕らが知ってる名前は諡号なんだよな。

「では、先代の天皇の名前は」

「……申し訳ございません。私にはわかりません。父か祖父ならわかるかも……」

「いや、こっちこそ変なことを訊いて済まなかった。……では、大臣はわかるかな」

 トヨの顔がパッと明るくなった。

「蘇我大臣でございます。蘇我毛人(そがのえみし)様」

「なるほど、わかった。ありがとう」

 僕はニコッと笑って返事をした。

 蘇我毛人。聞いたことがある。たぶん蘇我馬子の息子で、入鹿の父親だ。入鹿はわかる。有名な乙巳の変で殺されたヤツだから。その時に父親の毛人も一緒に殺されたんだと思うが。

 ということは、今は乙巳の変より前、飛鳥時代か。窪田先生がよく話してくれた時代だ。天皇は誰だ? まさか舒明天皇じゃないだろうな。


「飛鳥時代はね、舒明天皇が死んだら一気に時代が動くんだ」

 窪田先生が話していた。

「この時代、最も権力を持っているのは大臣である蘇我氏なんだ。舒明天皇は蘇我氏の傀儡天皇になるべく、蘇我氏によって立てられた天皇なんだよ。どの時代でもあるでしょ、そういうの」

「はあ」

「聖徳太子が推古天皇の皇太子で摂政だったことは、知ってるよね」

「はい」

「本来なら推古天皇が死んだら聖徳太子が天皇になるはずだった。でも、推古天皇より先に聖徳太子が死んじゃった。それが混乱の元で」

「数年後に、推古天皇が後任の皇太子を決めないまま死んだもんだから、次の天皇を誰にするかって時に、あ、その時代って天皇は嫡子継承って決まりはなかったんだ、子供より先に弟だったり、候補者の皇子たちの中から、大臣を中心とした豪族の代表たちが話し合いで決める感じ。この頃まではね」

「で、推古天皇が死んだ時、大臣蘇我毛人がまとめ役となって、次の天皇を誰にするか、みんなの意見を調整したんだけど、その時の候補が田村皇子と聖徳太子の嫡男山背皇子のふたり」

「蘇我氏は聖徳太子が死んだ時点で次の天皇のことをちゃんと考えててね、次の天皇は山背皇子じゃなくて田村皇子にするつもりで毛人の妹を嫁がせた。そしてその娘は第一皇子を産んで、田村皇子が天皇になれば毛人の甥っ子にあたるその子がその次の天皇になり、蘇我氏が外戚として天皇を動かせると考えたんだ。だけど聖徳太子は人気が高かったから、山背皇子を天皇にするべきだと言う人もいて、揉めに揉めて、でもまあ結局、田村皇子が即位した。それが舒明天皇。その舒明天皇も、蘇我毛人の甥っ子の第一皇子が十分な年齢になる前に死んじゃって、そこからだね」

「……このまま永久に話し続けちゃいそうだから、この辺にしとくよ。でももし、その時、田村皇子じゃなくて山背皇子が天皇になってたら、歴史は全然変わってただろうね。歴史に、もしも、はないんだけどね」

 窪田先生は酒が入って少し喋りすぎたことを照れ臭そうに笑みを浮かべた。


 で、乙巳の変の時の天皇って誰だっけ? 舒明天皇? 舒明天皇の次って何天皇?  窪田先生に舒明天皇が死んだ後の話、聞いておけばよかった。前の天皇の皇太子が聖徳太子なら、今は舒明天皇で決まりなんだが、もう一度訊くか? 

「どうなさりました? 仲郎様」

 トヨが心配そうな顔をする。

「あ、いや、」

 これ以上、彼女を困らせるのはやめよう。



 その日は、仕事を終えた殿様が一緒に昼食を取ろうと誘ってきた。

 この間、トヨに注意されたこと、食事は時間をかけて食べることを心がける。

 昼食はあいかわらず質素だったが、多少、おかずが多い。おっと、待った。そこにあるのはお肉じゃないか? 切ったお肉の炙りっぽいのが皿に三切れ乗っている。

 待ちに待った肉、うめえ〜……くない。何これ獣臭い。何の肉だ? 野生の肉ってこんなの? 僕はジビエ料理は食べたことないけど、たぶん、二十一世紀のジビエはちゃんと下処理して臭みを抜いて美味しい味付けされてるんだ。これはかなり獣。味付けは塩だけ、思いっきり肉本来の味を味わってください的な。野獣。いや、もう、わかりました。肉はいりません。焼肉のタレをください。むしろ野菜に焼肉のタレつけて食べたいです……。

 殿様は濁り酒をちびちび飲み、傍にいる召使いと話をしながら食べている。間が持たない僕は、仕方ないから汁を啜るふりをしたり、ご飯をひと匙ひと匙よく噛んで食べたりした。

「そなたの婚姻のこともそろそろと思っておったが、もう少し先になりそうだな。今は身体を治すことが先だ」

 殿様は小柄で顔に皺が多く、五十代かな、もしかしたら六十代、僕の父よりはずいぶん年配に見える。穏やかな物言いで、優しそうな人物だ。

 殿様が肉に箸をつけた。

 ……あ、別皿にあるネギ味噌みたいなのを肉に乗せて食べてる。そうですか、それが正解ですか。

 僕も殿様の真似をして食べる。

 おお! これならいける。いわゆるタン塩にネギ乗せて食べる的な。味噌の味もいい。味噌、ありがとう、なんと素晴らしい調味料よ。そういえば醤油みたいなのもあるし、日本人って古代からグルメなんだ。

 殿様は僕がそんなことを考えているのを全く知らずに、話しかけてくる。

「天皇も、相変わらずお身体の調子が良くないらしい。また湯治に行かれるとか。そなたも温泉に行くのもよいかもしれぬ」

「天皇はどちらへ行かれるんですか」

 なんとなく話を合わせるのは得意だ。

「また有馬だとか。近頃じゃ、京より有馬にいる時間のほうが多いんじゃないか、と皆も言ってるが、行くなとも言えないからな」

 僕は無言で頷く。だから、今の天皇って、誰? 舒明天皇なのか? そこんとこすごい重要なのだが。

「そういえば、この間も話したが、旻法師(みんほうし)が開かれた学堂だが」

 えーと? ミンホウシ。蝉の名前みたい。なんだか聞いたことがあるような無いような。

「早速、豪族の子弟が挙って飛鳥寺に講義を聴きに行っているらしい。鞍作臣(くらつくりのおみ)も行かれたとか。身体が良くなったらそなたも行ってみるがよい。きっと面白かろう」

「はい」

「知識と教養を身につけるのは大事なことだからな」

 窪田先生と同じようなことを言う。僕は学ぶことは嫌いじゃない。勉強を勧める殿様はきっと悪い人じゃないと思う。窪田先生は今頃どうしているだろうか。

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