第2話・人の顔を覚えるミッションその一
「お支度ができました」
僕の髪の毛を結ってくれていた小間使いのトヨが言う。
今日は午後から軽皇子の宮へ行く。僕が病気で寝込んでいる間にお見舞いをもらったらしいから、そのお礼の挨拶だ。
「軽皇子様の宮へは、一度伺ったことがありましたね。姉君が皇后に立たれたお祝いに、殿様の代理として。もう何年前になりますでしょうか」
あいかわらずトヨはさりげなく状況を教えてくれる。本当、助かる。
「その時以来、殿様が毎年年末にご挨拶を届けているのを気にかけてくださっているのでしょう。律儀な皇子様です」
姉が皇后の皇子。窪田先生ならきっとすぐわかるのに。でも、姉の夫が天皇ということは、今の天皇は推古天皇ではないことがはっきりした。
「軽皇子様はまだ独り身なのですよね」
「へえ」
「聞いた話では、子供の頃のご病気が原因で少し足を引き摺るような歩き方をなされて、人が見ても特に気にならない程度らしいのですが、ご本人はそれを気にしていらっしゃるのか、あまり人前に出たがらないとかで」
引きこもりってやつか。この時代にもいるんだな、そういう陰キャ。
「殿様も他の皆さんも、それまで軽皇子様のことをよく知らなかったらしく、姉君が皇后になられて、ようやく軽皇子様が独身であることに気付いたほどだと聞きました。そんなですから、ご結婚の話も今までなかったらしいですよ」
「お歳はどれくらいなの」
「さあ、わかりませんが……。でも、父たちが言うにはちょうど年頃の娘がいないらしくて」
トヨは言う。
「どこの家も女子は貴重ですから、他の、皇太子の古人大兄様や、大臣の家や、もっと良い所に嫁がせたいと考えますでしょう」
シビアな世界だ。
それにしても、この時代の服装にはまだ慣れない。元々、和服も着たことのない僕が、ああ、七五三で羽織袴みたいなのを着たっけ、でもそれともまた違うタイプの、ダボダボした丈の長いパンツと、膝丈ぐらいの丈の長いボタンのないジャケットみたいなのに先の尖った革靴、ちょっと今(二十一世紀)風でかっこいいと言えばかっこいいが。トヨが着させてくれるけれど、とにかく動きにくい。ゴムもファスナーもない時代だから、紐で縛るか腰の帯で止めて、ちょっと乱暴に動くとすぐに前がはだけてしまう。でもまあ、基本、シャツとパンツだから、江戸時代とかの着物よりはシンプルだし洋服に近くてマシかもしれない。
天皇の宮に行く時や公式の場では、上着の色もきっちりと決まっていて、帽子も被るらしい。
今日は私的なお出かけだが、一応、皇子の宮へ行くのだから正式な礼装ではないとしても、そこそこちゃんとした格好で行く。雑誌によく載ってる「彼女の両親に挨拶に行く服」みたいな感覚。その辺は、トヨに全てお任せだ。
「とてもよくお似合いですよ」
トヨがにっこり笑う。僕は女性に恋愛感情を抱いたことはないし、この時代の美醜の基準はわからないけれど、トヨは可愛いと思う。とびきり美人ではないが、あたたかく愛嬌のある顔をしている。性格が現れるというのはこういう顔なのだろう。
軽皇子の宮は、僕の家から歩いて十五分くらいのところにあった。
殿様が「病み上がりだから馬を貸そうか」と言ってくれたが、馬なんて乗ったことないから「運動がてら歩いて行きます」と断った。そのうち馬に乗る練習をしなきゃダメだな。
従者が快気祝いの品を、といっても野菜類なのだけど、ザルを持って後をついてくる。
周りはのどかな田舎の風景だ。「日本の原風景」みたいだ。チート能力なのか、僕はまるでストビューで見たことがある街のように道を知っていた。
今が飛鳥時代だとすると、たぶんここは奈良県の明日香村なんじゃないかと思う。中学の修学旅行で奈良に行ったことがあるけど、明日香村には行ったことがない。東大寺の大仏と奈良公園の鹿、法隆寺くらいしか覚えてないが、全然イメージが違う。道が狭い。舗装されていない。当たり前。
秋らしい高い空の遠くに山が見え田畑が広がり、所々に板塀で囲まれた茅葺き屋根の家があったり、本当にこんな田舎が天皇が住む京なのか、と不思議な気がする。
「この度は、お見舞いをありがとうございました。この通り、良くなりましたのでご挨拶に伺いました」
深々と頭を下げて挨拶をする。
「うむ、もうすっかりよいのか」
「はい」
そう言って顔を上げ軽皇子の顔を見た。皇子はちょっと神経質そうな目つきのふっくらとしたおっさんだった。僕よりだいぶ年上と思われる。
皇子が息を呑む気配がした。
この目を僕は知ってる。これは好みの美少年に一目惚れした目だ。ははあ、一度会っただけの豪族の息子が病気になったからって、わざわざお見舞いをくれる理由がわかった。
「……、それは……、よかった」
僕はわざと何も答えず、微笑んだ。髭を剃ってきてよかった。
「え、と、その……」
皇子が頬をほんのり染めてたじろいでいる。僕はなんだか楽しくなってきた。
「あ、あ、そうじゃ、そちは、碁は好きか」
ゴ?
「我は舎人を相手に碁を打っておるが、同じ相手では飽きてしまう。そなたはできるか」
碁を打って、ああ、囲碁のことか。小学生の頃、漫画に影響され、友人と市の囲碁教室に通っていたことがある。中学校に入ってからは行かなくなったが、ルールはわかる。
「未熟ではございますが、少しならば」
「ほう、なら、少し手合わせしまいか」
「皇子、これから天皇の宮で」
脇で控えていた侍従らしき男がキツい口調で口を挟む。
「おお、そうじゃった、仕方ない。どうじゃ、また来るか」
「はい、いつでもお召しください。すぐ参上いたします」
「うふふ」
家に帰った僕は、つい思い出し笑いをした。
「楽しそうですね。何か宮で良いことがあったのですか」
トヨが僕の足を拭きながら言う。
「いや、このところずっと家に籠っていたから、外に出たのが嬉しくて」
「それはようございました。お顔の色も随分良くなられましたね」
トヨは心から喜んでくれているようだ。いい娘だ。
「そうそう、お留守の間に石川麻呂様からお見舞いが届きました」
石川麻呂様? また知らない名前。誰だ。わからない。
僕の表情を読んだのか、トヨが説明をする。
「蘇我倉山田臣石川麻呂(そがのくらのやまだおみいしかわまろ)様ですよ。石川麻呂様は蘇我大臣の甥っ子にあたられますのに、なかなか重要な役に任ぜられないそうですね。やはり本家と分家は大きな差があるのですね」
ええと、蘇我大臣というと、蘇我毛人だったか。石川麻呂とやらは毛人の甥っ子か。
「入鹿様があんなに威張っておられるのに、あ、今のは聞かなかったことにしてくださいね、石川麻呂様はお人柄も良いのに、お気の毒になるくらい本家にお気を遣われてて」
蘇我入鹿。ああ、入鹿の悪い評判は二十一世紀にも届いてるよ。
「仲郎様も入鹿様のご機嫌を損ねませぬよう、くれぐれもお気をつけくださいましね」
今の時代のナンバーワン権力者は蘇我大臣だ。蘇我大臣とその息子入鹿に逆らってはいけない。そこまではオッケー。
「そういえばトヨは、石川麻呂様の顔、知ってる? 」
トヨは何かを察したかのように微笑んだ。
「ええ、石川麻呂様も、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)様たちも存じております。落ち着かれましたらまたお食事に誘ったらよろしゅうございますね。私、人の顔を覚えるのだけは得意なのです。いつでもお力になります」
なるほど、その人たちとは食事をするような間柄なのだな。
「うん、頼む」
「石川麻呂様や大伴長徳連馬飼(おおとものながとこのむらじうまかい)様にはお見舞いをいただきましたね。大伴様は仲郎様の叔父上ですけれど、石川麻呂様もまるで仲郎様を甥っ子のようにかわいがっておられて。お優しいお方にあられます」
ふむふむ、石川麻呂は叔父さんほどの年齢か。トヨは本当に役に立つ。きっと、彼らと会った時もきっと、さりげなく顔と名前を教えてくれるんだろうな。僕が社長なら給料上げてやりたい。
それにしても知らない名前が次々出てくるし、みんな名前長くて覚えらんないな。
「あら、噂をすれば石川麻呂様」
顔を上げると、庭を通って男性が歩いてくる。
「やあ、だいぶ顔色が良くなったようじゃないか」
殿様よりは若めの年齢だろうか。トヨの話の通り、気さくで人が良さそうな男だ。殿様と同じような空気を感じる。
「ええ、おかげさまで。お見舞いをありがとうございました」
トヨが横から僕に言う。
「仲郎様、直に夕餉になりまする。よろしかったらご一緒に用意させます」
僕は石川麻呂の顔を窺った。
「いや、いい。これから宗家に顔を出さねばならぬ。そなたの元気な顔を見たくてよっただけだ」
「では、いずれの機会にお誘いしましょう」
「うむ、是非」
とりあえず、石川麻呂の顔を覚えた。ひとつミッションクリア。よし。
こうしてだんだん、此処の暮らしに慣れていくのだ、僕は。
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